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07
「なにしにきたの? 他に命令してくれる人がいなくて飢えたってか」
「違う、私はっ、……私は、……なにをしようと思ったのだろう」
「知らねーよ」
迷子のアヤヒサは窓枠にかけた俺の手を取って、頬ずりをする。
振り払う気にはならなかったので、気ままにその頬をすべってゆるりとべっ甲の眼鏡を奪ってやる。
「言っただろ。〝決して振り返らずに、どこか遠くへ、さようなら〟って」
自分の目元にかけてみた。
けれど逆に視界が湾曲しただけで、コイツの内側が透けるわけじゃない。
同じものを得ても、アヤヒサの見ている世界と俺の見ている世界はこんなにも違う。
アヤヒサの世界が鮮明になるコレは、俺の世界を歪に変えた。
それじゃあお互いを理解することは、できないのだろう。
手放したはずのアヤヒサが戻ってきたって俺とはもうなんのつながりもない。
強いて言うならセックスがしたいくらいかもしれないが、キョースケとシてわかった。今の俺にはもうあんまりそういう欲望もない。求めるなら従うけど自分はいいや。
だから、そういうのはもういい。
そういうの、全部もういい。
俺にはフリしかできないし、俺の世界は依然歪んだままなんだよ。
「……ああ。けれど咲は言ったから……〝好きなところに行っておいで〟と……」
なのに批判的な言い方で、アヤヒサは俺の目元から眼鏡を奪い返した。
フィルターのない視界で、眼鏡をかけなおしたアヤヒサが俺の首筋を指でなぞり、身を乗り出してそこへ口づける。
チュク、と皮膚を吸われた。はは、キョースケとおんなじことしてら。
「だから好きなところに来たのさ。……咲のそばに、いる方法」
「へぇ」
熱い舌が肌をねぶって吐息が粟立ちをもたらす。生々しいロボットだわ。
「それ、どゆこと。わかるように翻訳して?」
興味が湧いたから車内に頭をねじこみ、シフトレバーを押さないようセンターコンソールに手を置いて支えた。
アヤヒサに吸われたところと同じ場所に噛みつくと、シートに縫い留められた男が「ん……」と鼻から抜けるように息を吐く。
「考えたのだよ。私はあなたのそばにいたかった。どうやったらそこにいられるのかわからなかったから、あの日は四肢をスクラップにされてしまったような酷い崩壊を味わってしまってね」
「壊れたの? 見せてみ」
シュルリとネクタイを解いて、シャツのボタンをプツ、プツ、と外す。
「しかし諦められない。私は考えた。好きなところとはどこだろう、と」
「うん」
「私は咲のそばにいたい。私の好きなところはあなたのそばだ。ほら、命令通りで希望通り。素晴らしいグッドアイデアだよ。そうだろう?」
「完ペキ壊れてんな」
「至って正常さ。壊れているのはあなたじゃないか。あなたが好きなところに行けばいいと言ったのだから既に許可されている。ならばあとは会いに行くだけ。当然に私はあなたのそばにいてもいい。……はずだ。……咲」
「自信ねーならさも名案みたいな語り口調で言うのやめろ? 大人の悪い癖」
ジャケットもベストもシャツも脱がさないままボタンだけを外すと、布がキレイに真ん中で割れて、裂け目から素肌が現れた。
マメに鍛えた肉体は、四十近い壮年の男とは思えないハリがある。
傷なんてどこにも見当たらず、壊れているようには見えない。俺のカラダに傷一つないのと同じで、アヤヒサだって無傷だ。
不思議に思って、胸元に触れた。
ペタリと肌同士が密着する。
手のひらで感じるアヤヒサの中身は、ドクン、ドクン、と大きく鼓動していた。
「アヤヒサって、生き物だったんだ」
は、とわずかに目を丸めた。
ドクン、ドクン、ドクッ、ドクッ、ドクッドクッ、ドクッドクッ、ああ嫌だ、生きてる、オマエ、生きてんの?
レンズの向こうの琥珀色をした瞳が潤んでいる。頬が赤い。嘘みたいな反応だ。同じじゃなかった。アヤヒサ。
大人の低い声が、泣きそうだ。
切なく震える、か細い子どもの声。
わからないことが、また増える。
「うん。でもそうじゃないと思っていい。今度はそうだ、空気になろう。私はあなたを取り巻くただのそれになる。だから……」
「イカレてんな。ただのアヤヒサでいいよ」
「っなら私はっ、……っぼくは、ここにいてもいいだろう……?」
その言葉を聞いて──思い出した。
『ぼくの居場所は、誰かが望むから貸与された借り物なんだ。……ぼく自身がどこにいたいのかは、ぼくにもわからないよ』
アヤヒサは、本当は自分のことを〝ぼく〟と呼ぶ、誰よりも幼い男だったことを。
仮面をかぶっているわけじゃなく嘘でも演技でもない。素質通りに順当なアップグレードを重ねてできあがった今のアヤヒサは、きちんと本人も望む本人の姿だ。
だけどその昔。
父親に従ってあの屋敷にやってきたアヤヒサは、自分の置き場と振る舞いに指針がないただの大きな迷子で。
そして今のアヤヒサも昔のアヤヒサも、確かに〝忠谷池理久〟に違いなくて。
大人に振り回されて子どものまま大人にならざるを得なかっただけのアヤヒサは、俺と同じじゃなくて、ちゃんと心の柔らかい血の通った人間なんだって。
そんなこと、忘れていた。
「オマエ、ここにだけはいちゃダメだね」
──迷子のアヤヒサを「ここにおいで」と自分の隣に呼んだのは、俺だったっけ。
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