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第1話
優一兄ちゃんが、死んだ。
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元々心臓が弱かった兄ちゃん。
兄ちゃんが10歳の時に僕が生まれて、
退院するのと入れ違うように入院した。
家に居ないのが当たり前だった兄ちゃん。
それでも病院にお見舞いに行けば、色んな事を教えてくれた。
優しくて、頭が良くて、大好きだった兄ちゃん。
10年頑張ったけど、兄ちゃんの好きな『春』を選ぶかのように、3月に入ってすぐ、死んでしまった。
最期は意識も無くて、呼吸も弱くて、言葉も途切れ途切れで。
それでも何かを、言おうとしていて。
先生の「ご家族を呼んでください」って言葉に、電話を掛けに走った叔母さんの代わりに、それをどうしても聞きたかった僕は、兄ちゃんの口許に、一生懸命に耳を近づけた。
「…、る」
「何?兄ちゃん?」
「か、け…」
かけ…る?
って
「翔、兄ちゃんの、事?」
時々、兄ちゃんのお見舞いに来てくれていた、
近所のお兄ちゃん。
兄ちゃんがまだ、学校に通えてた頃に出逢ったらしい、入院しても10年間ずっと変わらずお見舞いに来続けてくれた、たった一人の、お友達。
その名前を出した途端、兄ちゃんの表情が、和らいだ、気がして
「何か、伝言?」
そう、聞き直した時にはもう、息を
してなかった。
「成人まで、保って良かった」
そう、お母さんは言った。
ちっとも“良く”なんかないのに。
お母さんは、おかしい。
「せめてもの救い、
だな」
そう言って同意するお父さんも、おかしいよ。
お父さんも、お母さんも、兄ちゃんが好きじゃなかったんだ。だから兄ちゃんは、最後に、翔兄ちゃんの名前を呼んだんだよ。
なんだか腹が立って、僕はその事を、両親に伝えた。
後日、お通夜にも、お葬式にも翔兄ちゃんは来てくれたけど、お母さんがすごく大きな声で怒鳴り付けて、毎回お兄ちゃんを追い返してしまっていた。
それが、もしかしたら僕のあの、大切だと思って言った“最期の言葉”のせいかもしれないと、なぜか罪悪感のように、自然に思っていた。
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翌週の日曜日
翔兄ちゃんの家に、独りで向かった。
お母さんに言うと、叱られそうな、そんな気がしたから、『友達と遊んで来る』と嘘を吐いた。
「ピンポーン」
チャイムを鳴らしても、誰も出て来ない。
「ピンポーン・ピンポーン」
つい、何度も押してしまったが、やっぱり誰も出て来なかった。
『留守、なのかな』
諦めて帰ろうとした瞬間、人の声が聞こえた気がした。
耳を澄ますと、それは家の裏からで、それもどうやら人の声と言うより、TVから漏れる声の様だった。
『なんだ、居るんじゃん』
そこは子供の特権を活かして、家の脇の塀との隙間を、壁伝いにぐるりと巡り、家の裏まで回り込む。
唯一15cmほど開いていた、裏口代わりの窓は、中をカーテンで塞がれていて確認する事も出来ない上に、昼間だと言うのに薄暗く、どんよりとした空気が零れ出ているような気がして。
まるでお化け屋敷に来たように、足が竦んで、そこから動けなくなってしまった。
中からは変わらず、TVの声だけが、零れ聞こえて来る。
『家…、間違えちゃったかな』
何せ翔兄ちゃんとの接点は病院の中でしか無く、家も“近所だ”と言うだけで、場所の説明も口頭で大まかに聞いただけだ。
それでも『逢わなければ』と思わせられるのは、両親の、翔兄ちゃんへの態度と、何より、兄ちゃんの最期の言葉を、本人に伝えたい、との想いからだった。
『そうだ。怖がってる場合じゃない』
そう自分を奮い立たせて、窓の隙間から声を掛ける。
「こんにちはぁ~」
声が震えるのに気付いたけど、気付かないふりをする。
「翔兄ちゃん、居る?」
言い切らないうちに、中のカーテンが開かれ、窓も大きく開かれた。
「さと、し?」
「ぁ。」
『場所、合ってた』
そう言おうと口を開いたハズなのに、声が出て来なかった。
翔兄ちゃんは、たった一週間会わなかっただけで、だいぶやつれて見えた。
お葬式の日でさえ、痩せたように見えていたのに、今はそれ以上だ。
「よく、来たな」
無理矢理な笑顔を作って、それでも招いてくれたので、ブロック一つ置かれた下足置き場に靴を脱いで、窓から上がらせて貰う。
室内は、今まで一度も開かれなかったのか、妙にひんやりしていた。
