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第四話

 人目を忍びつつも、堂々と乗物は西の丸に到着した。  扉を開けたが慣れぬ着物に一人で外に出ることが叶わなかった藤也は、差し出された手に女子(おなご)のように手を乗せる。  そのまま引き起こされ、身体を預けるような形になったが、みっともなく転ぶよりはましだと思い、礼を言おうと顔を上げた。 「何故、あに…、あなたが、ここにいるのですか」  自分を抱き止めている相手が誰か知った藤也は、驚きに声を上げるが、ここが何処であるかを思い出し、声を潜めた。 「何だ、聞いていなかったのか? 今日はどうしても、父上の都合がつかなくてな。それで、私が代理で参じる事になった」  頭一つ分、背の低い藤也の顔を覗き込みながら、豊成(とよしげ)は答えた。 「聞いておりません」  話を聞かされていなかった事への不満か、藤也は不貞腐れた表情を見せる。  うっすらと色の捌かれた頬が膨らんでいるのを、つついてやりたい気持ちが込み上げるが、そんな事をすれば、完全な仏頂面になってしまうだろうと、豊成は自重した。  それでもつい、からかうような言葉を掛けてしまうのは、年の離れた弟可愛さ故である。 「むくれるな。せっかく可愛らしい姿をしているのに」 「馬鹿にしているのですね」  そんな兄の言葉に、藤也は怒りはしなかったが、沈んだ顔で俯いてしまった。  お屋敷では滅多に感情を露にしない弟の表情の変化を、楽しんでいた豊成であるが、暗い顔をさせたいわけではないので、慌てて言い繕った。 「馬鹿になどしていないぞ。お前はあの方に似て美しい。その姿も似合っているし、良いではないか」  改めて藤也を上から下まで眺め、うんうんと満足そうに頷いている兄の様子に「美しいは、男子への褒め言葉ですか?」と心の中で突っ込み、藤也は大きなため息をついた。 「行きましょう。おじじさまも待っているでしょうし」 「そうだな、参るか」  同意すると当たり前のように、弟の手を取り歩き始める兄の横顔を眺め、藤也はもう一度ため息をもらすのであった。 ※ ※ ※ ※ ※  その知らせを受けた彼は、全ての政務を中断し、すぐに行動を開始した。  比較的地味な着物に着替え、お小姓の中でも口が固く胆の据わった気に入りの者に声を掛ける。 「咲哉(さくや)、あれを持って、ついてこい」  それだけで主人の意図を解した咲哉は、数日前に取り寄せていた品物を捧げ持ち、すぐに後を付いてくる。  普段であればお供が小姓一人等、とんでもない話なのであるが、今彼が足早に歩く辺りは男子禁制の場所とあって、すれ違う女人も慌てて頭を低くするだけで、煩く寄ってくるものはいない。  もちろん、側室候補らの待ち受ける座敷に間違えて踏み入ろうものなら、大老どもの小言以上に五月蝿い状況になるのは目に見えている。  故に平時なら決して通らぬ、下女どもの行き交う辺りを通り抜け最短距離で西の丸を目指した。  西の丸周辺は男子禁制ではないため、すれ違う番仕らに訝しげな視線を向けられる事が何度かあったが、誰何される前にそそくさと歩を進めてしまえば、わざわざ後を追ってくるような者はいなかった。  城内の何処であれ彼が許しを請う必要のある場所はないにも関わらず、彼は常に御殿入り口で訪れた旨取り次ぎを頼んでいた。  訪ねる相手を思えば忠節を尽くしてとも言えるが、傍若無人な態度を好まぬ彼自信の性格ゆえであったろう。  しかし今日に限っては、そのような気遣いは無用であった。  世間を騒がせる噂の真意を確かめるべく、その場を押さえる為に急襲するのだから。  とは言え、彼自身はその噂を信じてはいない。  いや一部の事柄に関してだけは断じてないと思っているのだが、全てが嘘だとも考えてはいなかった。  大御所管理の一画とはいえ、城内で起こる事に関し、彼が知りたいと思えば報告を上げさせることは苦もない事である。  しかも相手はその事実を隠す気もないようで、(くだん)の人物の訪問記録も正式に残されていた。  記録に残されている人物は、両国広小路沿いのお店の使用人、齢十五とある。  確かに噂の町娘なのであろう。だが彼には、わざわざその噂が本当であるような振る舞いをしているように思えてならなかった。  大御所が親しく接しているとなれば、ただの町娘のはずがあるまい。  色に狂ったと噂されても構わぬくらい、その人物の正体を隠す必要があるのだと、彼は確信している。  隠居したとはいえ、まだまだ影響力を持ち合わせている人物に、誰がどのような目的で近付いているのか、それを突き止めるために彼は自ら行動を起こしたのであった。  案内を請わぬまま、御殿に入り丁度通り掛かった腰元を呼び止める。  突然声を掛けられた腰元は一瞬誰だろうと思案げな顔をしたが、すぐにその場に平伏する。 「父上はどこにおられる?」 「東方の奥、藤の間におられます」  淀みなく応える腰元の様子に『私には隠す必要はないと考えておいでか……そうであれば、すぐに事情も教えて貰えそうだ』と彼は安堵した。 「一人でおいでか」 「いえ、お客様がお見えです」  その返事を聞く間にも彼は歩き出していた。隅々までとは言えないが、ある程度間取りは理解していたので、そこへたどり着くのは容易いことであった。  しかし、目指す場所で思いがけない人物を認めた彼は、この一件が、己に困難な状況をもたらすであろうと予感したのであった。

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