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運命との旅立ち①
気まずい……
ナダールはダイニングの机に突っ伏して呻いていた。
昨晩、感情と本能のままにグノーを抱いてしまい、目を覚ましたのは陽もずいぶん高くなってからのことだった。寝ていたベッドに彼の姿は既になく、慌てて飛び起き台所に居た母に彼等の所在を聞けば、答えが返ってくる前に満面の笑みで「おめでとう」と言われてしまった。
「え? は? 何のことですか?」
「あらやだ、誤魔化しても無駄よ? あんなに色気むんむんのフェロモン垂れ流しておいて何もなかったなんて言わせないわよ?」
あてられる事はなくてもその位分かるんだから、と母に笑われ、母には全て筒抜けなのだと理解する。
「え? や、それは……」
「でも、最後までフェロモン出しっ放しで、番にはならなかったの?」
早く噛んであげた方が彼の為よ、などとさらりと言われて居た堪れなさMAXだ。親に情事のあれやこれやが駄々漏れなんて嫌すぎる……と冒頭のように頭を抱えてナダールは呻いていた。
「それで、あなたのお相手はどっち? アジェ君も可愛いけど、グノー君も口は悪いけど綺麗な子よね」
「顔、見た事あるんですか?」
「ちらっとだけね。私もΩだし、彼、同じΩに対して優しいみたい。あなたも見たのね?」
「滅茶苦茶美人でした」
うふふ、と母はとても嬉しそうに笑顔を見せる。
「今夜はご馳走かしら」
「そういうのやめて下さい、たぶん彼も嫌がります」
「おめでたい事なのに」
母は自分をからかうのをやめる気はないらしい。
「でも彼メリアの子よね。孫は赤毛の子になるのかしら、少し心配ね」
ランティスではメリア人の差別が激しい。政情不安なメリアから流れてくる難民は少なからずいるのだが、その扱いは決して良くはなく、メリア人はもっぱらファルスに流れていく事が多かった。
「まだ孫の話は早いですよ。ちゃんと番になれた訳でもなし、まだ関係も始まったばかりです」
「やる事やったのに?」
「それは言わないで下さい……」
う~と呻るとまた母は笑う。
「バース性の恋愛なんて体から始まることの方が多いんだから、気にする事なんてないわ」
「そういうのは避けたかったんですけどねぇ」
「でもどうして番にならなかったの? 彼が嫌がった?」
そうではないと首を振ってナダールは彼の首に嵌るチョーカーのことを母に話して聞かせた。
「酷い事をする人もいるのね、それが外れないと彼は一生誰とも番になれないって事よね。奴隷商にはそういう事をする人も居るって聞くけど……」
奴隷商人、あまり聞きたくもない言葉だ。
一般常識のあまりない彼の生い立ちを考えると、元々奴隷だったと言われてもしっくりきてしまう。
「母さんはグノーの生い立ちがもしそんなだったら私達の関係に反対しますか?」
「別にしないわよ、そこはあなた達が決める事ですもの。ただ、そういう生活環境で育った子は短命よ、気をつけないと」
昨夜の行為の最中「殺して」と彼は叫んだ。それは行為に感極まってというよりは、どこか自暴自棄な彼の心の声で、その言葉はナダールの中に小さな影を落とした。
彼は死にたがっているのだとグノーと仲の良いアジェも言っていたのだ、それはもう事実で私と番う事で彼がその考えを捨ててくれるなどと簡単に考えるのは避けた方がいい。
「私の『運命』ですよ。そう易々と死なせることは絶対にしません」
「それじゃあ全力で守りなさい。お父さんが私を守ってくれているようにね」
母の言葉に頷いて、立ち上がる。そういえば彼等がどこにいるのかまだ聞いていない。
「二人共マルクが連れて行ったわよ、またナディアちゃんのおうちだと思うけど」
「彼、ヒートを起こしていたみたいなんですけど、大丈夫でしたか?」
通常Ωのヒートは三ヶ月に一度一週間程続く。昨晩唐突にヒートを起こした彼が出歩ける状態だとはとても思えないのだが、大丈夫なのだろうか?
