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日誌・186 懺悔しながら罪を犯すような態度
雪虎は、見つめてくる強い眼差しに、目を細めた。
表面は、どうにか余裕を保っているが、実のところ、腹の底でぐつぐつ煮え立つ欲情の中へ、今にもぐらりと落ちてしまいそうだ。
それを、かろうじでぎりぎり堪えている理由は。
…ちょっとした苛立ちのせいだ。
雪虎は低い声を出す。
「へーえ?」
雪虎へ近づきながら、それでもどこかに、秀には遠慮があった。
言っている言葉に嘘はないだろうが、本心を晒さない、というか。
お利口さん、というか。
いや、優等生、か。
実際、今だって、遠回しに言葉を紡いで、結局、直接的な言葉は何も言っていない。
はっきり口にすれば、今の関係が終わると思っているのか。
そもそも、そのつもりがないのか。
秀がどういうつもりか、予想はできる。だがそれはあくまで予想だ。
答えは秀にしか分からない。
雪虎は鼻を鳴らす。
(つまんねえ)
ここまで言いながら、なぜ本音を口にしないのか。
―――――どうせなら、もっと見せてみろ。
髪に触れてきた手はそのままに、雪虎は膝に触れた秀の手をついと掬い上げた。
「じゃ、そんな会長に質問デス」
挑発の笑みを唇の端に浮かべる。
掬い上げた手に指を絡めながら秀の顔を覗き込んだ。
雪虎の表情に何を思ったか、秀がわずかに顎を引いた。
構わず、雪虎。
「会長は、俺が、他の誰かと寝てるのをどう思ってるんですか、ね」
きっと、雪虎は性格の悪い表情を浮かべていたはずだ。刹那。
―――――秀が見せた、眼差しの強さ…冷酷さに。
「…は、」
雪虎は、息だけで笑った。
殺されるかと思った。
これではっきりした。
秀は、…雪虎が他の誰かと関係を持つことが気に食わない。
だが、雪虎が感じたのは怯えなどではない。
どころか、背筋がぞくぞくした。興奮に。
口元に浮かんだのは、不敵な笑みだ。
(イイ顔するじゃないか…最高)
取り澄ましたいつもの態度より、こちらの方がよほど、人間味がある。
なのに、秀は口に出してはこんなことを言う。
「…好きにすればいい。トラは自由だよ」
わざとらしい挑発には乗らない、とばかりに。だが、
「ただし―――――うまくやりなさい。でなければ、相手がどうなるかわからない」
秀はそんな一言を、つけくわえた。
…遠回しな物言いだ。
あからさまに行動すれば、つまりは、雪虎の相手に害が及ぶかもしれない、ということだろうが。
秀の台詞に、違和感を覚えた。なにしろ、雪虎の感覚では。
こういう場合、秀は本来、雪虎の相手に何かをするより、雪虎相手に仕置きを実行するタイプだち思うからだ。
何かが食い違っている。いや、…抑え込んで、いるのか。
これでもなお、堪えるのか。
やはり、秀は、どこか危なっかしいヤツだと思う。そして、それ以上に。
雪虎からすれば退屈な状況だ。
腹芸は苦手だ。
不意に、雪虎は真顔になった。
「まだるっこしいな」
片手で秀の手を握り締める。次いで、もう一方の手で。
「本音を言えよ。あんた、ほんとはどうしたいんだ」
敬語をかなぐり捨て、雪虎は秀の胸倉を掴んだ。
もちろん、体格で勝っている相手は、びくともしない。
雪虎の行動に驚いた様子もなく、
「…お前を縛りたくはない」
秀は静かに答えた。雪虎は鼻で笑う。
「あんたの言葉程度で、俺が縛られるとでも?」
秀は口を閉ざした。
たちまち、巌を思わせる沈黙が落ちる。
雪虎は、舌打ち。
(縛りたくないって? なんだそれ。会長なりの配慮か? 俺が行動するとき、会長の言葉を気にしないようにって?)
