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日誌・182 緑深い屋敷
(…牢の。中も外も、違いがあるようには思えないけどな)
なんとなく、雪虎は中と外を見比べた。
グロリアの言葉、秀の態度を思い出す。
(伝承から解放されるものを仕掛けたって…それはどんなものだったんだか)
好奇心はあったが、すぐ、視線を外す。
もう済んだ話だ。
黒瀬の前を通り過ぎ、地下から上がる階段へ向かった。
黒瀬が後に従いながら、声をかけてくる。
「一週間、こちらにご滞在くださるとお聞きしました。正しいでしょうか?」
「ん? …あぁ」
前を向いたまま、雪虎は顔をしかめた。
「でなきゃ、会長が落ち着かないんだろ? …どういう理屈なんだか」
言った後で、ますます渋面になる。なにか、うぬぼれた台詞だと思ったからだ。
まるで自分は、秀から大切にされているのだ、と声高に告げたような心地になる。
「もちろん、ご理解の必要はございません」
黒瀬の声は、常に、穏やかに微笑んだ印象が強い。今回もだ。
よって、今の台詞に、皮肉や当てこすりの意図はないのだろう。
むしろ、―――――雪虎の対応を、喜んでいるような節がある。なにより、
「ありがとうございます、雪虎さん」
…ホッとした、安堵の色が強い。
「一週間、短い間ですが、よろしくお願い致します。ご滞在中は、離れでお過ごし下さい」
地下から、一階の蔵に出た雪虎は、中へ差し込むひかりに目を細める。
この感じ、やはり、朝のようだ。
蔵の外へ向かいながら、尋ねた。
「どうしてだ?」
「…ご質問の意図をお伺いしても?」
「ああ、…ありがとうって、どうしてだ?」
前を向いたまま、雪虎は首を傾げる。
「俺は月杜でも鼻つまみ者だろ」
卑下しているわけではないが、個性ある両親と、自身の醜さのせいで、月杜家の親戚からいい目で見られたことは一度もない。
しかも、妹の件は、月杜家の名に泥を塗った、と聞えよがしの悪口を言われた経験が何度もある。
そしてこの数年、雪虎は月杜から遠ざかっていた。
ますます親戚からの悪感情は募っているはず。
今回は、秀が望んだから留まることにしたが、月杜家は雪虎にとって、居心地がいい場所ではない。
使用人たち…月杜家に仕える人間たちにとってもそうだろう、と思ったわけだが。
雪虎が言いたいところに合点がいったか、黒瀬は苦く笑う。
「本当は、ご親戚の方々も理解なさっているはずです。雪虎さんが、無二の方だと」
(…俺は理解できないけどな…)
自分のどこが、と思う。ただ。
魔女の巣窟に出向いた時のことを思い出せば、その時こそ必死でよく理解していなかったものの、彼女たちが雪虎に向ける恐怖と、理解不能ではあるが、説得力があるあれだけの力を持つ彼女たちが、どうしても雪虎に害を及ぼせなかった理由は、確かに、あとから考えるとどうにも不自然なのだ。
ならばそれなりの―――――というか、表に現れる物理的な力の強弱とは関係のない部分、即ち、本質に関わるところに作用する―――――特有の力を雪虎が持っていると考えた方が、確かに…多少は、辻褄が合った。
ただ、自覚がない。
そこが一番の問題だろう。
「それに、代々、月杜にお仕えしている者たちに、無礼を働く者はおりませんでしょう?」
黒瀬の改まった質問は穏やかだったが、なにやら物騒な響きを帯びている。
もしいたら…。そんな言葉を言外に聞いた気がして、雪虎は慎重に答えた。
「まあ、皆、礼儀は保ってくれてるよな」
それでもまず、雪虎から顔を背けてしまうのは、どうしても仕方のない話…と思ったところで。
「そう言えば」
蔵の外へ出ながら、雪虎は空を仰いだ。
いい天気だ。
気持ちのいい蒼穹に、目を細め、大きく息を吸いこむ。
足は、自然と離れへ向かっていた、
「今日は顔を背けなかったよな」
考えてみれば、黒瀬だけではない。
地下で、人工の明かりの中、右近・左近の双子たちも、グロリアも、雪虎の顔はちゃんと見えていたはずだ。
だが、目が覚めてからこっち、だれも嫌悪に満ちた表情で顔を背けたりはしていない。
「ええ、雪虎さんの中から、祟りが抜けた、とお聞きしております」
いつも落ち着いてこそいるが、黒瀬は上機嫌だ。
思い起こせば、黒瀬の機嫌が悪い時を雪虎は知らない。
「しかもそれは、雪虎さんが消滅させたとか。やはり、さすがです」
…『やはりさすが』なら、この歳になるまでソレに悩まされたりしないと思うのだが。
小さな子供のご機嫌取りをしているような態度に、いちいち反論する気力も失せ、雪虎は前へ向き直った。
「…最初のご質問の件ですが」
黒瀬が口を開くのに、
「最初?」
雪虎は目を瞬かせる。
「ありがとう、と言ったのは、どうしてだ、というご質問です」
…ついさっき、自分で口にしていながら忘れていた雪虎は、あ、と間の抜けた声を上げた。
それに対しては何も言わず、黒瀬は続ける。
「雪虎さんがいれば、屋敷の空気が変わるのです」
雪虎は視線を巡らせた。視界に映るのは、普段と変わらない木々の緑。
いや、秋口に入り、朝晩が冷えてきたから、枯葉が増えている。
(この屋敷は相変わらず、緑が深いな)
雪虎から見れば、昔から変わらない光景だが、雪虎がいないときは今と何か違っているのだろうか。
雪虎の戸惑いを察しただろうが、黒瀬はそれに対して何も言わなかった。
別のことを言う。
「旦那さまに…主人の状態に影響される、というのもあるのでしょうが」
離れへ向かって歩きながら、連なる飛び石の行方を目で追い、雪虎は頷いた。
(それは…確かに)
月杜の主が代替わりする前と後では、実際、何かが変わっていたものだ。人も、空気も。
先代が隠居したのではなく、突然、病死したという形での代替わりだったせいかもしれないが、屋敷の雰囲気が唐突にがらりと変わった。
目に見えて特に何がどうした、というわけでもないのに。
―――――人が一人、いなくなり、主が変わった。もたらされる変化は、たったそれだけでも大きなものだ。
黒瀬は淡々と言葉を紡ぐ。
「やはり、雪虎さんも、欠かすことのできない月杜の主人なのですよ」
それは黒瀬なりの気遣いだろう。雪虎は薄く笑った。もちろん、気遣いを、鼻で笑うつもりはない。
口に出しては、ただ一言。
「…そうか」
黒瀬は気付いているに違いない。
雪虎が、月杜では居心地が悪いと思っていることに。
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