「あら、全然普通そうだったわよ? あなたに抱かれて満足したんじゃないかしら? 『運命』にはままあることよ。相手のフェロモンに誘発されるの。番にもなっていないし、しばらくはヒートが安定しないかもしれないから気をつけてあげて」
母は少し心配ね、と眉を下げた。出かけた先はナディアの所、という事はリングス薬局かとナダールは身支度を整える。
「早めに帰ってらっしゃいね、ご馳走用意して待ってるから」
「だから、そういうのはやめて下さいと何度言えば……」
赤くなる顔を手で押さえて、ナダールは家を飛び出した。
気まずい……
平静を装いつつ、グノーはアジェの横を歩いていた。
昨晩の記憶は途中から完全に飛んでいて、自分とナダールがどれだけの時間、何度身体を重ねたのかまるで覚えていない。目が覚めたら彼の顔が間近ですぅすぅと寝息を立てていて飛び起きた。飛び起きたら、下肢からどろりと彼のモノが流れ出してきて、やらかしてしまったのだと自覚した。
ヒートには気を付けているつもりだった。
確かにナダールに会って、彼の近くにいると自分の中の何かがざわついているのは分かっていた。フェロモンの抑制剤の効きも悪くなって薬の過剰摂取、足りなくなるはずのない量の薬を消費している事も自覚していた。
彼には近付かないように気を付けていても、居候先が彼の家では彼のフェロモンを避けることもできず、ついには堰を切ったように暴走してしまったのだ。
慌てて身繕いをして客間に戻ると、一晩戻らなかった自分に何も聞かず、アジェは「おはよう」と微笑んだ。どこに行っていたのか、何故戻らなかったのか、尋ねられたらいい訳もできるのに、何も聞かれないから何も言えない。
非常に、気まずい。
昨晩のヒートが嘘のように治まって、何事もなかったようなふりはしているが、自分に纏わりつくナダールの匂いは自覚している。
アジェは匂いの感知能力が低い、気付かれているのかいないのか、それはどうにも判断がつかなかった。
別にアジェとは恋人同士ではない。
出会ったのだとて、たかだか二ヶ月ほど前のことだ。自分はメリアを飛び出してからは常に一人で行動してきた。何故か旅先で先回りでもしているのかという位の頻度で出没するブラックとはなんだかんだと懇意にはしていたが、彼と共に旅をした事もほとんどない。一人に馴れすぎて、距離感が分からなくなっているのだ。
メリアを飛び出す前から自分には友と呼べる人間は居なかった、話を聞いてくれる人間も、優しく笑ってくれる人間もいなかった。だからアジェが自分の話を笑顔で聞いてくれて、応えてくれて、頼ってくれるのがとても嬉しかった。
彼の辛い状況を目の前で見てきて、傍にいようと思ったのも事実で、自分はアジェが大好きで特別なのだとそう思っている。
だが、ナダールはアジェとは別次元で気になって仕方がないのだ。初めて会った時もそうだった。
あの時、αの匂いに気が付いてすぐにアジェの手を引いて逃げ出したが、その薫りは心地よくて身震いした。
αの匂いを心地良いと思ってしまった自分に愕然としたのだ。今までそんな事は一度もなかったのに。
αは自分にとって恐ろしい疫病神で、好意を持った事など一度もない。にも拘わらず彼の匂いは心地良いと感じてしまったのだ。その感覚はとても恐ろしくて彼を警戒し、威嚇して近付かないように、近寄らせないようにしてきたのにこの有様だ。
ナダールは自分の事を『運命』だという。
自分の様子がおかしくなった時にアジェにも言われた。
「もしかしてナダールさんはグノーの『運命』なんじゃないの?」
運命の相手がすでにいるアジェには、グノーが彼を拒んでしまう理由が分からないようだった。でもどうしても自分は『運命』を信じることができない。
なぜならかつて、やはり自分の事を『運命』と呼び、首輪を嵌め、束縛した男がいるからだ。
その男には何度も何度も犯された。嫌だ、やめてと何度泣き叫んでも聞き入れては貰えなかった、そんな束縛はもうこりごりだ。自分は『運命』を信じない。それは彼に会っても変わることはない。
アジェも『運命』から逃げてきた身だ、グノーが頑なにその事を否定したら、もうそれ以上何も言ってはこなかった。だが、いくら否定しても反応してしまった身体はどうする事もできず、昨晩ついにヒートに浮かされ自分達は肌を重ねてしまった。しかも昨夜ナダールと行為を行う上で今までと違う事がいくつもあった。
今まで何度男に抱かれても、そんなにすんなり身体が受け入れることなどありえなかった。行為は苦痛の連続で、気持ちいいなどと思った事も一度もない。
だが昨夜、グノーの身体は彼をすんなり受け入れたのだ。自ら下肢を濡らして男を受け入れた自分に驚きしかない。
『運命』
そんな言葉は信じない、それでも身体が勝手に反応してしまう事が恐ろしくて仕方なかった。
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