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第五話

豊成(とよしげ)、なぜここにおるのじゃ?」  藤の間を背に縁側から庭の景色を眺める青年に声を掛けた。 「上様っ」  振り向いた青年は驚きの表情を見せ、すぐにその場に平伏する。 「豊成。顔を上げよ」  彼は、固い声で命じる。 「何故、そちが、今、この場所におるのか申せ」  平伏する豊成は、一瞬身体を震わせたものの、なかなか顔を上げない。  臣下とはいえ、その人となりをよく知り、必要とあれば歯に衣着せず進言してくる豊成が、こうまで狼狽えるのを見るのは初めてであった。 「豊成!」  秘かに心安く付き合える者の一人として、豊成を気に入っていた彼は、豊成が己の問いに答えないことにではなく、答えられない事実に寂しさを覚える。  しばしの逡巡の後、豊成は答える。 「私は、父の代わりにこの場に立ち会っておりますれば、何故というご質問に返答が出来かねます」  その答えに更に彼の戸惑いは大きくなる。 「豊親(とよちか)の代わりだと?」  豊親の代わりとなれば、今回の一件に山内家が関わっているという事ではないか?  大御所である父の気を引く機会に恵まれる者は、そうそういるわけもなく、おそらく名の知れた譜代(ふだい)や力を付けた外様(とざま)が絡んでいようとは考えていたのだが……  それが山内家だとは、と苦汁の表情を浮かべる上様の様子に、豊成は心を痛めていた。  決して表に出す事はできないが、豊成も上様の事を良き友と慕っている。  敬愛する主人と家の事情に挟まれ、豊成自身も苦悩する所であったのだ。  そしてその事情が溺愛する弟故であれば尚更であった。 「上様、何故山内家の人間が今ここにいるのか、私からは申し上げられません……、ですが私は上様に知って頂きたい」  まっすぐと、臆する事なく豊成は告げる。 「山内家が抱え、守り抜かねばならぬ事情を。上様から大御所様に伺って頂きますようお願い申し上げます」  そう言うと豊成は、額を床に擦り付け平服したのであった。 ※ ※ ※ 「失礼つかまつる」  中にいるであろう父に、声を掛ける。  隠居したとは言え、未だ(まつりごと)に影響を及ぼす父が、どのような人物と、どのような密談・密会?をしているのか……山内家の人間であると知れた今では更に緊張に拍車が掛かっていた。  庭の池に降り注ぎ、乱反射した光が、開け放たれた縁側から座敷に差し込んでいる。その光が、薄暗い廊下から移動してきた彼の目を貫き、視界が眩んだ。 「どうした、(こう)。何か火急の用でもあったか」  彼を幼き頃の愛称で呼ぶのは、今ではたった一人しかいない。  何度か瞬きを繰り返し、ようやく座敷の明るさに目が慣れる。 「いえ、そういう訳ではございませ……」  声のする方に顔を向け、返事を返す途中で紅の声は途切れた。  目に入ったのは、床の間を背に座している父と、それに臆する様子もなく向かい合っている女人の姿。  こちらに背を向ける格好であったその人が、ゆっくりと振り返り、紅の姿を捉えた。  艶やかさに、息を呑んだ。  桜色の着物に、極々淡い若葉色の打ち掛けを羽織り、吹輪(ふきわ)に結われた髷には桜色の絞りの布がいく筋が垂れている。  細面の顔に掛かるように差し込まれた(かんざし)は、桜の花びらを連ねた銀細工である。  しゃらしゃらと、揺れる簪の音が聞こえる程の静寂が満ちていた。  不思議そうに小首を傾げ、紅を見つめるその顔は、桜の精その人のようで、無垢にも妖しくも見え、その黒く冴え冴えとした眼に、吸い込まれそうな気がした紅は意識を保つため無意識に(かぶり)を振った。  ふと、その様子を面白そうに眺める視線に気づき、紅は無理やり彼女から視線を外す。 「父上には、ご機嫌麗わしいことと存じ上げます」  袴の下で強ばっている足を強引に動かし、座敷奥へと進む。 「火急の用ではございませんが、南蛮渡来の珍しい菓子が届きましたので……」  そう言いつつ、付き従う咲哉から菓子折を受取り、示して見せる。 「ほう、菓子か。わしへの土産としてか?」  息子の来訪の意図を十分理解しているであろう口ぶりだ。 「もちろん、父上のお客人であれば、お気に召して頂けるであろうと思いまして」  手にした菓子折りを、そっと娘の目の前に差し出す。  いきなり話を振られた娘は、面食らった様子で助けを求めるように大御所へ目を向ける。 「藤野、呼ばれもしないのに愚息が勝手に参じてしまった、すまぬな。まぁ、そちへの土産を携えてきたのだ、詫びの品だと思って受け取ってくれ」  父の言葉に紅は驚愕する。  年端も行かぬ娘に、大御所――先の将軍――である父が許しを請うているのか?  娘――藤野は差し出された菓子折りを受けとるべきかどうかと困ったような表情を見せていたが、廊下から座敷の様子を見守っているらしい、豊成が合図をしたらしく面を伏せつつ紅の手から菓子を受け取った。  それを機に出ていけと言われる前にと、紅は娘の隣に座り込んだ。 「しかし、これ程美しい方に、これまでにお会い出来なかったとは残念です。どちらのお姫様でしょうか?」  美しい娘に興味を惹かれたという体で、父に尋ねる。 「豊成がお付きをしているのだから、山内家縁の由緒正しいご身分なのでしょうが」  山内家の縁者である事は、承知。暗にそれ以上の答えを求めていると告げる。 「確かに山内家縁の者だが、お前とて浅からぬ縁じゃぞ」  そう言って、呵呵と大笑する父に、不信感が募る。  横目で娘を眺めると、特に動じた様子もなく、身動きせず座っている。 「父上、それは……」どういう事かと尋ねようとするのを制するように、やおら立ち上がった父は縁側へと歩き出す。 「参るぞ、藤野」  娘に声を掛け、そのまま縁側から外へ出ていく父を、呆気に取られ眺めていると「紅、お前もどうだ?」と声を掛けられた。  何がどうなのかわからないが、何処かへ移動するようだ、「構いませんが、どちらへ参るのですか?」  ここで逃げられては敵わないと、慌てて父を追いかけると、いつのまにか庭に出ていた咲哉が、草履を揃えて待っている。彼の行動を予想して動いていたようだ。  やはり使えるな、と内心感心しつつ、紅は草履を履いた。  座敷を振り返ると豊成が藤野に手を差し出し立ち上がらせていた。  歩くのも覚束ないのか、藤野はそのまま手を引かれ縁側までやって来る。  その様子を注視する紅に藤野はちらりと視線を向けるも、すぐに俯いてしまう。 「さぁ、これを履いて」  豊成が着物と揃いの草履を縁側の上に置くと、白足袋の爪先が鼻緒を探りつつ草履へ滑り込む。  その動きに妙な艶かしさを感じ、紅の下腹にぞわりとした感覚が走る。  その感覚に狼狽えつつも、このまま縁側の段差を飛び降りるつもりだろうかと見ていれば、庭に降りた豊成が娘の腰を抱き上げ地面に降ろしす。  何となく目のやり場に困るような、面白くないような、何故か紅の気持ちはざわついていた。  そんな紅に軽く頭を下げてから、豊成は娘の腕を取り大御所を追いかけ歩き始める。 「父ばかりか豊成も娘に夢中と言うことか?」苦々しく紅は呟いた。  胸に広がるこの不穏な感情は、得体の知れない娘への疑念だと、紅は己れに言い訳するのであった。

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