181 / 197

日誌・180 永遠に出られない

「出してください」 対する秀も、誤魔化しも言い訳もなく、 「できない」 真っ直ぐ、返事を投げ返した。 木格子の向こうから見つめてくる視線は、生真面目。 この目は、本気だ。雪虎は大きく息を吐きだす。 今までのように、一方的に、秀の考えを雪虎の考えだけで決めつけてはだめだ。 だから、真っ先に尋ねた。理由を。 「なぜです」 そうまでして、なぜ、雪虎をここにとどめおきたいのか。 地下牢内部を、雪虎は一瞥。 (…まるで、隠すみたい、だよな) だが、何から。 何かの仕掛けが施されていたようだが、どうやら今は無効になっているようだし―――――雪虎に自覚はないが、目に見えないなんらかの仕掛けを消し去るのが彼の体質、という話だし―――――ここにとどまることは、もう意味がない気がする。 それでも秀が、ここに雪虎をとどめおきたがる理由は、何なのか。 できる限り、秀を理解しようと努めながら、雪虎は返事を待つ。 だが、秀は理由を答えなかった。単に、 「トラには、一週間、ここにいてもらう」 呆れたことに、秀は決定事項として、いっそ優しげな声で告げる。 一瞬、雪虎はぽかんと口を開けた。 すがすがしいほど、自分勝手だ。反発が湧くより毒気が抜ける。 雪虎はごく自然体で、首を傾げた。秀の前で、常に身構えている雪虎がするには珍しい態度なのだが、彼に自覚はない。 「理由を話してくれますか」 ただ、重ねて尋ねた。落ち着いた態度で。 雪虎が怒り出すと思ったのだろう。 秀は一瞬、迷子の子供のような、幼い表情を浮かべた。 理由を聞かれるなど、いつもと勝手が違う、と言った風情。 返事は、一拍置いて、常のように淡々と返される。 「―――――…抜けないのだ。棘の、ように、刺さって」 一瞬、喘ぐような息を挟み、 「お前を失うかもしれない―――――恐怖が。だから、ここにいてくれ。ここなら、安全、だから」 秀は、苦し気に吐きだした。 表情にもはっきりと、苦悶が刻まれる。 雪虎は、目を瞠った。 (…知らなかった) 秀はこんなにも、…分かりやすかったのか、と。 彼は、あまりに強くて。仰ぎ見る存在で。かなわない男で。なのに。 最初から、雪虎相手には負けた態度で、子供のように、「すまない」と大きな身体全部で雪虎に許しを求めてくる。 ―――――それでも、決定を、覆すつもりはないのだろうが。 この男は、雪虎の一言の前で、危ういほど無防備だ。 困った。 (かわいい、とか、…思う) とたん、雪虎は、自分で自分がバカと思ったが、これはもう仕方ない。 全力でお手上げだ。降参だ。 その感覚は、たとえば、自分の子供に泣きじゃくりながら懸命に許しを乞われた母親が、腹の中から完全に怒りを失ってしまうような、そんな気持ちに似ていたかもしれない。 「許せ、とは、言わない」 無意識のように、秀は、木格子に片手を伸ばした。掴む。 「…一週間。一週間、経てば」 強く目を閉じ、俯いて、ぶつけるように、木格子へ額を押し付け、唸るように言った。 「ちゃんと、我慢できる、から」 懺悔するような態度を前に、雪虎は、大きく息をつきながら、頷く。 (我慢ってまた…でかい図体で子供みたいな) なるほど、期間を区切るなら、…仕方ない。いいだろう。 思わず、念を押す。 「一週間、だな」 もちろん、そんなにも仕事を休むことになるのは心苦しい。 が、目の前の男も、放っておけない。 雪虎は一瞬で、気持ちを切り替えた。 「よし分かった」 「…なに?」 ゆっくり顔を上げた秀は、異国の言葉でもはじめて聞いたかのような表情で、雪虎を見た。 「分かったって、言ったんですよ。でも、『ここ』はない」 慎重に一定の距離を保ちながら―――――理性を保てる距離だ―――――雪虎は、身を乗り出すように、一歩踏み出す。 「逃げないって、約束します。だから、ここから出してください」 とたん、秀は、木格子から手を離した。それが燃えているかのような態度で。 だが、後退したりはしない。むしろ、雪虎に惹かれるように、前へ身を乗り出そうとしかけた。 「…、…」 何かを言いさし、結局できないようなのは、雪虎を信用しかねるからだろう。気持ちは、分かる。 「逃げません」 雪虎は繰り返した。 いつもと変わらない顔色の秀から目を逸らさず。 (あ、でもこのヒト、…何してたんだか、たぶん一睡もしてないんだよな) ここにとどまっていていいものだろうか。早く部屋で休ませたいと思う。 「なんなら」 だから、こう言った。 「今から一緒に、会長の部屋へ行きますか」 休んでいる間、そばにいると言えば、秀は安心できるだろうか。 単純に雪虎はそう考えた。しかし。 「だめだ」 単なる気遣いだったわけだが、真剣に拒絶される。しかも即答だ。 深い意図はなかったのに、玉砕した気分で、刹那、凹む雪虎。 (いや、このひとのことだから、なんとなくこうなるだろうなって分かってたけど) そうだ、それがだめならだめで、別のチャレンジを、と雪虎が己を奮い立たせるなり、 「私の部屋に入れば」 眉をひそめ、秀は少し叱りつける態度で、雪虎に言った。 「トラは永遠に出られないぞ」 これは、脅しか睦言か。雪虎は目を瞬かせる。 一瞬、何の謎かけか、と思ったが。 なるほど、これは雪虎が悪いだろう。秀は付け加えた。 「私の部屋より、ここにいる方が、安全だよ。私もそちらへは入れない」 …入ろうと思えば、入れるだろう。 だが、しない。そういうこと、だろうが。 なんということだろう、本当に、秀は雪虎をここへ閉じ込めるだけのつもりのようだ。 食い入るように見ながら、…何もしない、と言っている。

ともだちにシェアしよう!