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恋は早歩きでやってくる※えろなし

 失恋した男と恋に悩む高校生。  ――好きな人には、既に大切に思っている家族がいた。  久しぶりに帰省した先で、偶然、同級生だった男に再会した。密かに思いを寄せていた故に一目で彼が誰なのかを見抜き、また彼も自分を誰なのかすぐに分かってくれた。  それから流れるように世間話から近況を口にし、他愛もなく笑い合う。  都会に出てもなかなか忘れられなかった彼の笑顔が目の前にある。その現状が、茅ヶ瀬(ちがせ)を若き学生時代に抱いていた恋心を淡く、けれど確かに思い出させた。  だが、それも‪一時‬で。初恋は叶わないと言うが、その言葉の通り、茅ヶ瀬の淡く甘い想いは実らずに枯れ果てるしかないのだった。  それが約五分前のことである。  勝手に恋をし、勝手に振られた気分の茅ヶ瀬は途方に暮れ、じわじわと自分を襲ってくる恥ずかしさから逃げるように彼と別れ、都会へと繋がる駅舎に飛び込んだ。 「……はぁ、ついてない」  しかし、都会から随分と離れた田舎。今すぐにでも乗り込むべき電車は‪一時‬間に一本しかなく、運の悪いことにたった今その一本が都会へ走っていったばかりだった。 茅ヶ瀬は絶望に打ちのめされたような気分で、一つしかない木製のベンチに腰かける。  と、脳裏に過るのは自惚(うぬぼ)れていた学生時代ではなく、数分前の羞恥しかなかった。 「あー……」  頭を抱え、項垂れる。  勢い誤って告白などしないで良かったと胸を撫で下ろす一方、吐き出されることなく終わった感情が内でぐるぐると燻っていて。  何とも言えぬ気持ちに、茅ヶ瀬は。 「うわああぁっ! あいつのばか野郎ーっ!」  叫んだ。叫ぶしかなかった。他に吐き出す言葉はもちろんないのだから。 「はぁ、はぁっ」  すればどうして清々したような気分となって、満足顔でベンチにふんぞりかえる。  その時、ふと視線を転じると、こちらをじっと見つめる瞳があることに気が付いた。  茅ヶ瀬はばっと目を逸らす。  ――なんで? え、さっきまで誰もいなかったよね? えっ? ……叫ぶところ、ばっちり目撃された?  ギギギ、と錆びて動かなくなる直前のロボットのようにもう一度目を遣る。 「ひ……っ!」  神妙に頷かれた。きっと聞かれていたのだ。  ――あぁ、こんな辺鄙(へんぴ)なところで叫んで、変人扱いされるに決まってる。五日も滞在する予定だったのに……!  今すぐ帰ろうと立ち上がりかけて、もう一度絶望に正面から衝突する。  ――そうだ、電車まだまだ来ないんだった……。  暗さしかないどん底に引き戻され、茅ヶ瀬は大人しく座っていることにした。……こちらを凝視する瞳を無視するよう努めて。  それからどれぐらい経った頃だろう。 「――お兄さん」 「ふぁ!? ぇ、あ、んっ?」 「……慌てすぎ」  瞳がすぐ横にあった。襟詰の制服姿の彼は、茅ヶ瀬が通っていた学校の生徒だというのが分かって。清楚(せいそ)な黒髪が印象的な、派手に目立ちはしないものの、微かに美しさを放つ整った顔をしている。 「お兄さんも、人生のどん底にいる口?」 「…………はい?」  耳に優しい低音が耳をくすぐる。が、形作った言葉を一瞬では理解できなかった。茅ヶ瀬が小首を傾げると、飽きもせず男子学生は同じ文言を紡ぐ。 「ど、どん底?」 「うん。暗い顔してるから。俺と同じなのかなって」 「……暗い顔」  年下に心配されるほどの暗い顔を想像して、茅ヶ瀬は頭を振った。 「ご、ごめん、心配させた? 