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第1話

 佐野さんは可愛い。  佐野さんは会社の先輩で、見た目は地味だしちょっと鈍くさい。だけど、面倒見がよくて、優しくて、照れ屋で、はにかむ顔がとても可愛い。  あれはいつだったか。  佐野さんが初めてお弁当を持って来た日に、美味しそうだと感想を零したとき。彼は、垂れ目がちの目をまん丸にしてから 「ありがとう。まだ料理始めたばっかりで、修行中なんです」  と、柔らかくはにかんでいたっけ。  あの時の照れて赤らんだ頬と、袖口から覗く白い包帯の眩しさをよく覚えている。  佐野さんはいつも怪我をしている。  手足に包帯や湿布が見え隠れしたり、顔に絆創膏を貼っていたり。先の怪我が治る前にまた次の傷をこしらえているものだから、周りも本人も慣れっこらしい。 「僕、昔からおっちょこちょいで。大した怪我じゃないから気にしないでください」  そんな風にこともなげに言って、恥ずかしいなあ、なんて眉を下げている。  怪我の理由については教えてもらえたためしがない。  他の先輩や上司にそれとなく探りを入れてみたけれど、誰も詳しくは知らないようだった。  確かに佐野さんは少しとろい。たまに何も無いところで躓いているし、書類は落っことすし、コピー機とシュレッダーを間違えたりする。  けれど、いくらなんでも多すぎやしないか。  普通に生活していてそんなに怪我をするものだろうか。  そんな風に疑っていたから気付いたのかもしれない。  あれは、佐野さんと話すきっかけが欲しくて、すっかりお馴染みになったお弁当のレシピを訊いてみた時のことだ。  佐野さんは嫌な顔一つせず丁寧に説明をして、わざわざメモまで書いてくれて。手渡されたメモの少し癖のある字を見て、私はふと首を傾げた。分量がすべて二人分で書かれていたからだ。  いつも二人分作っているのか。何の気なしに尋ねた私に、佐野さんはちょっと目を丸くして、それからぱっと顔を赤らめた。恥ずかし気に頬を掻きながら、手元に視線を落とし 『本当は人に話すなって言われてるんですが、いつも同居人……ええと、恋人の分も作ってるんです。だからレシピも二人分で覚えてしまって』  内緒話の体で伝えられた言葉に、今度は私が目を丸くする番だった。ぽかんとする私に佐野さんがふわりと笑みを向ける。ふにゃりと柔らかい、幸せそうな照れ笑い。佐野さんはまた自分の手元を見下ろす。  見詰めているのは、手首に巻かれた白い包帯だ。    その時気付いたことがある。佐野さんは、お弁当を食べるときによく手首や腕を摩っていた。  あれは怪我をした部分を気にしていたんじゃないか。  もしかしたら、怪我の原因は恋人なんじゃないか。  浮かんだ考えを否定しようとつらつら思考を回す。DV被害は女性の方が多い。が、男性が被害者になることだってあるだろう。佐野さんは小柄で痩せているし、暴力を振るわれても抵抗なんて出来そうにない性格だ。否、そもそもDVと決まった訳ではない。けれど、もしそうなら、怪我の頻度が高いことや視線の意味もきれいに説明がつく。  そうこうするうち昼休みが終わっても、私の頭には嫌な想像がこびりついて離れなかった。    そして数日。私はもやもやした気分を抱えたまま、かといって佐野さんに直接問うこともできずに週末を迎えた。  気分を変えたくて友人と飲みに出掛けたけれど、駄目だった。何度頭から振り払っても、佐野さんの手首を彩る白い包帯が離れてくれない。結局、上の空の私を心配した友人の勧めで私は一人とぼとぼ帰路につくことになった。  友人たちには申し訳ないことをした。しょんぼり肩を落としながら、賑やかな夜の繁華街を歩く。  その時。喧騒に紛れ、馴染んだ柔らかい声が聞こえて私は思わず足を止めた。人波の向こうに目を凝らす。  やはり、そこに居たのは佐野さんだった。しかも二人連れ。けれど、予想に反して隣に並んでいるのは男の人だった。佐野さんよりもかなり背が高く、体格も良い。黒マスクと丸眼鏡で顔立ちはよく判らないが、派手な赤い髪と、耳朶にこれでもかと飾られたピアスは遠目にも目立っていた。  見るからに怖そうな、佐野さんとはまるでタイプが違う男の人。けれど、そのごつごつした右手は先輩の華奢な左手としっかり繋がっていた。しかも指を絡め合わせた恋人繋ぎ。肩を寄せ合い歩く佐野さんは幸せそうに微笑んでいて。  ああ、あの人だ。あの人が佐野さんの恋人に違いない。  相手が同性だったことには然程驚かなかった。それよりも、いかつい体格や派手な風貌から、あの男が暴力を振るう姿は容易に想像できてしまう。佐野さんの怪我を思い出して血の気が引いていく。  気付いたときには後をつけていた。いけないとは思いつつも、『佐野さんが心配だから』と自分に言い訳をして、二人の少し後ろを歩く。漏れ聞こえる会話は一方的で、佐野さんが男に向かって話しかけても、男は相槌すら打っていないようだ。まっすぐ前を見たまま大股で歩く男。掴んだ手を乱暴に引いて、佐野さんが転びそうになってもお構いなしだ。ちらりと見えた横顔は酷く険しい。  