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日誌・184 打破するもの

「会長は」 この夏に、聞いた言葉。 「逃げたくは、ないですか」 月杜の家から。 「投げ出したくは、ないですか」 家長の重責から。 『鬼』の運命から。 やはり、―――――どうしても。何度でも、確認せずにおれない。 それはきっと、雪虎が秀の状況に、納得できないからだろう。 雪虎から見れば、秀は被害者のように思えてしまう。それは…ともすると。 雪虎自身に、被害者意識があるから、だろう。 この体質のせいで、どれだけひどい目に遭ったか。物心ついてからずっと、つまはじきだった。 もちろん、やられたら、やられた以上に丁寧にやり返したが。 その原因を作ったのが、…優しかった、先代だと思えば。 さらに、複雑な心地にもなる。だが、どうしても、雪虎にはできそうにない。先代を恨むことが。なにより。 …こうも考えてしまう。先代は。…そして、秀は。 本当は、雪虎が憎かった…憎いのではないのか、と。 正直なところ、これは痛い。 雪虎自身はどうしても、彼ら親子を憎めないから。 それを、今。 (せっかくの機会だし。…聞いてみようかな) はっきりさせたい、と思う。 今後、秀に対して、間違った態度を取らないためにも。 秀の表情は、静かだ。雪虎の質問の意味を考えるように、目を伏せた。すぐ、目を上げて。 答えた。 「もう、私は選んだよ」 だらしない雪虎と違って、ソファにきちんとした姿勢で座った秀は、その答え方も丁寧だ。 「選び取った。自ら。即ち―――――この状態を、望んだのは私自身だ」 雪虎は、躊躇いも迷いもない秀の視線を受け止め、…ふ、と息を吐いた。 ああ、そうだ。雪虎は。 できれば秀を、こんな血の戒めから解放したい、と思ったけれど。 (このひとは、こう、だよな) それに。 雪虎の体質が、グロリアの言うとおり、触れるだけで惑わしのいっさいを―――――伝承やら、魔女たちの術やらまでも―――――打破するものであるならば。 この場所で、地下牢で…あれほど深く触れた瞬間もあるのだ。 たとえ、普段秀が惑わしの中でいたとしても。 触れるだけで、それは掻き消えるはず。 そうはならなかった、ということは。 すべては、秀の選択であるということ。 (そっか) ふしぎと、安堵した。身体から力が抜ける。 とたん、気付いた。身体が強張っていたことに。 なにより、ふくふくとした嬉しさがある。誇らしさ、とも言えるだろうか。 (そうだよ、このひとは強いんだ) 過去から伸びる操りの糸がいくら強固だとしても、今を生きる者の意志までは、縛り切れない。 他の誰でもない、月杜秀が、操られるままになるはずがなかった。 「…やはり、教授と何かあったのかね」 自然と笑んでいた雪虎と対照的に、秀の表情はわずかに曇った。 「トラが私の気持ちを聞きたがるとは…お前は人よしだから」 雪虎は、思わず真顔で強く否定する。 「違います」 そんなにおかしな話だろうか。雪虎が秀に興味を持つことは。 いやこれは、雪虎の今までの態度のせいだ。自業自得だった。 思った雪虎は言葉を重ねた。 「単なる俺の好奇心って言ったら、言葉が悪いですが…まあそんな感じですよ」 バツが悪い気分でぼそぼそと早口に言えば。 秀の表情に、変化は見られなかった。 だが、面食らったような、緊張の抜けた空気を感じる。 「好奇心。トラが、私に?」 改めて繰り返されると、非常に気まずい。 秀は雪虎がどれだけ月杜に背を向けたがっていると思っているのだろうか。 いや、秀個人に、だろうか。 これまでのことを考えれば、雪虎にとっては、どちらかと言えば、秀が雪虎を嫌うというなら納得いくのに、秀は逆のことを考えているようだ。 信じられない、と言いたげな秀の呟きは聴こえなかったフリで、 「あとひとつ」 雪虎は聞きたかったことを口にした。決心したものの…言いにくい。わずかの逡巡の、のち。 折角の機会だ、と思い切る。 躊躇いを振り切って、尋ねた。 「会長は、俺が憎いですか」 自分の気持ちも無視して、強制的に心を縛り付ける、そんな存在がいれば、不快なはずだ。 秀は、一度、瞬き。直後、目を瞠り、息を引いた。 いや、絶句した、 そんな沈黙が落ちる。 今までのような即答は―――――ない。代わりに。 「…分からないね」 言いながら、秀は目を伏せた。ゆっくりと立ち上がる。 妙な緊張を感じた雪虎は、何とはなしに警戒に近い表情で、秀の動きを目で追った。 「私の気持ちを、なぜ、気にする必要があるのかね、トラ」 雪虎が身構えたことを感じ取ったか、秀は小動物をなだめるような声を出す。 ただ、そのまま向かい合って座ったソファの間にあったガラステーブルを回りこんだ。 雪虎に近づいてくる。 ただでさえ、秀の身体は大きい。立ち上がっていれば、それだけで妙な威圧がある。 間近で見下ろされたならなおのこと。 その上、秀本人が持っている特有の雰囲気もまた、相手を圧倒するものだ。 雪虎は、自然と睨むように見上げてしまったが。これは。 情けない話だが、自身の臆病からくるむき出しの警戒に過ぎない。 …もっと、格下が相手なら、雪虎はここで笑ってのける余裕だってある。なぜ笑うのか? もちろん、挑発のためだ。 だが秀相手では、うっかり挑発などできもしない。 ふんぞり返ってふてぶてしくソファにもたれかかった姿勢を保つので精一杯だ。 そもそも、今この状態で気を抜けば、息もできかねるような発情が全身を襲う予感がある。 一秒たりとも、油断はできない。 「だいたい、トラは」 雪虎がもたれかかったソファの背に手を置き、秀は身を屈めた。 それを横目に見遣り、内心で、雪虎は叫ぶ。 (近い…なんで、いちいち近づくのかな!) 構わず、秀は雪虎の顔を覗き込み、 「私を嫌っているのだろう」 ―――――そんなことを言う。 雪虎には、意表外の言葉だった。 目を瞬かせる。 素で面食らった。 「え?」 それは当然、今までの雪虎の対応からすれば、そう思うのも当然だし、間違ってはいない。 だが、実際に『嫌い』と言った覚えは…。 ない、と心の中で断言した雪虎は、それと前後して、つい眉をひそめて口に出して言っていた。 「言いましたか、俺。そんな、子供っぽいこと」 秀が言うには、どうも幼い物言いだと感じたから、気持ちのままに告げたあとで。 『子供っぽい』というワードに、何かが記憶の底で閃いた。 (あ、言ったな)

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