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運命との旅立ち②

「ナディアいる~?」  呑気にへらりと笑ってマルクは彼女を呼ぶ。そこは昨日ナダールと来たリングス薬局だった。昨日とは違い、自分達は表向きの通常店舗の方におり、マルクは奥に向かって彼女を呼んでいた。 「そういえば彼女ってここの娘だって言ってたっけ」 「あれ? 知ってるの?」  アジェが不思議そうに首を傾げる。 「ここ、昨日ナダールと来た」 「え? 昨日の買い物、薬だったの? どこか調子悪い?」 「そういう訳じゃねぇよ。心配すんな」  表店舗なのでβのお客がほとんどで、ここでバース性の薬を買いにきたなど発言するのは憚られた。  Ωは社会の底辺だ。ほとんどのβはバース性の事を知らないが、知っている者はΩに対し汚いものでも見るような目を向ける。それはこの間のチンピラのように下等生物を見るような瞳を向け罵倒するのだ。  確かにΩはヒートを起こすと誰彼構わず他者を誘惑してしまう、それに引っかかって淫行を働き犯罪者になってしまうβも中にはいて、そう言った輩はΩを憎む。  大体のΩは身内にαがいることが多く守られている事がほとんどだが、そういう環境にいないΩも勿論いる訳で、そういったΩの末路は哀れなものだ。 「ナディアなら今お使いに出てるよ、すぐ戻るから奥で待ってなよ」  マルクの呼びかけに店舗に出てきたのは昨日の男、ナディアの兄、カイルだった。 「あれ? 君、昨日の?」  カイルはグノーに気が付くと丸眼鏡の奥の瞳を猫のように細めた笑みでそう言った。実を言うと、昨日も思ったのだが彼の笑顔はどうにも胡散臭い。話し方もわざとらしいし、どうにも虫が好かないのだ。  ナダールの幼なじみだと聞いたが、どうもコイツは曲者だとグノーは最初からそう思っていた。  「どうも」と適当に会釈を返すと彼はまた瞳を細める。 「君、ナダールとヤったね?」  ふいに耳元でそう言われ、驚いて顔をあげると彼はにやにやといやらしい笑みを浮かべてこちらを見ていた。 「あぁ、でも番にはなってないんだ。遊び?」 「なっ! 何を!!」  アジェはマルクに案内されながら奥へと歩を進めていて、こちらの会話に気付いてはいない。 「色気が駄々漏れてるよ、気を付けた方が良い。あぁ、それともわざと? ナダールは真面目な男だから、こんなフェロモンに当てられたらひとたまりもないだろうね。さっそく昨日の薬が役に立ったかな?」 「昨日の、薬?」  そういえば昨日ナダールはこの男になにやら薬を持たされていた、なんでもないと言っていたが、なんの薬だったのだろう。 「飲まされなかった?」 「何をだよ!」 「避妊薬。子供できちゃったら困るだろ? 遊びならなおさら。それとも君、玉の輿狙い?」  男の言葉に心が凍えた。そんなつもりで彼に抱かれてなどいない、遊びのつもりなどさらさらない、それなのに男は無遠慮にグノーの心を土足で踏みにじっていく。 「お前なに? お前の方こそナダールの事狙ってんじゃないのかよ? お前もΩだろ」  睨むように言ってやる。近付いて感じた、この男もΩだ。本当に微かにしか匂わない、抑制剤がよほどよく効く体質なのかここまで他者に悟らせないのも珍しい。 「あれ、ばれちゃった? 今まで気付かれた事なかったんだけどな。ナダールですら僕のことβだって信じて疑ってもないのに、君凄いね」  彼はやはり猫のような瞳でにんまり笑う。  βにも鼻の利く人間はいて、そういう人間はよく分からないままバース性の匂いを嗅ぎ分ける。こんな仕事をしていれば尚更、それは彼の特殊能力だとナダールは思っているのかもしれなかったが、なんの事はない彼はまぎれもなくバース性、その中でも稀な男性Ωだった。 「僕もさすがにΩって言っても男だろ? 嫁に貰ってくれとも言えないし、幼なじみの関係に甘んじてた訳だけど、まさかあいつが選んだのが男とかありえないよね。だったら僕でもいいと思わない? だってナダールの事ならなんでも知ってる、女に盗られるなら納得もいったけど、さすがに君はないよ。