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日誌・179 逆なら有り得る
「おや、ようやくお戻りかね、御方」
物静かだが、確かな威圧のあった秀の声音に、グロリアは臆した様子もない。平然と応じた。
自然体で立ち上がる。
深く頭を下げた双子は、逆に、岩のように固まって、動かない。
現れは微かだったとはいえ、主人の怒りの気配を感じたからだろう。
「遅かったね?」
揶揄するように、グロリア。ただし、返事は期待していない態度。次いで、雪虎へ視線を向けた。
「おかげで、彼への謝罪はできたが」
「謝罪、かね」
秀も牢の中の雪虎を見遣る。
いつもと変わらない表情に、かえって、雪虎は臆した。
ふい、と顔を背けてしまう。
すぐ、違うだろう、と内心、悶絶。長年の習慣というものは、かくも抜けにくいのか。
そうしながらも、胸の内で、首を傾げた。
(会長の服…最後に見たのと同じ格好…だよな?)
では秀は今まで外にいたのか。―――――何をしていたのだろうか。
秀は雪虎の態度を気にした様子はない。ただ、雪虎の顔に視線を向け―――――、
「ああ」
何かを諦めたような、それでいて納得したような、微妙な態度で小さく息をついた。
「…やはり、解けたか」
呟き、牢内全体をざっと見渡す。
雪虎の見えない何かを見ているような態度に、雪虎は違和感を覚えただけだが、
「まさか」
何を察したか、グロリアは呆れた目を向ける。
「ここに、何かを仕掛けていたかね」
「…なんだって?」
仕掛け、という言葉自体が、穏やかではない。
聞き捨てならない言葉に、雪虎が不穏な声を上げれば、
「いや無論、月杜の鬼が『祟り憑き』に害をなすことをするわけがないが」
グロリアがちらと雪虎を横目にした。宥める態度。
少女の様子に、雪虎は黙然と口を閉ざす。
見た目通りの存在ではないとはいえ、小さな女の子に気遣わせるとは、自分が情けなくなったのだ。
雪虎の落ち込みには構わず、
「だからこそ」
グロリアは強く続ける。
「『逆』なら有り得る。…トラくんは伝承から逃れたがっていたが」
―――――その言葉に、雪虎は目を瞠った。黙したままの秀を見遣る。
「彼を月杜から…伝承から解放する何かを、ここに仕掛けたのかね」
秀は答えない。ただ、目を伏せた。
雪虎は思わず真顔になる。これは。
(…やったな)
どんなものか分からないが、落ち着かない気分で雪虎は周囲を見渡した。
そんな手段があるのか、と喜ぶ気持ちはない。湧いたのは不安だ。
確かに雪虎は、伝承から自由になりたいが、それは力づくでは意味がない気がするからだ。
大本から解く、根から枯らす。
そうしてこその、本当の自由だと思うのだ。
我ながら面倒くさいことだ、と雪虎は内心自嘲。
「愚かだね」
グロリアは、小さな指を、眉間に押し当てる。
「月杜の『祟り憑き』に、小手先の術など通らない。触れるだけで、胡散霧消する。承知だろう? ゆえに、月杜の『祟り憑き』は畏れられるのだ。―――――鬼よりも」
言うなり。
「ああそうか」
たった今、何かを思いついた、と言った態度で、グロリアは雪虎を見遣った。
「もしかすると」
いきなり、牢の外から、木格子の隙間へにゅっと腕を突っ込んでくる。
「トラくんと握手などすれば、私にかかった術式も解けるかもしれないね」
「あ?」
思わず顔をしかめる雪虎。
わくわくしたグロリアの表情は可愛らしいが、言っていることが、とことん物騒に感じたからだ。
なにせ。
グロリアにかかった術が解ける、ということは、不老不死の効果が消滅するということだ。
即ち。
ただ人に戻ったグロリアは、摂理通り―――――死を迎える。
「試してみないかね」
「遠慮する」
グロリアの誘いに、雪虎は即答。
人殺しにはなりたくない。
「…今の問題はそこじゃないだろ」
雪虎は秀を見遣った。
視線に応じるように、秀は周囲へ低く告げる。
「…出て行きたまえ。全員」
邪魔と言わんばかりの声に、
「―――――あとで時間はもらえるかね」
半ばあきらめた表情で、グロリアは言った。秀が何かを言いさす。それを遮る形で、
「悪いな、教授」
雪虎がグロリアに声をかけた。
「先に、俺に会長を貸してもらえるかな。必ず、あとでキミのところへ行ってもらうから」
「…まあ、それが良いだろうね」
実際、グロリアにとってはそれが最善だ。
分かりにくいが、秀がささくれ立っているのは察せる。宥められるのは、雪虎しかいない。
秀が落ち着いた後での会話の方が、ずっと実になるだろう。雪虎は生真面目に言った。
「先に約束してたんだろ? なのに、ごめんな」
「気にするな、構わないよ。待つのは慣れているのでね」
逆に助かった心地で、グロリアは踵を返す。
「…すぐ終わらせる」
牢の中で、立ち上がりながら雪虎は言ったが、グロリアは曖昧に頷いたのみにとどめた。
彼女は少なくとも、一日は待つだろうと思ったからだ。少女の後に従う形で、右近と左近も地下を後にした。
どうせ追い出すのなら、どうして双子をここに控えさせていたのか、と雪虎は不思議に思ったが、余計なことは言わずに黙っていた。
実のところ、彼らをここに控えさせていたのは秀だ。
…彼は怖かった。
雪虎が逃げ出すことが。つまりは、双子は雪虎の見張りである。
雪虎が知れば、あきれ果てただろうが、秀は本気だ。
あとは、消極的な理由として、黒瀬が、あの場所で目覚めて一人では混乱するでしょう、と進言したのもある。
その場で立ち上がった雪虎は、去っていく三人の気配を感じながら、秀を睨み…そうになり、寸前で目を閉じた。いや、違う。
習慣で行動してはいけない。
―――――別に、秀に雪虎への敵意はないのだ。
雪虎からの、一方的な妬みと反感があるだけで。落ち着け、と雪虎は大きく息を吸い、ゆっくりと吐きだした。
目を、開ければ。
秀は、おとなしく待っていた。…思えば、いつもこうだ。秀は、雪虎の行動を待っている。
それは彼の余裕の表れかと思っていたが。―――――逆、なのだろうか?
…やりにくい。
しかしこの、閉じ込められている状況は、我慢がならなかった。
それでもどうにか平常心を保ち、秀を見つめ返せば。
なにか、秀が微かに目を細めた。眩しそう、と見えたのは、…気のせいだろうか。
なんにせよ、見つめあって、探り合っていてもらちが明かない。
雪虎は口を開いた。
そして、直球。
「出してください」
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