窓から入る光に照らされ、息を吹き返すみたいに明るく、じんわりと暖かくなって行く。
「麦茶で、良いか?」
開けっ放しのドアから台所へと向かい、冷蔵庫を開きながら問われる。
「うん」
短く応えて、初めて入る翔兄ちゃんの部屋の中を見回した。
簡易ベッドや旧型のTV、一人用テーブルに、小さな机とカバー付きハンガーラック。
それで説明が足りるほどの、殺風景な部屋。
ただ一つ、随分と小ぶりな壁掛けのコルクボードには、僕と、兄ちゃんと、翔兄ちゃんの三人で撮った写真が数枚だけ、ポスター一つ無い部屋に、やけに目立って掛けてあった。
「それ」
声を掛けられて、振り向く。
「最期の一枚に、なっちまったな」
麦茶のグラスを受け取りながら、
「うん」
また、言葉少なに頷いてしまった。
写真の中では、みんな、笑顔だ。
「辛、かったな、敏志も。」
そう言って、頭を撫でてくれる掌は、兄ちゃんのそれより、ずっと大きくて驚いた。
そうか、兄ちゃん、痩せっぽちだったから、手も、ちっちゃかったんだな‥‥
そんな事に、改めて兄ちゃんのひ弱さを再確認する。
「僕は、家に兄ちゃんが居ない事に、慣れてるから。」
一口飲んで、テーブルにグラスを置きながら
当たり前のように答えたら、翔兄ちゃんの方が辛そうな顔をして
「けど。」
一瞬、言い澱んでから、続ける。
「もう、病院に行っても、兄ちゃんには」
『会えない』
最後は言葉にならなかったけど、何を言いたかったのかは、当たり前の様に分かった。
それは、僕に、と言うより、自分に、言い聞かせてるみたいに、見えたから。
「兄ちゃんね」
ここに来た目的を、果たそうと口を開いた。
「最期に、“かける”って、言ってた」
ぐしゃ。って、翔兄ちゃんの顔が、歪む。
「ゆ、ぅ‥‥」
多分、兄ちゃんの名前を、言おうとして
「ぅう、うあ、あぁぁ‥‥」
嗚咽に、塞がれてしまった。
泣き崩れる、って、こういう事なんだろうな、と、やけに頭が冷めていたのは、きっと、先に泣かれてしまったからだろう。
慰めようとして、腕を伸ばして、背中を摩 ったら、力一杯抱き締められた。
嗚咽は、止まらない。
それを止めてあげたくて、言葉を繋ぐ。
「兄ちゃんさ、」
きっと、兄ちゃんが伝えたかったのは
「兄ちゃんの最期の言葉は、お父さんでも、お母さんでも、目の前に居た僕でもなくて、
翔兄ちゃんの、名前だった。」
沢山、言いたい事はあったんだろうけど、でもそこに、兄ちゃんの想い全部が詰まって居たんだと、自然に思えた。
兄ちゃんが死んだ事を、ちゃんと受け入れて、『寂しい』と、『哀しい』と、泣いてくれる、
この人だから。
「兄ちゃんは、翔さんが、
好き、
だったんだね」
翔さんが、きっと僕よりも両親よりも、誰よりも
一番、兄ちゃんに『生きていて欲しい』と願ってくれていたんじゃないかと、妙に確信めいた事を思いながら、翔さんが泣き止むまでずっと、
抱き締め続けてあげた。
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それから僕は、毎週のように翔さんの家に通い始めた。
翔さんの家は片親で、母親が昼夜働いているからほとんど家に居ないと言う。
そういう“孤独感“みたいな物が、兄ちゃんと共有出来て、分かり合える所だったのかもしれないと、自分で言っていた。
翔さん本人も、兄ちゃんの死のショックで二週間ほど会社を休んでしまったらしいけど、それ以降はなんとか無事に復帰したようだった。
だから僕は、翔さんが休みの日曜日に、
家まで通う。
「ピンポーン」
今度はちゃんと、玄関から。
「ぉう。」
鍵の空く音に続いて、ドアが開かれる。
「翔さん、こんにちは」
「まぁ、上がれ。」
ぶっきらぼうに応えながらも、家に上げてくれて、そのまま部屋に通される。
「牛乳しか無いけど、良いか?」
「あ。はい」
最近定まって来た僕の席は、壁際のコルクボードのすぐ脇。
丁度テーブルの端になるから、兄ちゃんの写真を見ながら寛げた。
「ん。」
「あ。ありがとうございます」
受け取ったグラスから一口、口を付けてから、テーブルに置く。
「翔さん、友達居ないの?」
毎週、勝手に訪ねて来てるくせに、ふと沸いた疑問が、口を突く。
毎週、こうして予告もせず時間の約束も無く来ているのに、友達は疎か、誰一人、出逢う人物が居なかった。
翔さんは、いつも、一人だ。
「‥‥‥ともだち、か」
視線を落としたまま、口許だけで笑う。
聞きたかった事と、違う意味が伝わってしまったのだろうか。と、ふと思った。
翔さんは、孤独に、一人、他人を拒絶しながら、生きているんじゃないのか?
