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閑話2・芽吹

 カンカンと響く金属音が遠ざかる。やや遅れ、硬い石の地面を駆ける足音。それもやがて遠く彼方へ去り、彼の気配が完全に追えなくなった。  一人になった部屋で、私は漫然と視線を巡らせ、周囲を取り巻く"未知のモノ"達を眺める。色々と触ってみたいどころだが、迂闊に弄って壊してしまうかもしれない。そうなれば私に修理は難しいだろう。先程の『すまほ』なる板も仕組みがまるで理解出来なかったのだから。 (嗚呼、それにしても――私は随分と遠い所へ来たらしい)  知らぬ言葉。知らぬ国。知らぬ品々。何より、大気に魔力が感じられぬ。精霊の祝福も加護も。恐らく、此処には『存在しない』のだ。  魔法が存在しない"世界"。次元の壁の向こうには幾つもの世界があるのだと、伝え聞いてはいた。高位魔導士の中には壁を超える術を使う者も居ると聞く。  どうやって己が壁を越えたのかは分からない。戻り方も同じく。恐らく、故郷の土を踏むことは二度と無いのだろう。 (それでも"生きている"。生きて、自由になれた)  与えられた布で肌を拭き、服を身に着ける。清潔な衣服。拘束具の無い手足。痛まぬ身体。いずれも久しく味わえなかった心地好さだ。 (彼は、何故私を助けたのだろうか)  つい先程此処を出て行った、黒を纏う青年を脳裏に描く。  昨夜から彼には随分と負担を掛けてしまった。瀕死の状態ではあったが、己が彼に強いた行為の記憶は確り残っている。  生存本能が働いた結果といえども、命の恩人に対して蛮行に及んだものだ。 (酷く苛立っていたが、嫌悪は無かったのが救いか)  獣の耳や鼻が得る情報は人間より遥かに多い。  言葉が十分理解らずとも、心の動きを読むこと、身体の反応を感じ取ることは出来るのだ。  興味、疑心、警戒、苛立ち、そして情欲。  伝わる情動は様々ながら嫌悪の色はみられない。  細い両目は常に弧を描き、その奥、鋭い刃のような黒が此方を観察していた。  故郷での日々を思い出す懐かしい黒。  けれど石の冷たさは其処に無く、向けられる感情はどれも熱い。焼けた鉄の熱宿す刀身。硬く鍛え上がるには未だ一歩届かず、されど触れれば身を切る鋭い刃。そんな印象を受けた。    ふと、今朝の一幕が蘇る。  初め私が目覚めた時、彼は未だ夢の中だった。眠ったまま苦し気に呻いていたが、抱き抱えて背中を摩れば、徐々にすややかな寝息に変わる。眉間の皺が解けた寝顔は幼い子供のようで、遠い記憶の彼方に眠る息子の姿を思い起こさせた。  顔貌からは年齢が読めぬ青年だが、恐らく未だ若い。  いとけない眦を指で辿り、細い背を撫でるうち、己も再び眠りの淵へと落ちていた。 (若しかすると成人も未だかも知らん……身体は大丈夫だろうか)  改めて、己の蛮行を猛省する。  彼は私を助けた命の恩人だ。あのまま雨に打たれ、魔力も戻らなければ、遠からず己が命は尽きていただろう。  受けた恩を返したい。だが、呪わしい我が身が其れを阻む。  此の世界には"バース性"が存在しない。  つまり、オメガである我が身に必ず訪れる"発情"を抑制する薬や術もない。  更に己には厄介なもう一つの性質が備わっている。拙い説明では伝え切れなかったが、己が体質を鑑みれば、彼に頼り切る訳にはいくまい。  そう、思ったのだが。 『だから、なんでダメなんだよ!?』  見開かれた目の潤みが、取り縋るよう絡む指が、心をざわめかせた。  錆び付いていた歯車が動き出す。心のまま手を伸ばし、抱き締め、口付ける。  肌を重ねる心地好さなど、それこそ、久しく感じたことが無かった。  身体の内に魔力が満ちる。  魔力だけではない何かが、身体の芯を温めていく。  目を閉じれば、部屋を出て行く彼の背が瞼に浮かんだ。 ―――あの時、つい引き留めそうになったのは何故だろう。 (……どうしたものかな)  一つ満ちればまた一つ。欲に果ては無い。  知らず吐いた息はただ静かに溶けていった。 

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