ナダール趣味悪すぎ」  彼の瞳はもう笑ってはいなかった。 「まだ項も噛まれてないみたいだし? ただの遊びなら消えてくれない? なんなら君にも避妊薬あげるからそれで好きなαと遊べばいいじゃん。それでも満足いかないならもっとお金持ちのαでも紹介してあげようか?」 「なんでお前なんかにそんな事言われなきゃなんねぇんだよ」 「だって君、自分がナダールと釣り合ってると思うの? 小汚い格好してさ、口汚いし、育ちも悪そうだし、不釣合いもいい所だ。ナダールはいずれおじさんの跡を継いで騎士団長になる男だよ、そんな人の隣に自分が立って、それでも自分が彼に合ってるってそう思える訳? もし思えるなら図々しいにも程があるよね。あとその髪、君メリア人? ランティスではメリア人が嫌われてるって知らないのかい? 一緒にいたらナダールの心象まで悪くなるからやめてよね」  一体いつ呼吸をしているのかという勢いで一気に捲し立てられる。だが、その一言一言がすべて事実なだけに反論もできず、グノーは唇を噛んだ。 「ナダールは俺を選ばない……好きにすればいい」  グノーはそれだけ言ってアジェの後を追った。そうだ、まだ番になった訳じゃない、自分だって本気になった訳でもない。二人の関係は身体の繋がりだけでまだ始まってすらいないのだ、冷静になった彼が自分を選ばない事なんて分かりきっている。  それでもカイルの言葉は心に刺さって血を流す。馬鹿にされるのなんて慣れている……そう、慣れているはずなのに。  カイルはナダールに避妊薬を飲まされたかと問うてきたがどうなのだろう。自分は途中からの記憶がない、それに対して彼は余裕があるように見えた。意識を飛ばした自分に彼はその薬を飲ませたのだろうか?  どのみち子供なんてできやしないのに……と自嘲の笑みを零す。ナダールは番にならなくとも子供はできると言った、だが自分は過去五年間避妊をされる事もなく抱かれ続けた過去がある。 『子供を生まないΩなんて家畜以下だな』  かつて実際に言われた言葉だ。それは自分を抱き潰していた男の言葉ではなかったが、その言葉はただでさえ低いグノーの自尊心を傷付けた。Ωとしてすら役に立たないとそう言われ、心は壊れた。  何故自分はそれほどまで蔑まれなければいけない? 何故俺はΩとして生まれてしまったのだ? そしてそのΩとしても何の役にも立たないのなら、自分は一体なんの為に生まれてきた?  それはずっと自問自答を繰り返してきた問いだった。  やはり自分が生きていることに意味などない。そう結論付けるのに時間などかからなかった。自殺は何度も試みた、だが自分で自分を殺すことは出来なかった、だったら他人の為に死ねばいい。アジェの為なら自分は死ねる。  ナダールの事など知ったことではない、何故なら彼は恵まれた環境で何の苦労も知らずに生きている。自分一人が死んだ所で少し悲しんでまたすぐに次の相手を探すだろう。  その相手があの男だったとしたらとても癪だが、今となってはどうでもいい。世界が違いすぎる、生きる世界が違うのだ。彼は光の中で生きている。自分には彼が眩しすぎて直視することもできやしない。  元々結ばれる『運命』ではなかったのだ。  グノーは『運命』が結ばれるだけのモノでない事を知っている。かつて『運命』に人生を狂わされた人達を見てきたから。  自分が死んだらきっとアジェは泣いてくれる。  ナダールはどうだろう……彼の泣く姿など想像もできなくて笑ってしまった。それほどまで自分は彼を知らないし、彼も俺の事を知りもしない。  所詮性に浮かされた一夜の過ちだ、すぐに忘れられる……とグノーは首を振った。 「ねぇグノー大丈夫? ぼんやりしてるみたいだけど、体調悪い?」  アジェに見上げられるように顔を覗き込まれ、はっと我に返った。自分達はリングス家の自宅のリビングに通されていた。マルクは勝手知ったる他人の家とばかりに寛いでいる。  カイルが「お茶いる?」と顔を出すのでグノーはその男から顔を背けた。 「そっちの君は初めてだよね? どこの子?」 「あ、僕はマルクの従兄弟でアジェと言います。