体調が悪いとかじゃなくて、ちょっと……嫌な、ことが……あは、あははっ」 「嫌なこと……だからどん底じゃないの?」 「……」  ――何だろう。彼は俺をどん底にしたいのか? 「俺もさ、人生のどん底にいる、今」 「……え」  ぽつりと呟かれ、茅ヶ瀬は彼を見る。よくよく見れば泣いたのか、目尻が赤いように思えてきた。居心地が悪そうにもぞもぞと動く指先は、震えている。 「……どうしたの?」  自分が落ち込んでいることをよそに、思わずそう問いかけ、ベンチへ座るように促した。躊躇わず隣にやって来た彼はへらりと笑って、唐突に自己紹介を始める。 「俺、歌川晴己(うたがわはるき)、十七。近くの高校に通ってる。趣味は読書、特技は……裁縫? 好きな教科は国語、苦手なのは音楽。音痴なんだ、聞いてみる?」 「え……あ、いや別に。ていうか、いきなり……人生どん底の話となんの関係が?」 「いいから聞いててよ。お兄さんの役目は、俺の話を聞くこと」  ――なんて勝手な! と強く出ることができず、そのまま黙って彼のつらつらと並べる単語を聞く嵌めになった。 「それで、えっと……そうだ。音痴だから音楽が嫌い。お兄さんは嫌いなものある?」 「え」 「だから嫌いなもの。なんでもいいから、はいっ」 「……え、なんでカモン! みたいなノリなの」 「そういうノリだから。無粋なこと聞くなよ、早く」 「え、ぇー」  初対面なのにある意味、人懐っこい人物である。……迷惑極まりないけれど。これでは早々に立ち去るべきだったと後悔しても遅すぎて、混乱する思考を必死に働かせるしか茅ヶ瀬には選択肢がないらしい。 「えっと……じゃあ、」  だが困ったこと、手頃な答えが閃かないのだった。  彼は徐々に顔をしかめ、あからさまに不満を露わにし始める。  どうして自分がこんな目に、と恨みつつ厄日であることを呪った。 「と、トマトかな」  苦し紛れに掴んだそれをなんとか声に出して言う。  歌川晴己と名乗った彼は瞬間、機嫌を改めてくれたらしい。  その笑った顔が年齢に相応しい無邪気なもので、ささくれだち傷付いた茅ヶ瀬の心に癒しとなって染み込んできた。 「お兄さんトマト嫌いなんだ」 「う、うん。あのグジュっていう感触とか、味も……っ」 「へぇ。やっぱり大人でも食べれないものってあるんだ」 「そ、そりゃああるよ。好き嫌いぐらい」 「だよね。じゃあ、その嫌いなトマト。もし好きな人が、大好きな食べ物だったらどうする?」 「…………」  刹那――息が詰まるようだった。三十分にも満たない過去、自分は好きだった人と会い、失恋した。それで心は荒むばかりで、どうにか逃げ出そうとしたのに帰る為の電車は‪一時‬間に一本、まだやって来ない。  タブーだ。その話題はいけない。今にも泣き出してしまいそうで。惨めで、恥ずかしくて、 「消えてしまいたい」 「……お兄さん?」  消え入るような声で呟いていると気付いた次の瞬間、歌川晴己の口から漏れてきたのは、誰かに聞いてほしい茅ヶ瀬自身の言葉のようであった。 「好きな人がさ、音楽好きだった。俺、音痴だけどどうにか話せるきっかけにならないかなって、噂に聞いた好きな人の好きな曲を聞きまくった。聞いても好みはやっぱり違って、でもこれがあの人の好きなものなんだって思ったら、好きとは違うんだけど大切なものになる」  ――あぁ、思い出していく。死に際ではないのに、走馬灯のように学生時代の思い出が早馬のごとく脳裏を駆け巡っていく。いつしかそれは歩いてきたばかりの道に辿り着き、暗に気持ちを沈ませて終わった。ふと考える。隣に座る彼は、どうして自分に話しかけてきたのだろう、と。耳に飛び込んでくるのは、歌川晴己の人生の一部だ。 