乱暴で自分勝手な男。佐野さんはどうしてあんな男に付き合っているのか。  見ているだけの私は腹が立って仕方ないのに、佐野さんはといえば、相変わらず男の隣でふわふわと笑っている。頬がぼんやり赤いのはきっと飲んだ後なんだろう。佐野さんはお酒に弱い。飲み会では最初の一杯だけですぐ赤くなってしまう人だ。足元も正直ふらついていて、私は危なっかしさにハラハラしながら後を着いて行く。  と、不意に二人の姿が人混みから消えかけた。慌てて追いかければ、大小二つの背中は狭い路地へと入り込んでいる。表のアーケード通りとは違い、入り組んだ路地は薄暗く、他に通行人の姿も無い。私は二人に気取られないように足音を殺して距離を詰めていった。なんとか声が聞き取れるまで近付いて、物陰に隠れる。そっと二人の様子を窺い――私はその場で凍り付いた。 「我慢できなくなっちゃった?ふふ、真っ赤になっちゃって、可愛いね」  よく知った声が聞き慣れない響きで笑う。はにかむような笑顔とは似ても似つかない、目と口が三日月に裂けたまるで蛇のような笑みが、遠いアーケード通りの明りに映し出される。  先程まで佐野さんの手を引いていた、あの恐ろし気な男は、笑う彼の前に跪いていた。薄汚れたアスファルトに膝をつき、佐野さんの細い体に縋り付いている。ここからでは後ろからしか見えない。けれど、赤い頭が不自然に揺れる様や、時折交じるくぐもった呻き声、粘ついた液体を啜るような音で、二人が何をしているか察するには十分すぎた。 「あは。ほんと、おしゃぶり上手になったねぇ。最初は酷かったのに……ん、そう、いいこいいこ」  裂けた唇から零れる言葉が私の想像を補強する。佐野さんの白い指が男の赤い髪を撫でるのが見えた。もう片方の手には、男が掛けていた丸眼鏡。その蔓を口元に運び、思わせぶりに舌を這わせてから胸ポケットにしまう。あからさまに色を感じさせる仕草だった。  距離があるのに音も映像もやけに鮮明だ。これ以上見てはいけない。そう理性が訴えているのに、目が離せない。  不意に男の頭ががくりと上向いた。否、違う。佐野さんの手が、男の頭を撫でていた筈の華奢な指が、前髪を乱暴に引っ掴んで上向かせていた。男のものだろう苦し気な呻き声。けれど佐野さんは構わず男の頭を揺さぶって、自分の体から引き剥がす。 「いい子にはご褒美をあげなくちゃ」  笑って、直後、鈍い音が鳴った。硬い物を何かに思い切りぶつけたような音。佐野さんの右手が振れて、男の体が揺れる。そのまま二度、三度と音がして、男のうめき声が響いて。  四度目で漸く、佐野さんが男を殴りつけているのだと理解した。 「う゛、ぐぁ……ッ、――っ」 「いいこ、いいこ」  くすくす笑う声は先程男を撫でたときとまったく変わらない。殴って、殴って、蹴飛ばして。佐野さんが四肢を振るう度に、男の体がぎしぎし軋んで揺れる。まるでサンドバッグだ。  一方的な暴力の雨はどれだけ続いたのか。数分か、もしかしたらもっと長かったのかもしれない。漸く殴打の音が止む頃には、私はすっかり身が竦んで動けなくなっていた。 「もっと可愛くなったね。ご褒美、気持ち良かったでしょ」  散々殴りつけた男をうっとり眺め下ろし、佐野さんは掴んでいた髪を唐突に離す。男の体は重力に従いぐしゃりと頽れた。佐野さんは、肩で息をしながら何かを払うように手を振っている。きっと血だ。暗がりでもそのグロテスクな色が見えた気がして背筋が寒くなる。  これまで私が抱いていた佐野さんの偶像ががらがら崩れていく。真面目で、優しくて、照れ屋で、ちょっと鈍くさい、可愛い先輩。暖かで柔らかいイメージが、血腥い赤で塗り替えられていく。 「まだ足りない?そうだね、僕ももっと可愛い君が見たいな。ほら立って、もっともっと気持ちいいことしよう」  佐野さんが降らせる甘い睦言が耳に届いた。差し伸べる手に、男は地べたを這う虫のように縋りつく。逞しく大きな男の手。それが華奢な佐野さんの腕に縋り、がりがり爪を立てながらしがみついて。私の脳裏にいつかの包帯の白さがフラッシュバックした。  ああ、怪我の原因はやっぱりあの男だったんだ。  佐野さんが男に肩を貸す格好で、二人はよろけながら立ち上がる。その時、男の乱れた赤い髪の隙間から、血みどろの肌が覗いた。元の顔貌が判らないほど傷だらけなのに、腫れた唇は笑みの形をして、半分潰れた目は眦が柔らかく下がっている。  それはあの日の、恋人の話をした佐野さんの笑顔とよく似ていて。  男を立たせると、佐野さんはその肩を突き飛ばすように壁に押し付けた。そうして、壁に手をつく男の背に覆い被さる。二つの影がぴたりと重なる寸前、唐突に佐野さんが後ろを振り返った。 「―――」  にい、と唇が三日月に裂ける。向こうから此方は見えない筈なのに。恐怖にぞわりと総毛立つ。 「っ!」  途端、弾かれたように体が動いて、私は一目散に駆け出していた。  息を切らせて走る。走る。走る。  真っ白な頭に、あの笑みがいつまでも焼き付いて離れなかった。

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