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日誌・187 常春の庭
かつて、これほどまでに秀の感情が詰まった声を。
…言葉を。
―――――聞いたことが、あっただろうか。
月杜秀という人間は、いつも淡々と、平坦な声で話し、感情を覗かせない。まるで、感情などないかのように。なのに、今は。
秀が見せる、なりふり構わない、表情と。声と。眼差しが。
雪虎の胸に刺さった。咄嗟に張言葉もない。思考も止まった。
対する秀は、と言えば。
一瞬、途方に暮れた顔になる。
想いに対して、言葉の器があまりに小さかったせいだ。
せっかく、言葉に思いのたけを込めたのに、何一つ言い遂げられなかった、そんな心地が腹の底に蟠る。
口にする端から乾いて逆に飢えるような、そんな気持ちになって。
何か、間違ったのではないか。
胸に渦巻いたその考えに、狼狽えて身動きが取れなくなる。
その間に。
驚きをどうにか脇に寄せた雪虎は、秀を見上げながら慎重に自分の中を探った。
(いや何も、…さっきまでと変わったところはない)
そもそも、今秀が口にした言葉は、雪虎に何かを強制するものではない。
雪虎はそう思ったが。
このとき、外で起きた猛烈な変化を見れば、どう思っただろうか。
万が一、秀が生まれ持ったその力が雪虎にも通用してしまったなら、相当に危険だったのだ、と雪虎はあとで実感することになる。
たとえば。
―――――聞くだけで無条件の幸福を覚える声を耳にした時、ひとはそれに対して抵抗することができるだろうか?
実際、雪虎は危険な状況下にいた。
ただし、幸か不幸か、今、その自覚はない。
罰を待つ態度で雪虎を見守る秀の態度は、恐ろしく深刻だ。
だが雪虎は拍子抜けした心地になる。
なんとなく、悪戯気に笑ってみせた。安心させるように。大丈夫だ、と。
そうして、からかい半分、秀の額に額をぶつける。次いで、不意に真面目な表情になった。
真摯に囁く。
「…ありがとうございます」
「なにが、だ」
抑えたような秀の声に、雪虎は穏やかに応じる。
「頑張って、くれた」
おそらく、秀にとっては。
怖いことのはずだ。本音を口にすることは。
彼にとって言葉は、気持ちを伝える手段ではなく、他者を操る道具となってしまう。
口にするのに、どれほどの勇気がいったことか。
だから、煽った雪虎が真っ先に口にすべきは。
感謝だと、思った。
ただ少し、残念にも思う。
いきなり、恋に落ちるようなことがなかったのは、安心すべきなのかもしれないが。
(ちょっと、経験したかったかもな)
恋とか愛とか、そういう、ものを。
―――――結局、秀が何をどう言ったところで、宣言通り、雪虎は自分がやりたいようにやるだけだ。
だいたい、雪虎が、秀の気持ちに応えるなどできはしない。
それはもちろん、上から目線で取捨選択するというようなものではなくて。
単に、どうしても、雪虎は秀と同じところに立てていないと思うからだ。
つまりは秀に、雪虎が相応しくない。いやそれも、ともすれば言い訳かもしれなかった。
大体、そんなことを言い始めれば、だれが誰に相応しい、と決められるなど、どのような高見にいる存在だというのか。要するに。
雪虎は自分に自信がないのだ。
相手の想いを受け止める以前のところに、雪虎はいた。
結局、…自分は子供なのだな、と雪虎は自嘲する。
そもそもまだ、今まで、遠ざけ、避けてきた弊害で、秀との距離感がつかめない。
自業自得なのだが、考えてみてほしい。
よくできた有能な人間というのは、傍目に見ている分にはいいが、一等、付き合いにくい。
特に、比較され続け、劣等感の強い―――――つまりは器が小さい人間の―――――雪虎から見れば、本当に眩しい限りだ。できれば遠くから眺めていたい。何よりそれが丁度いい。
今更、親しくなどできない。
というか、どうすればいいのか分からない。
今はなんとなく、壁を感じないが、またいつどう変わるかもわからなかった。
だからと言って、雪虎は、だれが好きだというわけもない。…ただ。
思ったのと、方向性は違うが。
(…少しは、解放できたかな)
秀を。
それだけで、雪虎は満足だ。単なる自己満足に過ぎないが。
とはいえ、秀を解放したのは、秀自身の勇気だ。雪虎など、軽く煽った程度に過ぎない。そこらのチンピラにだってできる。
「あんたは、勇敢だよ」
誇らしい気分で言った雪虎に、何を感じたのか。
―――――秀は、全身を使って、大きく長く息を吐きだした。疲れ切ったように、雪虎の身体にもたれかかってくる。
「…ぐ、って、会長、重い…」
圧し潰される感覚に、さすがに文句を言えば、今度は強く抱きしめられた。もっと苦しくなる。
仕方なく、抗議を示して、雪虎は無言で秀の背を叩いた。
「…安心した」
ふと、弱ったような、子供みたいに素直な声が聴こえて、雪虎は目を瞬かせる。
(安心って…俺が、会長の言葉に影響を受けなかったことに?)
そこはよろこぶことではないような気もしたが。
こんな、…弱音のような、気の抜けた瞬間に出る、小さな欠伸めいた呟きなど、秀から聞いたのは初めてだ。
(いつだって、隙のない人だからな)
だがさすがに今は堪えているらしい。
「じゃ、休んでくださいよ」
言いながら、雪虎は叩いた秀の背を、今度は労わるように撫でた。
「でもいいですか、少しでもご飯を食べて、着替えてからちゃんと布団で寝てください」
「…トラは」
「帰りません。ここにいます」
「―――――約束」
「もうしたでしょう。ほら、起きて、立ってください」
もうあの、甘いような、居たたまれなくなる空気は、なかった。
妙に身体が疼く感覚は残っているが、こんな状態の秀に無体はできない。
なに、別の意味で身体を動かせば、こんな疼きなどすぐ消える。
渋々と起き上がった秀の手を、今度は雪虎が引いて、ドアへ向かう。
「とりあえず俺は朝食った後、蔵掃除の点検に入るんで。会長はある程度休んでください。あ、あと、まだ聞いておきたいこともあるから、時間ができるようなら…」
離れに来てくれないか、と言おうとして雪虎は止めた。
家主を呼びつけるなど失礼な気がしたからだ。
代わりに、こう言った。
「俺から会長の書斎に行くんで、都合のいい時間を教えてくれたらと」
次いで、ドアを開けた雪虎は。
―――――目の前に広がる光景に、絶句した。
室内にいた二人は気付くはずもなかったが。
秋口に入り、枯葉の舞っていた離れの庭は、このとき。
―――――常春の様相を見せていた。
草があおあおと生い茂り、花が蕾をつけ、一気に咲き綻ぶ。池近くの桜の木など、狂い咲きの満開となっている。
雪虎は瞬時に理解する。これは。
―――――秀の言葉が及ぼした影響だ。
庭の手入れをしている家人など、呆気にとられ、しばし言葉もないほどだった、というのは、後日聞いた話。
秀の力を目の当たりにした雪虎は。
ようやく自分がどれだけ危険なスイッチを考えなしに押したのか、自覚して、青くなった。
当の本人は、その光景を、何を考えているか分からない無表情で見上げ、
「ああ、見事に咲いたものだね」
他人事のように、言ったものだった。
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