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運命との出会い②

 それは遥かに幼い記憶、そんな事もあったなぁなどと思い出し苦笑する。そんな話すっかり忘れていた。  自分のこの鼻が利くという特殊能力は人間関係で非常に役立った。両親程ではないにせよ数は少なくともやはりそういう人達はいて、母の言うとおり嫌な匂いを纏っている人間はやはり嫌な人間ばかりだった。  一見にこやかで愛想が良くても、中身は酷く不快な人間だったりすることもあって、そういう人達を避けて生活をしていたら自分の周りはとても平穏で幸せに過ごすことができた。なのでこれはいい能力だなと神様からのギフトを心から喜んでいた。  だがこの能力が幸せばかりを運んでくる物ではないと知ったのはナダールが十五になったばかりの頃だった。  ある日、やはり騎士団員である父と一緒に職場に向かう道すがら、ふと甘い薫りがするな、と振り向いたらがつんと強烈な匂いに襲われて目の前が真っ白になった。  気が付くと、自分は自宅の自分のベッドで寝ており、起きた直後は激しい頭痛と吐き気に襲われ、その時は何が起こったのかまるで分からなかった。心配そうに自分の顔を覗き込む父に、一体何が起こったのかと問うと、父は少し困ったような顔で微笑み「お前はΩ(オメガ)のヒートにやられたのだよ」とそう言った。  オメガ? ヒート? 全く分からない単語に更に首を捻ると父は淡々と語りだした。  曰く、人にはα(アルファ)β(ベータ)Ω(オメガ)の三種類の人間がいるのだそうだ。  一番人口的に多いのがβで、自分が匂いを感じられない人達がいわゆるβにあたると父は言った。自分が匂いを嗅ぎ分けているのは、主にαとΩのフェロモンで両親もこれにあたるのだそうだ。  曰く、αは人の中でも優秀な秀でた能力を持った者が多いのだそうだ。父はそれにあたるらしい。  それなら母も? と父に問いかければ父はそれには首を振る。 「αは秀でた能力を持つ代わりに、生殖能力が非常に低いのが特徴でな」  言った父の言葉にナダールは首を傾げた。実を言えばナダールは五人兄弟の長男で、来年には六人目も生まれるというくらいの大家族なのだ、普通に考えて生殖能力が低いなどということは父に関しては当て嵌まらない。 「不思議そうな顔をするな、うちは特別なんだ。なんせ私と母さんは運命の番(つがい)だからな」 「運命の番?」  また聞いた事のない言葉にナダールは首を傾げる。  曰く、運命の番というのは世界にただ一人しかいない運命で結ばれる事を決定づけられた相手なのだそうだ。  αは生殖能力が低い、優秀な遺伝子を残そうと思ってもそれが出来ない体質で、それをカバーするのがΩという存在なのだと父は言った。 「αはΩとの間にしか子を成すことが出来ない、だがΩの数はαに比べて圧倒的に少ない。しかも、Ωはその体質ゆえに弱く短命なことが多い」 「どういうことです?」 「Ωはある程度成長すると発情期がくる、それを発情期(ヒート)という。これは大体三ヶ月に一度の割合で起こり、その間Ωは生殖のこと以外考えられなくなる。そしてそのヒートを起こしている間はαを惹きつけるフェロモンを辺り一面にばら撒いてαを誘う。αはそれに逆らえない、言ってしまえばΩというのは淫魔に魅入られたような人間になってしまうとそういう事だ。少し考えれば分かるだろう、その結果がどんな事になるか」  確かにそんな事になれば、気が付いた時にはΩは寄ってきたαによって散々に陵辱されている結末しか見えてこない。 「でも母さんはそんな事にはなっていない、ですよね?」 「それは母さんと私が番の契りを結んでいるからだ。契りを結んでしまえば、無差別に振り撒いていたフェロモンは番相手にしか効かなくなる。私は母さんの最初のヒートですぐに番の契約をしたから、母さんはそんな事には一度もなっていない。だが、それは本当に運のいいことなんだよ」 「でも、それなら……」  そこでナダールははたと気付く、父は自分はΩのヒートにやられたのだと言った、という事は、あの時あの場所にはヒートを起こしたΩが居たという事だ。その考えに思い至って、ナダールが父を見やると、父は少し悲しげな表情で首を振り、自分はお前を止めるので精一杯でその場にいたΩはどうなったのかまでは分からないとそう言った。  ナダールは愕然とした。匂いにあてられてどんな人だったのかも分からなかったが、すぐ目の前にいて助けなければいけない人を助けられないなんて、そんな理不尽な事はない。しかも、この場合、自分が駆けつければ自分がそのΩを傷つける加害者になってしまう可能性すらあるのだ。 「分かるだろう? ただでさえΩは少ない、そしてそんな発情期が三ヶ月ごとにやってくるΩはヒートを耐えて引き籠もるにしても、相当の体力と精神力を消耗する。これがΩが短命な所以だ」  自分達は本当に運が良かったと父は言った。 「もし、もしですよ、私がそのΩの人を見付けて襲ってしまっても、番になってしまえば、その後その人はもう安全という事でしょうか?」 「確かに番になってしまえば相手のフェロモンはお前にしか効かなくなる、無闇にαを惑わす事はなくなるが、番契約というのはΩにとって奴隷契約に等しいものだ。なぜならこの契約はαからなら一方的に契約の解除が出来るが、Ωからする事はできない。そして一度結んでしまった契約を強制解除することで死んでしまうΩもいるのだそうだ。例え本当に好きな相手がお互いにできたとしても易々と契約解除などできはしない」  ナダールは絶句する。それでは幸せなΩは世界中探しても数えるほどしかいないのではないだろうか? 「Ωの存在を知る者は少ない。人類の半数以上を占めるβはそのことを知らないし、その現場に遭遇してしまっても理解ができない、私達αやΩはそうならないように自分達で自衛するしかないんだよ」  幸いαの中には優秀な医者や、金持ちも多く、どうしたらそういった事態を避けることができるようになるかの研究は日々されていると父は語ってくれた。 「最近ではαやΩの暴走を抑える薬、抑制剤も秘密裏に流通するようになった、これでも昔よりはだいぶマシになったんだ」  そう言って父はナダールに幾つかの丸薬の入った小瓶を手渡した。 「これはお守りだ、100%欲望を制御できるものではない、だが、意識を保つくらいの事はできるだろう。番が見付かるまでは、その薬は肌身離さず持っていろ、それがお前にできる最善の事だ」  ナダールは小さく頷いた。神様のギフトはやはり決して幸運だけを運んでくるものではなかったのだ。 「ナダール、今は理不尽だと思うかもしれないが、愛することに臆病になってはいけないよ。すべてのΩを守ることはできないかもしれないが、少なくともお前は一人のΩを守る事ができる。もし、その人を見付けたら、お前はその人を全力で守ればいい。これはβやΩには決してできないことだからな」  父の言葉にナダールは頷いた。自分の番、今はまだどこにいるかも分からないけれど、見付けたら絶対どんなことからも守ってみせるとそう決意した瞬間だった。  そしてそんな決意から既に数年の時が経ち、ナダールは未だに自分だけの番には出会えずにいた。  

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