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日誌・180 永遠に出られない
「出してください」
対する秀も、誤魔化しも言い訳もなく、
「できない」
真っ直ぐ、返事を投げ返した。
木格子の向こうから見つめてくる視線は、生真面目。
この目は、本気だ。雪虎は大きく息を吐きだす。
今までのように、一方的に、秀の考えを雪虎の考えだけで決めつけてはだめだ。
だから、真っ先に尋ねた。理由を。
「なぜです」
そうまでして、なぜ、雪虎をここにとどめおきたいのか。
地下牢内部を、雪虎は一瞥。
(…まるで、隠すみたい、だよな)
だが、何から。
何かの仕掛けが施されていたようだが、どうやら今は無効になっているようだし―――――雪虎に自覚はないが、目に見えないなんらかの仕掛けを消し去るのが彼の体質、という話だし―――――ここにとどまることは、もう意味がない気がする。
それでも秀が、ここに雪虎をとどめおきたがる理由は、何なのか。
できる限り、秀を理解しようと努めながら、雪虎は返事を待つ。
だが、秀は理由を答えなかった。単に、
「トラには、一週間、ここにいてもらう」
呆れたことに、秀は決定事項として、いっそ優しげな声で告げる。
一瞬、雪虎はぽかんと口を開けた。
すがすがしいほど、自分勝手だ。反発が湧くより毒気が抜ける。
雪虎はごく自然体で、首を傾げた。秀の前で、常に身構えている雪虎がするには珍しい態度なのだが、彼に自覚はない。
「理由を話してくれますか」
ただ、重ねて尋ねた。落ち着いた態度で。
雪虎が怒り出すと思ったのだろう。
秀は一瞬、迷子の子供のような、幼い表情を浮かべた。
理由を聞かれるなど、いつもと勝手が違う、と言った風情。
返事は、一拍置いて、常のように淡々と返される。
「―――――…抜けないのだ。棘の、ように、刺さって」
一瞬、喘ぐような息を挟み、
「お前を失うかもしれない―――――恐怖が。だから、ここにいてくれ。ここなら、安全、だから」
秀は、苦し気に吐きだした。
表情にもはっきりと、苦悶が刻まれる。
雪虎は、目を瞠った。
(…知らなかった)
秀はこんなにも、…分かりやすかったのか、と。
彼は、あまりに強くて。仰ぎ見る存在で。かなわない男で。なのに。
最初から、雪虎相手には負けた態度で、子供のように、「すまない」と大きな身体全部で雪虎に許しを求めてくる。
―――――それでも、決定を、覆すつもりはないのだろうが。
この男は、雪虎の一言の前で、危ういほど無防備だ。
困った。
(かわいい、とか、…思う)
とたん、雪虎は、自分で自分がバカと思ったが、これはもう仕方ない。
全力でお手上げだ。降参だ。
その感覚は、たとえば、自分の子供に泣きじゃくりながら懸命に許しを乞われた母親が、腹の中から完全に怒りを失ってしまうような、そんな気持ちに似ていたかもしれない。
「許せ、とは、言わない」
無意識のように、秀は、木格子に片手を伸ばした。掴む。
「…一週間。一週間、経てば」
強く目を閉じ、俯いて、ぶつけるように、木格子へ額を押し付け、唸るように言った。
「ちゃんと、我慢できる、から」
懺悔するような態度を前に、雪虎は、大きく息をつきながら、頷く。
(我慢ってまた…でかい図体で子供みたいな)
なるほど、期間を区切るなら、…仕方ない。いいだろう。
思わず、念を押す。
「一週間、だな」
もちろん、そんなにも仕事を休むことになるのは心苦しい。
が、目の前の男も、放っておけない。
雪虎は一瞬で、気持ちを切り替えた。
「よし分かった」
「…なに?」
ゆっくり顔を上げた秀は、異国の言葉でもはじめて聞いたかのような表情で、雪虎を見た。
「分かったって、言ったんですよ。でも、『ここ』はない」
慎重に一定の距離を保ちながら―――――理性を保てる距離だ―――――雪虎は、身を乗り出すように、一歩踏み出す。
「逃げないって、約束します。だから、ここから出してください」
とたん、秀は、木格子から手を離した。それが燃えているかのような態度で。
だが、後退したりはしない。むしろ、雪虎に惹かれるように、前へ身を乗り出そうとしかけた。
「…、…」
何かを言いさし、結局できないようなのは、雪虎を信用しかねるからだろう。気持ちは、分かる。
「逃げません」
雪虎は繰り返した。
いつもと変わらない顔色の秀から目を逸らさず。
(あ、でもこのヒト、…何してたんだか、たぶん一睡もしてないんだよな)
ここにとどまっていていいものだろうか。早く部屋で休ませたいと思う。
「なんなら」
だから、こう言った。
「今から一緒に、会長の部屋へ行きますか」
休んでいる間、そばにいると言えば、秀は安心できるだろうか。
単純に雪虎はそう考えた。しかし。
「だめだ」
単なる気遣いだったわけだが、真剣に拒絶される。しかも即答だ。
深い意図はなかったのに、玉砕した気分で、刹那、凹む雪虎。
(いや、このひとのことだから、なんとなくこうなるだろうなって分かってたけど)
そうだ、それがだめならだめで、別のチャレンジを、と雪虎が己を奮い立たせるなり、
「私の部屋に入れば」
眉をひそめ、秀は少し叱りつける態度で、雪虎に言った。
「トラは永遠に出られないぞ」
これは、脅しか睦言か。雪虎は目を瞬かせる。
一瞬、何の謎かけか、と思ったが。
なるほど、これは雪虎が悪いだろう。秀は付け加えた。
「私の部屋より、ここにいる方が、安全だよ。私もそちらへは入れない」
…入ろうと思えば、入れるだろう。
だが、しない。そういうこと、だろうが。
なんということだろう、本当に、秀は雪虎をここへ閉じ込めるだけのつもりのようだ。
食い入るように見ながら、…何もしない、と言っている。
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