だが、ここまで抑え込む理由は、それだけでは弱い気がした。
雪虎は眉をひそめた。刹那。
雪虎の記憶の端に何かが閃く。
それはかつて、どこかで耳にしたことがある言葉だ。
誰かの声が、恐れを込めて囁いた。
―――――月杜の鬼は、言葉で人間を操る。
(あ)
雪虎は目を瞠った。
まじまじと目の前の秀を見つめる。
そう言えば、そんな噂があった。
すっかり忘れていた。
なにせ。
雪虎には今まで、先代や秀に操られたと感じるような経験がないからだ。
その理由なら、なんとなく想像がついた。
雪虎が、『祟り憑き』だからだ。
誰に言われるまでもなく、雪虎は自然と回答に行き着く。
つまりは、『祟り憑き』に鬼の力は通らないのだ。
よって、雪虎はその力の範囲外にいる。
ゆえに、秀自身や、彼の周囲にいる者たちほど、それを気にしていない。
気にする以前に、意識になかった。秀にそういった力があることを、今もほとんど信じていない。
だが、それを考えれば腑に落ちる、そんなことが多いのも事実で、…完全に否定することもできない。
(…そうか。会長は、縛ることができるんだ。その気になれば、言葉一つで相手を)
秀の過剰なまでの戒めや、自制心は、ある意味、必然のもの…なのだろう。
本音を口にしないのも、そのせいなのだ。
おそらく秀は恐れている。
うっかり口にした言葉で、相手を意図せず操ることを。
…だが、雪虎はどうか。
翻って考えて、雪虎は、一瞬で心を決めた。
(試してみようじゃないか)
よって雪虎は、なんの気遣いもなしに、わざと侮った口調で言う。
「会長が何を言おうとどう思おうと、俺はやりたいようにやるだけだ」
秀に顔を近づけ、にやり、不敵に笑った。
――――これから言うことは、秀にとって、無神経で冷酷だろう。
だが、あえて雪虎はそう言った言葉を選んで、口を開いた。
「俺を縛れると思うなら、…命令してみろよ」
挑発する。
それこそ、雪虎の言葉程度で、秀が煽られるとも思えなかったが。
「会長は俺に何を望む? 他の誰かと寝るなって? それとも、外へ出るな? …愛してくれ?」
つらつらと条件を挙げながら、自分が思いあがっているようにも感じる。
こんな独占欲めいたことを、この男が雪虎などに感じるものだろうか。
内心自嘲して、
「命令して、思わせてみろよ。俺に、そうするしかないって。従う以外にできないって、…なあ?」
まあもっとも、と雪虎は一人、胸の内で達観していた。
(―――――俺、恋愛って全然わからないんだよな)
そもそも、秀の感情がソレなのかすら、見えない。
男の意地を、煽りに煽って、最後に、雪虎は、意地悪く付け加えた。
「けどそれってさ。力を使わなきゃ、…できねえの?」
刹那。手を振り払われた。かと思えば。
「ぅ、わ」
雪虎の、身体のバランスが崩れる。
何が起こったか理解できないでいるうちに、雪虎は天井を見上げていた。
上にのしかかってきた秀の手が、自然と雪虎の膝裏を掴む。
逆らう間もなく、足の間に、どっしりした秀の腰が割って入った。相変わらず、呆れるほど手際がいい。
呆気に取られている間に、伸しかかってきた秀が、雪虎を憎むような表情で間近から覗き込み、一度、何かを叫ぶように口を、開いて。
―――――ぐ、と抑え込む。
じっと見上げて待つ雪虎の視線の先で、みるみる敗北したような表情に、なって。
「トラは」
そのくせ、遠い憧れを見る目で雪虎を映し、
「強いな」
ぽつり、一言。
次いで。
懺悔しながら罪を犯すような態度で、告げる。
「愛している」
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