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日誌・185 ろくでもない悪戯心
―――――俺は、会長が嫌いだし、苦手ですよ、とか。
言った気が、する。本人に、面と向かって。
最近の話だと思うが、いつどこでだったか、よく思い出せない。
雪虎の態度から、察したか、
「…思い出したようだね」
秀は少し、ため息をついた。
何があっても滅多に動じない彼にしては珍しい態度だ。
とはいえ今雪虎は、秀の様子に驚く以上に、自身の記憶に衝撃を受けている。
確かに、思い出した。
残念なことに、正確に、ではないが。
うろ、と雪虎は戸惑いの視線を横へ流した。
秀へは、一旦頷いてみせる。
その態度に、秀が何を思ったかは分からない。
一度、彼は身を起こした。視線を窓の外へ流す。
「気にしている私の方が女々しい気がしてくるね」
この場合、秀は悪くない。では何が悪いのか。―――――雪虎の記憶力と性格だ。
なんにしたって、秀は雪虎の発言がもとで、今までより以上に配慮してくれていたわけだ。
雪虎は少したじろぐ。
すぐには言葉も出なかった。
だが一応、礼を言うことにする。
「あー…いや。…お気遣い、どうも?」
我ながら最低だと自覚はした。
雪虎は、降参と言いたげに、耳の横で両手を挙げる。
秀が、怒っている様子はない。だが、責められている気がした。
拗ねた子供の気分で、雪虎はソファの上で胡坐をかく。ふんぞり返っていた姿勢から、少し身を小さくした。
「でも以前は、そうだったんだ」
実際、雪虎は秀が嫌いだし、苦手だった。間違ってはいない。
今だって、その名残はある。
これは、長年の習慣とも言えた。
なにせずっと、雪虎は秀と比較され続けた。
その上、秀には絶対かなわないという理解があった。
劣等感は自然と募って。
秀を見る眼差しは、歪んだ。
結果、彼の言動をまともに理解することができなくなって、秀の真意を誤解し続けた。
…最近になって、ようやく。
雪虎は、月杜秀という人間をまともに見ることができた。結果、
「今は」
秀が、静かに促す。…やりにくい。雪虎はそっぽを向いた。
胡坐をかいた膝を、落ち着かない気分で、上下にぱたぱた動かす。
―――――まともに言うのは気恥ずかしいが、言葉を飾ったり、濁したりは苦手だ。
雪虎はため息をついた。観念する。真っ直ぐに、告げた。
「尊敬してますよ。たとえ会長が俺を憎んでたって、それは変わりません」
…ただし、不貞腐れた声で。
「…そうかね」
対する秀は、と言えば。
ホッとしたような、どこか気が抜けた態度で、静かに呟いて。
突如、力が抜けたように、雪虎の隣に腰かけた。というか、身を投げ出す。
一瞬、ソファが弾んだ。
それは、秀らしからぬ、荒い所作だ。
雪虎は、ぎょっとなる。秀へ顔を戻せば。
前のめりになって俯いた秀が、大きく長く、息を吐きだすところだった。
「私にとって、トラはね」
淡々と、感情のこもらない声で…だからこそ逆に、臓腑を吐きだすような、むき出しの本音が滲む。
「私が生きるのに、必要なのだよ」
空気のような。
食物のような。
―――――太陽の、ような。
そんな、存在。
俯いていた秀の顔がゆっくりと持ち上がった。
対する雪虎は逆に、俯いてしまう。認めたくないが、慄いた。
今、秀の目を見てしまったら、…なぜだろう。―――――捕まって、しまいそうで。
(けど、…何に?)
秀の、手が伸びた。ふ、と。
誘われるように持ち上がって、その掌が、真横から、俯いた雪虎の頬に触れる。
意図せず、雪虎の身が震えた。思わず、眉を寄せ、声を上げる。
「…会長」
いきなり触るな、と咎めたつもりだった。
だが、声は中途半端に弱い。
だいたい、雪虎は秀の手を、避けられない。逃げられない。心地がいいと、知っているから。
「…あぁ」
秀が、雪虎の声に、我に返ったように離れようとした。
その態度に、雪虎は不思議な気分になる。だって、そうだろう。
今までずっと、秀は大概、雪虎へこんな風に不躾に触れることはしなかった。
いつもどこか、自制して。抑え込んで。我慢して。
それが、さっきは。
(―――――どうなってる?)
思うなり、雪虎はあることを思いだす。
(そういや、このひと、今)
―――――徹夜明け、なんだよな。
…まさか、と思うが。雪虎はある可能性に気付く。
(寝てないから、ちょっと自制の壁が弱くなってる、とか?)
刹那、雪虎は、離れようとした秀の手を掴んでいた。
摑まれた秀は、逆らわない。
ただ、動きを止めた。
(…ふぅん?)
雪虎は、にやり、笑う。―――――面白い。
自制のない月杜秀がどう動くのか、試してやろう、とろくでもない悪戯心が湧くままに雪虎は動いた。
捕らえた秀の掌に、猫のように頬を摺り寄せる。
温かい。大きい。気持ちがいい。
正直、雪虎は満足した。
彼の好きにさせながら、
「最初は、憎かったよ。…ああ、そうとも」
目を細めた秀は、雪虎に対して、身を乗り出す。もう一方の手が、雪虎の膝に触れた。
「お前は私を縛る、唯一の存在だ。疎ましく思った」
台詞の内容に反して、声はひどく優しい。
甘いと感じるほど。
「どうしても、目がお前を追う。意識が離せない。なぜこうも気持ちを奪うのか、と苛立たしく、腹が立った。…だがね」
秀の指先が、雪虎の髪をかき上げるように耳に触れる。
雪虎の頬を、近づいた秀の息がくすぐった。
「ある日、理解した。…トラが―――――そうなのだ、と」
秀の言葉には、一番肝心なことを言いあぐねているような、そんな雰囲気がある。
おそらく彼だけにしか分からない感覚があって、たとえばそれは、同じ鬼であった先代、もしくは彼自身の息子であれば、通じるような、ただし、他には分からないものなのだ。
ただそれは、秀の中では、しっかりと腑に落ちる、絶対的な答えなのだろう。
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