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日誌・181 天啓のように

生真面目とか。 誠実とか言えるのかもしれないが。 雪虎から見れば、健全のようで、不健全のような気がする。 自分自身を、過剰に、押し殺しすぎている、ような。 すぐ、秀は、ゆっくりと木格子から身を放した。 「不快だろうから、私はもう顔を見せないよ。だから一週間、おとなしく―――――」 秀が行ってしまう。思うなり。 「会長に」 雪虎は声を張った。 踵を返そうとしていた秀は、立ち止まる。 雪虎が呼び止める声、一つで。鎖にでも縛められたかのように。 「…落胆されるのは、俺だって怖い」 雪虎にだって、秀に、がっかりされたくないという気持ちがある。 情けないところばかり見られていて、もう、本当に、今更なのだが。 「だから、約束したことは、…守るよ」 つい先ほど、雪虎は言った。逃げないと。 秀は『約束』にしようとしなかったが、一方的にそう告げた。 一方的だろうと、約束だと口にした以上、雪虎は守る。 期限も区切られたのだ。 一週間、と。 …一生とかいうわけではない。ならば問題なかった。 その間、雪虎は本気で月杜にとどまるつもりだ。 「嘘はつきませんから、出してください」 秀は、少し顎を引いた。考え込む風情。 もう一押しとばかりに雪虎は付け加える。 「俺にはここでやることもある。でしょう?」 雪虎が言えば、秀は顔を上げた。 その目を見て、雪虎は呆れる。 (あー…、これは、本気で忘れてるな) 人差し指で、天井を指さし、 「掃除」 秀に、思い出させるような間を置いて、雪虎。 「いや、罰掃除? ほら、するって話になってたでしょうが」 「ああ」 思い出したか、秀が少し、首を傾げる。少し、間が抜けた空気を感じた。 秀が多少、天然が入った性格なのは雪虎も承知している。 なんとなく、雪虎は力が抜けた笑みを浮かべてしまう。とたん。 秀が少し、動きを止めた。驚いたようにも見える。 構わず、雪虎。 「その一週間の間で進めますよ。いっそ、ウチの会社への依頼ってことにしませんか? そしたら俺も仕事してるって胸を張れるし」 ダメもとで提案してみた。 根暗で後ろ向きな雪虎としては、珍しく前向きな判断ができたと思う。 反応を待つ雪虎に、 「…トラがそれでいいなら」 秀は目を伏せ、視線を横へ流した。 やはりイマイチ感情が読めない男だ。 すぐ、気を取り直したように、 「黒瀬を呼ぶ」 秀はそんなことを言った。 「? なんで黒瀬なんですか」 説得されてくれたのかと思ったが、違うのだろうか。スマホを取り出す秀に訊けば、 「ここの鍵は黒瀬が持っている」 雪虎を横目に流し見て、素直に答える。すぐ、 「…地下だとやはり、電波が届かないね。少し、待っていてくれ」 秀は踵を返した。すぐ、姿が見えなくなる。 あっさり出て行ったわけだが、今回は引き留める気にはならなかった。 秀のことだ、ああ言った手前、黙ったまま、雪虎をここに放置したりはしないだろう。 誰もいなくなったそこで、しばし雪虎は、呆気に取られていた。 「…は…」 牢の鍵を自分が持っていないあたり、宣言通り、秀がここへ立ち入る気がなかった本気を理解したから。 その気になれば何でもできるだろうに、秀はそうしようとしない。 こればかりは、月杜の鬼の性というよりも、彼自身の個性だろう。 ―――――そう。伝承だなんだという前に、秀は、秀だ。 そして。 雪虎は、雪虎。 大きく息を吸って、雪虎は牢の中で、どっかとその場に腰を下ろした。 …鬼だの『祟り憑き』だということに、ここのところずっと心を囚われ、思いつめていたせいだろうか。 先ほどのグロリアとの会話で、思いつめて尖っていた緊張感が、行き過ぎた挙句に突如解けた感覚があった。 もうそこから先へ行く場所は、ないとばかりに。 よくあるだろう? 一心にひとつの問題に集中し続けたとき、ある刹那にふっと緊張が解け、不意に天啓のように答えが降りてくるそんな瞬間が。 今の雪虎の状態は、それに近い。 …答えはやはり、よく見えないが。 妙に開き直ったというか、気持ちが図太くなって、腹が据わった心地がする。 楽な気分だ。 今まで神経質なほど気にしていたことが、取るに足りないことのように感じた。 鍵が開くのを待ちながら、自分の掌を見下ろす。 (あんまり、神経質に身構える必要は、…ないのか?) 不意に思った。 血統やら伝承やらと、無関係でいることは、やはりできないのだろうが。 過剰に気にしすぎれば、今度は逆に現実が見えなくなるのではないか。 今までの『祟り憑き』がどうだったかは知らないが、今を生きている者に、過去の亡霊は手出しできない。 亡霊はそこに立ち止まったきりだが、生者は前へ進んでいるからだ。 なにより―――――この身に流れる血がどう叫んでいようとも。 (抗うことなら、できる) 今、雪虎が抗っているように。そして。 条件はおそらく、秀も同じだ。 ならば。 雪虎にできることが、秀にできないわけがない。 やろうと思えば、秀は、雪虎以上にきちんと抗いぬいて見せるだろう。 だが、秀に抗っている様子はない。どころか、彼は伝承に頭のてっぺんまで浸かっている。 では。 秀の行動の一切は―――――血に操られて、のことでなく。 紛れもない秀自らの選択による結果、となる。…とすれと。 「雪虎さん」 いきなり穏やかに声をかけられ、雪虎は顔を跳ね上げる。 牢の外に見えたのは、人懐こそうな笑みを浮かべた、初老の男。 「黒瀬」 呼ぶと同時に、扉が開けられた。…本当に、まったく。 いったい、今までどこに控えていたのか、現れた早さといい、音もなく行動するところといい、昔から食えない男だ。 一服盛った相手を前に、何食わぬ顔で控えているあたりも。 立ち上がった雪虎は、平然と牢の外で控えた初老の男を見遣り、一言。 「俺の里芋、どこへやったんだ」 一服盛られたのを、蒸し返したところで、この男相手にどうにかなるものではない。 追い詰めるつもりが、逆に追い詰められて終わりだ。 雪虎に対する行動の非を認めないというわけではない。 命令の上でのことなのだから、仕方がないと思わないでもなかった。 ただ、月杜に仕える黒瀬のような人間は、雪虎の怒りを受け止め、自分が悪いとしたうえで、いかようにも処断を、と首を自ら差し出してくるから、どうやっても雪虎の方が引くしかないのだ。 そんな茶番劇よりも、前向きな言葉を口にしたつもりだ。 なのに、なぜか黒瀬は、控えめながら、楽しそうに嬉しそうに、微笑んだ。 ―――――感じた寛容さ、及び抱擁力に、一瞬でかなわない気分になる雪虎。 「離れで保管しております。相変わらず、自炊なさっているようで、ご立派です」 「出来合いのものじゃ舌が飽きるから、下手でも自分でやるようにしてるだけだよ」 結局はそれも、自分のためだ。 ため息をつき、雪虎は牢の外へ。

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