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日誌・196 ただいま

「…よ…っと」 締め切っていた雨戸を開ければ、土埃がたまっているのか、開けにくくなっている。 雪虎は身を乗り出して、桟を覗き込んだ。 思ったとおり、ひどい有様だ。 今年はバケツの水を何回変えることになるかな、と外の水道を見遣れば、その排水溝に枯葉がいいように溜まっているのが見えた。 さていったい、どこから手をつけよう。 ここは祖母の家。 今年は残りわずか。 とくれば、大掃除である。 幸い、休日初日の今日はいい天気だ。 早朝の冷えた空気もさほど気にならない。 朝のひかりの中、雪虎の白い息が流れた。その流れ行く先へ目をやった雪虎は、独り言ちる。 「障子も張り替えるか」 そんなに日光も取り入れていないのに、障子が黄色くなっていた。そう言えばこの数年、放ったらかしだ。 ぐるり、室内を見渡せば、それでも久しぶりに流れ込んできた外の空気に、部屋の中が洗われていくような心地になる。 もちろん、毎年、手入れに手を抜いていたつもりはない。 が、今年はさらに気合を入れて手入れする予定だ。 なにせ。 雪虎は仏壇を見上げ、ぽつり、呟いた。 「結局、戻ってきたよ、ばあちゃん」 雪虎は、年末年始の休みを利用して、この家に引っ越す手筈になっている。 …ただ、本来、雪虎は。 この家に、住むつもりはなかった。なかった、のだが。 このように決定した理由は。 (会長がなぁ…) 御子柴の寮に仮住まいして、家探しをしているくらいなら、月杜家に住めばいいと言い始めたのだ。 きっと、ずっと思っていたが、言えなかったこと、なのだろう。 最近、秀から遠慮が消えて、連絡もマメに取るようになった結果、雪虎のことに口出しするようになってきた。 雪虎のことを考えて言っていると分かるだけに、雪虎も強く出られない。 よって、そのままでは、強引にコトを進められそうな感があった。 そうなれば、確かに楽だろう。だが。 ―――――妹の死をきっかけに、両親も含め、月杜と縁を切った。 雪虎は、完全にそういうつもりでいて、そういう態度を取ってきたのだ。 今更甘えられるわけがない。 第一、親戚連中に合わせる顔などないのだ。正直、会いたくもない。嘘偽りない本音である。 かと言って、秀を納得させるような適当な部屋も見つからず―――――いや秀を納得させようとした時点で難易度はべらぼうに上がると気付いた時には既に引けない状況になっていた―――――挙句に御子柴家もくちばしを突っ込んできて、とにかく全部がなっとくする場所としてあきれ顔のさやかが提案してきたのが。 ―――――あるじゃない、ひとつだけ。 祖母・巴の家だった。 さやかの言葉通り、雪虎がそこに住むと宣言すれば、面白いように皆が黙った。 となれば、もう引っ越してくる以外の道はない。 仏壇には、女傑で知られた祖母の写真がある。 雪虎の言葉に、返事をしてくれる誰も家の中にはいないのに、どこかでため息をついた気配がした。 気のせいなのは、分かり切っているが。 きっと今の状況を見れば、巴はじろりと雪虎を見て、こう言うだろう。 ―――――情けない孫だ。 誰に対しても同じ、厳しい顔でズバッと切り捨てる口調で的確にモノを言う人物だった。 怖い婆様と近所で思われていた女性だが、それでも雪虎は、子供の頃は彼女がこの世で一番好きだった。 雪虎だけに優しいとか、そんなことはなかったのに、どうしても嫌いとも怖いとも思えなかったのだ。 不思議なものだ。 写真でも厳格そうな面立ちを眺めていると、不意に、倒れた祖母と共に、救急車に乗り込んだ日を思い出す。 倒れた彼女の隣で、救急車を待つ間、雪虎は何もできなかった。あの日ほど。 自分の無力を恨んだ日はない。 何とはなしに、あの日と、今とを思う。 (少しは、変われたかな) 心持ちは、確実に変わったろう。 ―――――この家に戻ってはいけない。 雪虎は、なにか、頑なにそう思っていた。 その気持ちの正体なら、知れている。 無力だった自分に対する嫌悪と憎悪。それから。 側にいながら、何もしてやれなかった祖母に対する罪悪感。 雪虎は、迷惑をかけるだけかけて、結局彼女に、何も返せなかった。 だが、今、心を探ってみると。 不思議なことに、どこを見ても岩のように居座っていたあの気持ちが、どこにもないのだ。 過ぎて終わったことはもう、取り戻せないけれど。 今、思い出しても、それは切れるような痛みを誘発する記憶ではなく、柔らかな優しさに満ちた思い出に変わっていた。 だからだろう。 もう、戻ってもいい、と自分を許せたのは。 雑草が生い茂った冬枯れの庭へ視線を流した時。 スマホが鳴った。 すぐに切れたから、電話ではない。 なんとなく、浩介からだろうか、と予感して取り上げる。 なにせ、仕事納めの日まで、彼は大掃除の手伝いに来ると言い張っていたからだ。 親しいとはいえ、さすがにそこまでは頼めない。 自分の家だけきっちりやれ、と何度も言い続ければ、最後には諦めてくれたようだったが。 (学生時代から、どうもアイツは読めないんだよな…) やはりこれから行きます、とかこういうタイミングで言い出しそうな人間ではある。 そして言った時にはもう行動しているのだ。 というか、かつて何度かやらかしたことがあった。 昔を思い出しながら、つい半眼で雪虎はメッセージを見る。 とたん、―――――血の気が引いた。ぽつり、呟く。 「…なんで知ってんだ」 幸か不幸か、相手は浩介ではない。 恭也だ。 文面は短かったが、引っ越しについて書いてある。 雪虎は恭也に、引っ越しのことなど話していない。 第一、ここ最近は会っていないのだ。互いの動向など知る由もない、はずだが。 文面には、手伝いに行きたかったんだけど仕事が入って、と書いてあった。来なくていい。 第一、あの男の使い道の選択肢には、絶対、掃除という文字はない。 雪虎は、これから自分がしようとしていることと恭也の仕事の落差を考え、それを同じレベルで考えているような彼の常識は少しおかしいのだろうと思いながらも、下手な返事はできない。 読むかどうかは分からないが、気にするな、といった内容のメッセージを送り終え、雪虎はスマホを机の上に置いた。 それにしてもタイムリーにメッセージを送ってきたものだ。 (黒百合か…) 諸々の情報を恭也に渡すのは間違いなく、彼女だ。 相変わらずいい腕と性格である。 心臓に悪い。 まあ、生きているようなら何よりだ。 たまにこうしてメッセージを送られてくるのには、毎回驚くが、無事なのだと安心はする。 雪虎は立ち上がった。 いつまでも座り込んでいては、祖母に尻を叩かれる。 「障子や草抜きはあとにして、まずは掃き掃除だな」 段取りを決めながら部屋を横切ろうとして、雪虎はまた仏壇に目をやった。 肝心なことを忘れていた。 雪虎は、満面の笑みで、祖母の写真に向かって言った。 「ただいま」

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