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日誌・183 知らないふりもできない
また黒瀬が言葉を重ねる前に、雪虎はふと思いついて尋ねてみた。
「…親父は、いや―――――八坂辰己は相変わらずか?」
八坂辰巳。雪虎の父親。
彼はまだ、一人、娘の死んだ家で過ごしているのだろうか。
雪虎の耳にはもう、噂話も入らない。彼の最近の状況は知る由もなかった。
だが、あの男が、月杜と切れるわけがない。
雪虎は、彼と縁を切ったのだ。
近況を知ったところで、どうするもない。
知る義理も権利もない。
それでも。
残念ながら…もう、あのどうしようもない男のことを、尋ねるのは。
自分以外、いない気もして、そうなれば、完全に知らないふりもできなかった。
黒瀬は、いつも通りの口調で答える。
「お変わりはありません。ただ、…少し前、風邪を召されたようで」
では、医者にかかったのか。
(ニワトリ先生は何も言わなかったけど)
あの人が診たのなら、問題はないのだろう。
「あ、そ。今は平気なんだろ?」
「ご回復なさっています」
会話が一区切りついたところで、離れが見えてきた。
池の横を通り過ぎ、玄関口へ向かえば。
中から二人、メイドが出てくる。若い女性と年配の女性。年齢によって、服が違う。
一方は裾の長いスカートにエプロンを着用したまさにメイドさんの格好なのだが、年配の女性は、着物にエプロン、何かの作業をしていたのか、たすき掛けだ。
そこまでのんびり認識した直後、雪虎は反射で顔を背けた。
今までの経験からして、当然のことだ。
嫌悪感も露に、相手二人も顔を背けると思っていたのだが。
彼女たちはただ冷静にわずかに頭を下げた。
出入り口を、雪虎たちにあけるように開けるようにわきへ控える。
そのまま、雪虎たちが中へ入るのを待つ態勢になった。
そうなってから、思い出す。
そうだ、今はもう、雪虎は変に身構える必要はないのだ。
(…慣れないな)
結局、雪虎は顔を隠すように俯いたまま離れへ入った。
そこでようやく、一息つける。思うなり。
「来たね」
中に、秀がいた。
とたん、動きを止めた雪虎を制するように、片手を挙げて、
「すぐに出て行く。離れの状況の確認に来ただけだよ…これなら、問題ないだろうね」
宣言通り、外へ向かいながら、言う。
「短い間だが、ゆっくり過ごすといい」
淡々と、なんの未練もない態度だ。
隙というものが、これっぽっちもない。
危うく、じゃあまた、とやり過ごすところだった。
「いや待ってください」
雪虎は、隣を行き過ぎる秀の袖を、咄嗟に掴んだ。
「話がある」
秀が足を止める。
雪虎を見下ろした。
相変わらず、静かな目だ。
視線が合うなり、また、身体に変な熱がこもりそうになった、が。
事前にわかっていたからか、どうにか受け流す。
言葉でするほど簡単ではないが、どうもコツがあるようだ。
雪虎が持つという力をうまく使えるようになれば、秀に反応し、内部でいきなり暴れ出すコレも、いつか消し去れる日が来るのかもしれない。
なんにしろ、この―――――言葉は悪いが、いきなりの発情に関して、一番の敵は。
雪虎自身の、性欲の強さに他ならない。
「さっきも言ったでしょう」
ここで立ち去られては、グロリアの用事を後回しにしてまで、秀の時間をもらった意味がなかった。
「疲れてるところ悪いけど、少し、時間をくれませんか?」
秀が、微かに眉をひそめる。
よくよく顔を見ていなければ分からない、わずかな変化だが、確かに。直後。
「…教授に」
秀の手が、雪虎の頬に触れた。
ふ、と秀がわずかに身を屈める。
「何か言われたのかね」
間近で覗き込んできた秀の声の響きが、グロリアを責めるようで、雪虎は慌てて首を横に振った。
「違う、そうじゃない。教授には…相談に乗ってもらっただけです。単に俺が、会長と話し合う必要を感じるってだけで」
秀の顔に、気遣わし気な色がにじむ。
「…本当かい?」
「俺が嘘つく必要がありますか」
じっと雪虎の目を覗き込んだ秀は、そこにどんな答えを見つけたのか。
ほんの少し、息を吐いた。
ただ、なっとくとは程遠そうだ。もっと言葉を重ねた方がいいだろうか? 思う端から、
「では、こちらへ」
秀は、雪虎の頬に触れていた手を、さらに下ろし、彼の左手の指先をそっと掴んだ。
先導するように踵を返し、優しく促すように掴んだ手を引く。自然と従った後で、雪虎は真面目に思った。
(このエスコート、参考にしよう…)
思うなり、こういうやり方が嫌味にならない人間でなければ、似たことをしても痛いだけだと気付く。
秀は当然のように、雪虎には離れの奥のソファを勧めた。
自分は出口を背にして座る。
二人の様子をにこにこ見守っていた黒瀬が、ふと口を開いた。
「では、こちらで雪虎さんの着替えを手配します。あと、お茶をお持ちしようかと思うのですが、時間は空けた方がよろしいでしょうか?」
「お構いなく…ってか、お茶はいらない。そういや、会長は朝メシ…」
「まだだね」
考えてみれば、雪虎もまだだ。
離れにある大きな時計を見上げれば、7時を回った頃合いである。
悩む雪虎を前に、秀は黒瀬を振り向いた。
「離れに持ってくる必要はない。そちらで用意しておいてくれ。適当に食べに行く」
「承知いたしました」
折り目正しく礼をした黒瀬は、ごゆっくり、と言い残し、また、音もなく出入り口から出て行く。
小さな頃から当然のように見てきたが、本当にあの人は何者だろうか。
「…医師から聞いた」
ぽつり、秀が呟くのに、彼へ目を戻せば、視線が雪虎の腹に向いていた。
「肋骨も折れていなければ、内臓も傷ついていないと、…ただ、皮膚が内出血はしているそうだね」
「それだって、すぐ消えますよ」
消しゴムで書き損じを消すように、ツナギの上から腹部を手でごしごしこすった雪虎は同意を求めるように秀に笑顔を向ける。
だが、秀の表情から、深刻さが消えない。
(過保護め…)
ありがたいが、大げさとも感じる。すぐ手の動きを止め、やりにくい気分で秀を上目遣いに見遣った。
「…俺が話したいことって言うか…聴きたいことがある、んですけど」
鬼が『祟り憑き』を望むのは、いかんともしがたいことは、既に理解している。
そんな質問は、赤を赤と言うだけの、何の面白みも変化もない馬鹿げた質問だ。
なら、―――――あと、雪虎の中で、秀に対して、残った質問はと言えば。
やはり、…これしかない。
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