そう言う不安から出た言葉だったのに。
でも、それを上手く伝える言葉が、小学生の僕には、思い当たらなかったのだ。
「居ないよ。そんなヤツ。」
言って、無理やり笑っていた口許がまた、一文字に結ばれる。
「要らない」
グッと、グラスを握る手に力が篭もる。
やっぱりだ。
翔さんは、他人を拒絶してる。
その原因の一つに、兄ちゃんの事があるのも、直感的に理解出来た。
「泣かないで」
涙なんか流れてないのに、何故か、翔さんが泣いているように見えて、反射的に抱き締める。
と言っても、体格が違うので、傍から見たら“しがみついている”様にしか、見えないだろう。
「泣いてねーし」
そう言いながら、でも、振り払う事も、嫌がる仕草も見せず、ただ、僕が抱きつきやすいように、
僕の方へ身体を開いて向きを変える。
広がったスペースへ潜り込むと、今度はちゃんと、正面から首へ腕を回し、抱きつくように、抱き締めた。
「涙は出てないけど、
寂しいんでしょ」
生意気な口を開いたら、
「‥‥、まぁ。な」
くっつけた身体の分、距離が近付いたみたいに、ほんのちょっと、素直な翔さんが出て来た。
「僕が、居るよ」
じんわり、暖かいのは、心だったのか、それとも、触れ合った肌の温もりだったのか
「ぅん。知ってる」
そう言って、僕の背中に片手を回して、頬を擦り寄せて来る。
「猫みたい」
って笑ったら、
「猫に生まれてりゃ良かった」
なんて答えた。
それがなんだか淋しくて、腕にまた力を込める。
「そしたら、僕が飼ってあげたのに」
「‥‥あの家はな‥‥。
きっと、色々辛い」
言われて、忘れかけていた言葉を思い出す。
『もう、家に来ないで!!』
お母さんの、怒鳴り声。金切り声。
生まれて初めて聞いた。
何故、そんなに怒ったんだろうと、
考えても分からなかった。
それだけじゃない、きっと僕の家には、
居なかったなりの、兄ちゃんの気配、みたいなものが残って居るから。
そういうのが“辛い”と、感じるんだろうな。
だから、翔さんは、お母さんの言いつけを守って、家には近づかない。
「そうだね」
同意してから
「お母さんが、ゴメンね」
代わりに謝る。
お母さんは、きっと『悪かった』なんて気持ち、さらさら無いんだろうけど。
「お前が謝る事じゃねーし」
背中に置かれていた腕が、増える。
その片方は僕の頭に添えられて、ゆっくりと撫で始めた。
慰めてくれているのかもしれない。
「でも。僕の母親だし」
そこまで言ったら、なんだか泣けて来た。
あんな、わからず屋の親が、翔さんを疵付けて、ごめんなさい。
「良いって。
お母さんの気持ちも、分かるし」
翔さんの掌が、暖かい
「お前が、来てくれるから。
居て、くれるから、
それで」
違う。暖かいのは、やっぱり心だ。
「優しいね」
抱き締める腕に力を込めて、真横にあった頬にキスをした。
「お前がな」
そのお返しみたいに頬にキスを貰ったら、我慢してた涙が、溢れて行った。
兄ちゃんが死んでから初めて、僕はようやく、声を上げて泣けた。
翔さんは、僕が泣き止むまで抱き締めてくれていて、慰めに来ていたつもりが、すっかり慰められてしまった。
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