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第三話

 両国、広小路(ひろこうじ)の賑わいを見下ろしながら、政司は気を揉んでいた。  早馬により文が届けられたのが朝四つ、藤也が花見に参加すると決めた瞬間から、動き出した政司であるが、それでも刻は既に九つを過ぎていた。  いかに血の繋がった「おじじ」様の誘いとは言え、庶民と違い「はい、伺います」と簡単に訪ねることが出来ないのが、身分有るものの悩みの一つであろう。  しかも彼の主人の場合、更に複雑な事情が絡み合っていることもあり、まずは藤也の父に「おじじ」様からの文と共に、藤也がその誘いを受けた旨を知らせる使いを出した。  その返事を待ちつつ、政司は出掛ける準備を進めていた。  竹風荘の全てを任されている政司は、その日の予定――主人の動向から下働きへの作業の指示に至るまで、やらねばならぬ事は数多くある――をこなさねば成らなかった。  例え彼の主人がやや引きこもりで表に出ることが少ないと言えども、同程度の身分の武家勤めの者に比べ、政司の役回りは重要かつ他に漏らせぬ事情を含み、気が抜けないことばかりであった。  その引き換えというわけでもないが、藤也直属の使用人に取り立てられて以来、殿様の信も厚く政司の行動を妨げたり、願いを退けられた事は一度もない。  そもそも殿様が藤也に対して滅法甘く、何でも許してしまうのであれば、藤也がらみの政司の願いが叶うのは当然であっただろう。  ただ、それほどまでに溺愛する藤也に関しては、逐一報告が義務付けられ庶民であれば何でも無い事であっても、何故か藤也には許されない、ということもあるにはあったのであるが……。  とにかくそうした事情もあり、この両国の元は小間物問屋であったお(たな)を、政司所有の持ち家として手に入れることは造作も無いことであった。  竹風荘に住み込んでいる政司が、この家を使う事は殆どないが、自室としている二階の窓からは、目の前の広場の様子がよく見える。  家の裏手は川になっており、何かあればすぐに小舟で離れることが出来るよう、手筈も整えられている。 「ようやく来たか」  先程から、その到着を今かいまかと待っていた政司は、人々を蹴散らすようにこちらへ向かってくる姿を見とめ、すぐに階下へ向かった。  階段を降り広場側の部屋に入る。部屋の手前三畳程には床が張られているが、そこから先は土間になっている。  商いをしていた頃は、土間に直接平台を置きその上に売り物を並べていたようだ。  今はその台もなくがらんとした空間が間口まで続いているが、その間口の四枚の引き戸は厚くずっしりとした重みで、他者の浸入を拒んでいた。  政司はその内の三枚を開き、彼らを中に入れると再びしっかりと戸を閉めた。 「遅かったですね。何かあったのですか?」   乗物(のりもの)を下ろし、一息つく男達に政司は尋ねる。  男達の一人は竹風荘の使用人で政司が文を持たせた者だが、もう一人は本宅で殿様の駕籠者(かごもの)として働いている男である。  彼らはお互いの顔を意味ありげに見合わせたが、「これを」と政司に文を差し出した。  嫌な予感がしつつも文を受け取り内容を確認した政司は、苦虫を噛み潰したような表情で、男二人に言いつける。 「あちらに着くまで、この事は黙っているように」  頷く二人に、しばし休むように伝え、政司は藤也を呼びに二階に上がっていった。 ※ ※ ※  しばしの後、両国広小路の賑やかな喧騒の中、「えいほ、えいほ」と声を合わせながら、駕籠者達が通りを抜けて行く。  その乗物(のりもの)にどのような人物が乗っているのか、誰も知り得なかった。  名のある大名のものであろうと知れる立派な乗物は、元小間物問屋であった家の中から直接出てきたため、その人物が乗り込むところを誰も目にすることは出来なかったのである。  たまたまその瞬間に居合わせた者が、余程身分を明かせないのだろうか? と不思議に思ったとしても、彼ら一般庶民の日常に関わるものでもない。  通常であればすぐに忘れさられるだけの出来事なのであるが……しかし、今日に限っては、そういう者ばかりではなかったようだ。  幾対かの不穏な視線がその乗物に向けられており、中にはその後を追って動き出す者も確かにいたのである。  だが、その事に気付く者は、やはり一人もいなかったのである。

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