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覚悟のふたり⑧《終》

***  脱力しながら、しばらくその感覚と余韻に浸っていた。しばらくして上半身を起こすと、後ろの穴から亮治の出した精液が流れ出てきた。腹の上を指で触ると、自分の出した白い液体が指先に絡んだ。  足元では、裸の亮治が額に手を当てて座っていた。疲れたのだろうか。余韻に浸っているようには見えない。 「……どうしたの?」  真人が訊くと、亮治は額から手を離して笑った。 「あ、ああ。なんでもない。体は大丈夫か?」 「それはまあ……寝る前にお風呂場で処理するし」 「はは。もっと色気のあること言えって」 「たとえば?」 「『お兄ちゃん手伝ってー♪』とかさ」  そう言った瞬間、亮治の表情が曇った。自分の言葉に、自分で傷ついたようだった。 「真人、あのさ」 「うん?」 「自分で今口にしといてなんだよって思うかもしれないけど……俺のことを兄貴扱いするの、もうやめてほしいんだ」 「どういうこと?」 「父さんや母さんと俺の話をするなとは言わない。でもな、もしその時には、俺のことを『亮治』って呼んでもらいたいんだ」  何を言っているのか、その真意がわかりかねる。こだわるようなことでもないような気がしたからだ。  微妙に納得できないでいると、亮治が続ける。 「俺は父さん達とは縁を切ったつもりで、今おまえと一緒にいる。もうあの人達の息子じゃないんだ。だから、おまえの兄貴でもない」  自虐的に言う亮治に向かって、真人は床に落ちたクッションを投げつけた。そしてソファから降りて適当に下半身をティッシュで拭うと、真人は素っ裸のままスマホを手に取った。  指で操作し、プルルルル……と発信音の鳴るスマホを亮治の耳に当てる。 「な、なんだよ急に――……って、オイ! これ、実家の――」  スマホの画面に表示された名前と番号を見て、亮治が焦りだす。相手はすぐに出たらしい。 「うあっ!」  と、情けない声を出して、亮治がスマホから手を離した。床に落ちたスマホを拾い、真人は自分の耳に当てる。 『真人か? どうかしたのか?』  父・武志の声だ。 「父さんと母さんはさ、兄さんが何をしたら、縁を切る?」 『……』 「誰かのものを盗んだ時? それとも人を殺した時?」  真人の質問に、父は短い沈黙のあと、『やめなさい』と言った。 「父さんも母さんもお願いだよ。こっちこそ、見ない振りはもうやめてほしい。兄さんと話して。兄さんを、無かったことにしないで……っ」  霞む視界を拭いながら、電話の向こうにいる父に訴える。  恋人として一緒に居続けることを、亮治が本当に望むなら……真人もそうしようと思った。二人だけの世界で始まり、二人だけの世界で完結する。  それだって、十分真人には幸せなことなのだから。  だけど、亮治は違う。真人のことを愛しつつ、本当は両親にも認められたくて、自分という存在を受け入れてほしいくせに……嘘をついているのだ。 『自分なんて』  という、醜い言葉を使って。  亮治の思いに、ずっと自分は気づいていた。だからこそ、気づいたままで見逃すことなんてできない。 「兄さんは、父さんと母さんのことが大好きなんだよ」  息がつまるような父の声が、耳の傍で鳴る。  毎年のように、両親の結婚記念日を祝っていたのは亮治なのだ。父と母に喜んでもらいたいと純粋に思っていなければ、初任給から二人の好物である老舗のすき焼きをご馳走したりしないだろう。ちなみに今年は、両親の結婚記念日を祝っていない。  我儘で、欲深い亮治。けれど真人は思う。欲しいものがたくさんあることは、罪じゃない。生きる原動力にもなるのだ。  真人は力の抜けた亮治の手に、スマホを持たせると、耳に当てさせた。  ゆっくり離してみたけれど、亮治の手は、耳からもスマホからも、離れなかった。わずかな力だけで支えているので、少し震えている。だけど、手離そうとする意思は感じ取れなくて、安心した。  それから亮治は、ポツリポツリと電話の向こうにいる父と話していた。その間に、真人はシャワーを浴びた。浴び終えてリビングに戻ると、ちょうど電話を終えるところだったようだ。 「……ああ。また行こうな」  と言って電話を終えた亮治の表情には、目尻に涙をにじませ、だけど穏やかな笑みが浮かんでいた。  髪を拭きながら、亮治の隣に腰かけ、「なに話したの?」と訊く。 「いろいろ……母さんともちょっと喋ったよ」 「僕とのことは?」 「……まあ、言わないわけにはいかねえよな」  どう話したのかは、教えてくれないらしい。「けど」と亮治が続ける。 「全然、怒られなかった」 「……そう」  よかったとは、言わなかった。ただ事実を事実として受け止める。  実は、両親に対して、真人はとっくに亮治とのことを話していた。亮治が溝口のもとから戻ってきた頃の話である。  聞かないように耳を塞ごうとする老いた二人の両手を無理やり掴み、耳を覆うものをすべて排除して、言って聞かせたのだ。  僕は亮治と生きていきたい……と。  そして、こうも伝えたのだ。  ーーいつか亮治から話す時がくると思う。その時は、絶対に怒らないで。もし亮治を否定したら、その時は亮治と一緒に僕は二人の前から消えるつもりです。  今まで亮治に黙ってきたことだ。両親を脅すような形で、亮治を家族に戻そうとしたことを、真人はこれからも、この弱い兄に打ち明けるつもりはない。  亮治に肩を引き寄せられる。  この部屋には二人だけしかいないというのに、亮治は誰にも聞かれないよう、真人の耳元に唇を近づけてくると、か細く震える声を吹きかけるようにして言った。  ――ありがとう。  耳元で囁かれた瞬間、胸に熱いものがこみ上げてきて、涙が出そうになった。ようやく二人きりの世界が、ちょっと外側に開いたような小さな開放感。  亮治を手に入れるため、そして取り戻すためーー嫌な自分をたくさん表に出してきた。だけど、その言葉があるから、小さな罪悪感によって成り立つ痛みが、どうしようもない幸福となって胸に広がっていくのだ。そして真人は、痛みの伴う幸福を感じることが、そんなに嫌いじゃなかった。  だけど、本当にほしかったものは一体何だったのだろうか。  開放感ーーーー亮治の肩に頭を乗せながら、その言葉を心の中で繰り返してみる。亮治だけでなく、自分も本当はそれを求めていたのかもしれない。  認められたい。祝福されたい。罪悪感と閉塞感を抱えたまま、二人だけの世界に居続けるのはしんどいから……。  血は繋がっていないとはいえ兄弟だということも、男同士だということも、理由の一つかもしれない。だけどそれ以上に、自分達はこの世界で生きていたいのだ。  この世界で、亮治と生きていきたかった。  亮治の肩の上でズッと鼻をすする。しばらく抱き合ったまま、ぼんやりと窓の外を二人で見た。高いビルもない、平凡な夜の住宅街が目の前に広がっていた。  シャワー浴びてくる、と立ち上がった亮治に向かって、真人は地味に気になっていたことを訊く。 「さっき父さん達との電話で言ってたじゃない。『また行こうな』って。あれ、どこのこと言ってたの?」  亮治は「ああ」と少し恥ずかしそうにこめかみを掻いた。 「すき焼きだよ。今年はまだ行けてないからさ」  そう答えた亮治は、恋人でもあり、兄でもある顔をこちらに向けて、くしゃりと笑った。 完

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