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日誌・178 鬼に成った
彼女が、教授と呼ばれる所以が、なんとなく雪虎には理解できた。
グロリアは、相手に理解させる努力を惜しまない。
正確に相手の能力を把握して、その上で決して侮らず、相手の理解力に合わせて、惜しまず言葉を重ねる。
彼女自身が生まれ持った特異な能力も、通り名の由来であるのかもしれないが、何より、教え導こうとするグロリアの態度が、皆の信頼を寄せるに値するのだろう。
ゆえに、教授と呼ばれる。
グロリアの言葉は、今まで雪虎相手に教鞭をとったどんな教師よりもきちんと、雪虎に納得させた。…残酷なほど。
黙した雪虎を気の毒そうに見遣り、彼女は嘆息。
「なにより、もう手遅れだね。…彼はとっくに、月杜の鬼に成ってしまっている」
芯までキミのものだよ、と。
グロリアはきっぱり告げた。
あえてそうした、そんな気がする。
…雪虎は。
投げ出すこともできず、受け止めた、上で。
「―――――…本当に」
それでも、雪虎は足掻いてしまう。泣きたい気分で、尋ねた。声も頼りなく揺らいでしまう。
「本当に、手はないのか?」
なにせ、…雪虎が本当につらいのは。
秀と雪虎との間に、これからもずっと一生、鬼と『祟り憑き』の壁がついて回ることだ。
であるならば、ただの秀と雪虎として。
…一個の、人間として、一対一で向き合うことは、決して、ない。
今、そう最後通告を受けたのと同様だったから。
(ああ、そうか)
つまり、雪虎は。
向き合いたいのだ。秀と。ただの個として。人間として。
その上で、どうするかを…どうなるかを、決めてほしい。
秀に。
雪虎自身の心は、もう定まっているから。
秀のことは、認めている。決して、嫌ってなどいない。かなうなら。
子供の頃のような、屈託ない気持ちで、向き合えたなら、どんなに―――――嬉しいか。
右近と左近は、どうしてそこまで、といった表情を、もう隠すこともできないのか、不安げに雪虎を見ていた。
傍から見れば、雪虎の、…望みは。
ただ単に、月杜と縁を切りたがっている、そんなふうに思えるのだろう。
今までの雪虎の態度が態度だ、それも仕方がないけれど。
本当のところは―――――逃げるとは逆の意味で、雪虎は、伝承から自由になりたいのだ。
グロリアは、心底、困った顔になって、一言。
「…逃れたいのならば、業を断つほかないね」
雪虎は、目を瞠った。縋るように、顔を上げる。
いつの間にか、俯いていた。
とたん、グロリアは、両掌をぱっと、彼に向ける。
雪虎を制するように。
「だが、業とは何か、分かっているかね? 先祖代々積み重なった肉体の業、そしてキミがキミとなる前に輪廻を重ねてきた魂の業。すべてを断つのに、何が必要と思う」
なにやら重そうな話だ。
だが、ここまで聞いたなら、雪虎も退けない。
「教えてくれ」
グロリアはどういう意味でか、首を横に振って、
「『正しい形』で勝てるとしたなら、必要なのは、一つだけ」
真顔で告げた。
「『愛』だ」
「愛」
思わず繰り返した雪虎は。
「…………………」
まじまじとグロリアを見つめた。からかわれたのだろうかと思う。
とたん、彼女は心底悔しそうに、憮然となる。
拗ねたような表情は、とても愛くるしいだけなのだが。
「私とて、こればかりはどうしようもないね。だが、どう考えてもこの答えしか用意できないのだよ」
その結論しか出ないことが、グロリアにとっては、いかんともしがたい敗北であるような態度で、彼女は続けた。
「ただしこの愛は、巷で言うところの男女の恋愛ではないよ。キリストがいうところの愛であり、仏陀がいうところの慈悲」
淡々と語り、グロリアは首を横に振る。
「不可能、とは言わないが、不可能に近い」
言葉で聞いただけでは、雪虎には理解できない。
説明されたところで、実感として雪虎に分かることは何一つなかった。
少なくとも、快刀乱麻を断つごとく、今すぐすっきりと解決できる都合の良い方法など、ないのは分かる。
ただ、これだけははっきりしていた。
「…なんにしたって、今までみたいに」
しずかな心地で、雪虎は呟いた。
「会長を避けてるんじゃだめだってことか」
「…ああ」
グロリアは、その一言で何を察したか、
「そこからかね」
遠い目になる。
道のりは長そうだ、と言った態度。
気を取り直したように口を開く。
気まずげに、話題を変えた。
「なんにしろ、『祟り憑き』に、守護はどうしても必要だよ」
「なんでだ?」
雪虎は心底不思議な気分で尋ねた。
「必要ないだろ。もう俺の中から祟りも消えたんだし。俺は普通に生活してるだけだぞ」
殺伐とした中学の頃ならともかく、今の雪虎は、一般的な社会人に過ぎない。
秀も雪虎を守るべき対象と言ったが、雪虎には守られるべき理由がないし、普通に生活している以上、たいした危険もない。
「…普通」
胡乱な声で、グロリアは繰り返す。
なにやら諭すような声で続けた。
「自覚がないようだから言わせてもらうが、今回のような騒動が、初めてではないような態度を取っている時点で、おそらくトラくんは一般的な人物とは少しかけ離れているね」
彼女の言葉に、不思議と説得力を感じて、雪虎は少し黙る。
胸に手を当て、よくよく考えてみる間にも、グロリアは畳みかけた。
「月杜家の『祟り憑き』であり、かつ、御子柴家と縁を持ち、死神とも浅からぬ付き合いのようだね。…しかもあの荒神―――――ああいや、そう、…穂高家ともとっくに縁が築かれているようだ。これで平穏に過ごせるものか、もう一度よく考えてみるのだね」
雪虎は、胸に手を当てた姿勢のまま、少し固まる。
…言われてみれば確かに。
何事もなく一年が過ぎたということはない気はしたが、いつものことなので、特筆すべきこととも思っていなかったが。
今年身の回りで起きた物事など、まだ可愛い方だろう…と感じていること自体が、もう普通ではないのかもしれなかった。
黙り込んだ雪虎は、ふ、と顔を上げる。
地下へ続く、入り口の方へ。
何かに呼ばれた気がしたのだ。直後。
作務衣姿の双子が畏まり、丁重に頭を下げる。
同時に、グロリアが雪虎と同じ方へ顔を向けた。
刹那。
「…なぜここにいるのだね、教授」
―――――低い、静かな声が、地下の空間に、穏やかに響く。
それだけで。
場の主役は、一変した。
月杜秀。
ゆっくりと、その長身は地下牢の外へ現れた。
月杜邸の主だ。
相変わらず、見上げるほどの長身。
分厚い身体。
ただ、今は昨日と同じスーツ姿のせいか、一瞥だけだと、細身にも見える。
頭が小さく、身体のバランスがいいせいだろう。
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