マルクがナディアさんに会わせてくれるって言うので付いてきちゃったんですけど、お邪魔ですか?」 「全然大丈夫だよ、お客様は大歓迎さ。でもなんでフード被ってるの? それ流行り?」  グノーは髪を隠す為に、アジェは顔を隠す為に外に出る時は常にフードを被っているのだが、それはやはり奇異に写るようで、カイルは首を傾げてそう言った。 「すみません、そういう訳ではないんですけど、驚かせてしまうこと多いみたいで……」  言ってアジェがフードを外すと、カイルは目を見開いた。そういえば彼は王宮勤めだとか言っていたか、王子の顔も見知っているのならその反応は至極当然の反応だ。 「エリオット王子?」  信じられないという顔でカイルは呟く。 「あは、やっぱり似てます? 他人のそら似なんですけど、メルクードに来てからは驚かれてばかりで困ってます」  アジェは心底困っているという表情で微かに笑みを見せた。 「そら似? それにしたって……」  おもむろにカイルはアジェに寄っていき顔を寄せる。アジェは驚いて後退った。 「あ、本当に別人だ。君Ωだね」  カイルは何かに納得したようにひとつ頷く。何をされたのか分からないアジェはおろおろと立ち竦んだ。 「いきなり人の匂いを嗅ぐのはマナー違反ってものだろう」  グノーは怒ってアジェを抱き寄せた。本当にこの男は自分を怒らせる事しかしやしない。嫌われている事は分かっているが、アジェにまでそれを向けるのは許せない。 「あぁ、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど、あんまりにも王子に似てたから、つい。王子はαだからね、だけどそれにしてもよく似てる」 「お兄さんは王子のことよく知っているんですか?」 「一応僕、王子の家庭教師だからね」  エリオット王子はαだったらしい。αとΩの双子、アジェの方が捨て子に選ばれた理由が垣間見えた気がした。 「家庭教師……そんなに近くにいる人でもやっぱり似てると思いますか?」 「うん、似てるね、そっくりだよ。ただ王子の方がなんて言うか、もっともの言いが上からだね。王子が素直になったら君みたいになるのかな。そしたら仕事も楽になりそうなんだけど」  カイルは大袈裟に溜息をついた。 「王子様相手はそんなに大変ですか?」 「それはね。そもそも人の言う事なんか聞きやしない、覚えはいいからやりがいはあるけど、クセが強くて扱いが難しい。おっと、こんな話聞かれたら首を刎ねられてしまうな、危ない危ない」  カイルは大仰に辺りを見回した。 「僕、やっぱり王子に会ってみたいなぁ」 「え?」  カイルは驚いたようにアジェを見やる。 「ここまで似てるって言われると、やっぱり興味は湧きますよ。どのくらい似てるのか、実際見てみたいと思うのは変な事ではないでしょう?」  ふぅん、とカイルは瞳を細めた。あぁ、なんだかあまりいい気がしない。 「いいんじゃない? 僕が君に王子を会わせてあげるよ」 「え? 本当ですか?」  カイルの言葉にアジェが瞳を輝かせる。あぁ、悪い予感的中だ。 「ちょっと待て、そんな簡単に会える相手じゃないってナダールも言ってただろ!」 「大丈夫だよ、僕王子の家庭教師だよ? 信用もあるから友人の一人や二人会わせるのは朝飯前だ」 「マジで? 兄ちゃん凄いな」  マルクも会話に加わって三人は楽しげだったが、グノーは一人唇を噛む。どうにもこの男は信用できない。グノーは嫌な予感しかしなかった。 「もしアジェが行くなら、俺も付いてく」 「別にいいよ。そしたらいつにしようか? 早い方がいいよね?」  唇に指を当て、楽しい悪戯を企んでいますというような表情のカイルはにんまり笑った。その時「ただいま~」と少女の声が響く。  マルクはご主人様が帰ってきた忠犬のようにそちらへ駆けて行ってしまう。 「あぁ妹も帰ってきたみたいだね、じゃあ改めて計画を練ろうか。楽しみだね」  丸眼鏡の奥の瞳はどこまでも楽しげだが、グノーはどうにも胸騒ぎを止めることができなかった。

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