「運よく好きな人と話すようになった。それだけで嬉しくて、楽しくて、幸せだった。ちっぽけな幸せなんだけど、俺はそれで満たされていた。……満たされなきゃならなかった。でも俺は貪欲で、好きな人を、あいつを独り占めしたくなったんだ。――好き。思わず呟いたら、あはは、きもいって言われた」 「!」 「近寄るなって言われて。裏切られた気分って、言われた」 「そん、な……」 「あー人生終わったって思った。きっと待ってるのは嫌悪と好奇と、いじめじゃない? お兄さんもそう思うでしょ? ……うん、明日からどうしよって途方に暮れてたら、お兄さん見つけた。バカ野郎ー! って叫んでて、うわっ不審者だって思った」 「やっぱり!? そう思うよね? ……うわー、最悪だ」 「でもさ、それが羨ましくて、気持ちよくて。なんか面白そうな人見つけたと思って、声をかけたんだ」 「面白い……? そんな理由で?」  一人で振られた気分で落ち込んでいる姿が、端から見たら面白いのだろうか。  自分とは違い、思いを打ち明けた彼。目元が赤かったのは泣いたからなのか。  聞くこと憚れ、何も言えないでいると歌川晴己はへらって笑顔を見せた。 「ありがとう、お兄さん。お兄さんにそのつもりがなくても救われた気分だよ」 「……」 「明日からも頑張ってどん底人生、生きます」  ――なんて強いのだろう。彼の倍は生きている自分は、こんなところでくよくよしているっていうのに。  ますます自分がダメな人間のように思えてきて、腰を上げようとした彼の腕を握って引き留めた。  すっきりとした双眸が驚いたようにこちらを見る。 「ぼ、僕も。僕も、今、ずっと好きだった人に、奥さんと子供がいるって知って」 「え?」  何を年下相手に、しかも初対面の男子学生に吐露しているのだろうと思いつつ、開いた口は塞がらなかった。 「高校の時からずっと好きで、忘れられなくて。さっき会って、全然変わらなくて……」 「かっこよかった?」 「うん、かっこよかった、変わらず。つい言っちゃいそうだった、好きって。今じゃ言わなくてよかったって思うけど……。歌川くん、だよね?」 「うん」 「すごいと思う」  言葉に、眼前にある瞳が煌めく。 「勇気がいることだもん、告白なんて。しようって決めてないのに言っちゃったのは、もう堪えられないほど好きだったんだ。全然後悔することじゃないと思う。かっこいいよ、歌川くん」 「……」 「あ。ご、ごめんね、急に語り出してっ、しかも上から目線だった。ごめん! 偉そうにするつもりなくて――」 「お兄さん!」 「ふぁいっ」  掴んでいた手を逆に握られて、目と鼻の先にずいっと歌川晴己の端整な顔が迫る。最近の高校生はものすごく美形なんだな、と場違いにも(ほう)けているところで妙な言葉を聞いた気がした。 「お兄さん、名前は」 「えっ、あ、茅ヶ瀬。茅ヶ瀬(ゆう)」 「ゆう。ゆうって優しいって書く?」 「う、うん。ありきたりだよね」  そう言って、笑う。最初は歌川晴己の勢いに戸惑ったが、気付けば自然に笑えている自分がいた。 「茅ヶ瀬優さん」 「は、はい?」 「話から推測したんだけど、お兄さんはどっか遠くから来たんだよね?」 「うん。帰省で。い、‪五日後‬に帰るよ」  ――不審者は早く帰れ、なんて言われたらどうしよう。 「じゃあ、俺と、帰るまで仲良くして」 「……え」  そんなふうに考えたことを馬鹿にするように。忍び足で、けれど着実に変化は訪れようとしていた。  夏の大合唱が、輪唱を求めて、空高く羽ばたいた。  終わり

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