233 / 306
18(side蛇月)
「ハル? なんでいんの」
「お前のいるとこにゃ俺がいんの〜」
「ジョーダン。本当は?」
「わはっ、昼寝が長ぇから茶々入れに来ただけ。今夜は俺と夜遊びする約束だろ? 今寝んのはやめとけ。したらキングサイズのベッドで添い寝してやんよ」
「なにそれ愉快。ま、いつものことだし、別に寝れなくてもいいんだけどサ」
「はぁん? 俺だけ寝たらなんかムカつくじゃねぇか。春ちゃんが寝るっつったら咲ちゃんもねんねですぅ〜」
「んふふ、なんだそれ。じゃ〜起きとこっかねぇ〜」
コンクリートに手をついて欠伸を噛み殺しながら気だるげに了承する咲と、俺を食い殺そうとしていたさっきまでの顔が嘘のようにニヤニヤと無邪気に笑う野山の会話を、青空をバックにただ見ているだけの俺。
俺の知らない話だ。
咲は俺の知らない話を俺以外として俺以外に向けて笑っている。
俺を無視して、野山、だけ。
──……ズルい。
心臓が爆ぜそうに鼓動していた。
血液が沸騰する言いようのない衝動を、こっくりと黙り込んで抑え込む。
あえて言うなら嫉妬だ。憎悪だ。殺意だ。羨望だ。絶望だ。悲愴だ。啼泣だ。それらすべての象徴だ。そうあるべきだ。
それ以外でと言うなら、一番近い感覚は〝崩壊〟だろう。
崩れ落ちていく俺をしり目に、数言会話してから軽くちょっかいをかけて咲とじゃれ合った野山は、ヒョイと飛び降りて機嫌よく屋上から出て行った。
バタン、とドアが閉じる音がする。
けれどまた二人きりになれたのに、俺の心のモヤは晴れないままだ。
泣きたいような、叫びたいような、暴れたいような。
こんな気持ちになるのは初めてで、この感情をどう処理していいのかわからない。
歪んだ醜い表情で黙り込む俺を、咲が不思議そうに覗き込む。
そうすると俺が抑え込んでいるものなんて一目瞭然にバレバレなのに、咲は特に動じることなく当たり前に受け入れて、日常と同じ仕草で俺の頬に手を添えた。
泣いて、しまう。
「タツキ、どしたの? 無神論者みたいな顔しちゃって」
「っ……さ、き。咲……」
「ここにいるだろ。はは。見えてねぇのな」
片腕でトン、と抱き寄せられる。
だけど咲がどれだけ笑って俺を抱きしめてくれようが、今の俺には、咲を信じることができなかった。
だって、ここには誰もいねえんだ。
俺には咲が見えねんだ。
心底そう感じるくらい酷く不安定で孤独な気分で、あぁ──嫌だ。
咲、どこにも行かねぇで。俺と一緒にいて。俺を忘れねぇで。俺が見えないみたいな咲は嫌だし、俺には咲のことがちっともわかんねぇけど、でも、だって、なぁ、お願い、おねがいだから、さき。
ここにいてよ。
──ここにいようよ。
「咲……咲……っ」
崩壊した俺は泣きながら縋りつき、咲、咲、と何度も名を呼んだ。
そのたびに咲は返事をしてくれた。
本気かジョークかわからない態度で子どもを相手取るように俺を扱い、それでもいつも通りに笑って返事をしてくれた。
ほら、最高で最低で、唯一無二の人。
俺が咲の笑う理由がわからないのと同じで、咲だって俺がなんで泣いているのか、これっぽっちもわかっちゃいないだろ。
でもそんな咲が、俺を好きになればいいのにって、俺は今でも思ってるんだ。
そんな咲を、俺のものにしたい。
俺の一番好きな人が咲なんだから、咲の一番好きな人が俺になれば、叶うよな?
親友にも勝てるような一番咲に好かれる関係が欲しい。それになりたい。
それはなんだろう?
俺はどうしたらそれになれる?
「咲……」
「ん?」
「……抱いてくれよ」
──今思えば、浅はかな考えだ。
けれど生活を捧げて趣味に溺れるほど一つの物事に執着する質である俺が、音楽以外に……人間に興味を持ってしまったら、何れはこうなって然るべきだったのだろう。
床も壁も天井も五線譜だらけの白い部屋に、一枚の写真を貼り付ける。
タイトルは〝息吹咲野〟。
ああ──これが恋って感情か。
「添い寝なんかよりもっとイイこと、オレにならなんでもシていいンだぜ?」
俺に全てを教えた男は、一生モノの呪いとして、俺に恋を教えた男だった。
◇ ◇ ◇
閉じたドアを呆然と眺めていた俺は、ハッ! と我に返り、慌てて咲の背を追いかけて玄関へ駆け出した。
「咲っ!」
バンッ! とドアを開く。
広々とした廊下に咲の姿は見えない。
冷や汗が吹き出す。青い顔で名前を呼びながらなりふり構わず走ってエレベーターホールへとたどり着くが、そこに咲の姿はなかった。
「っ……嫌だ、咲ぃ……っ」
ガクガクと震える足じゃ体を支えきれず、俺は後先はばからずその場にみっともなく泣き崩れた。
俺は、翔瑚みたいに諦められない。
咲がいなくなっても、諦められない。
だって俺は、一番諦めの悪い男。
「あぁ、あぁっ、さ、咲がいないと、オレ、じゃなくなる……っ」
昔の夢を見たのは、こんな世界がやってくるという暗示だったのかもしれない。
つまりこれは、カミサマを独り占めしようと企てた俺への罰だ。
好きだなんて言わないから、この体を好きに使っていいから俺が一番ステキな男で、諦めなければいつか叶うし、叶わなくても終わりなんてこないだろうと驕った。
でもそんなのは、どうでもいいんだ。
もういいんだよ。
本当は唯一無二の相手になんかなれなくてよくて、あれはただのバグで、どういうことかというと、俺の恋は、俺の夢は──
「俺だけじゃなくても、よかったんだ」
──ただおれを……愛してくれれば、それでよかったんだ。
その日から、咲は姿を消した。
いつも気まぐれでなにごとにも執着しない咲は、終わり方だって唐突で、日常の一筋に違いない平凡な機微で終わる。
さようならですら、言わせない。
そういう最低な男だった。
ともだちにシェアしよう!