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 砂塵とともに汗が滴り落ちる。幾人もの男たちの足裏で踏み固められた砂は、同じく幾人もの男たちの汗と血が染み込んでいる。  額から滝のように流れる汗を目の中に入る前に拭い、ブラックドックは模造剣の柄を握り締め、眼前の男に集中した。猛禽のような鋭い眼光で、相手の俊敏な動作を捉える。  ざり、と大地を踏みしめる音とともにブラックドッグは打ちつけた。鋼の筋肉に覆われた褐色の太い腕が隆起し、汗が飛び散る。豪腕を奮った一撃に、相手の男は怯みもせず、顔の間を流れる汗すら涼しげに、平然と受け止めている。 「浅いぞ」  彼にとっては恐らく事実、ブラックドッグは奥歯を噛んで唸る。 「うるせえ、一度くらい入れさせやがれ」  互角。そう思いたいが、実際は男の方が腕が立つ。  腹立たしいことに、対峙する男、アレウスと模擬試合を行って勝ちを取った回数は、負けた回数の半分にしか満たなかった。ブラックドッグが弱いのではない。ブラックドッグは、大都市ヴァレンティーナのあらゆる養成所の剣闘士の中でも、市民の番付では常に十本の指に数えられる。だがアレウスは遥か上、ヴァレンティーナの筆頭剣闘士と呼ばれていた。 「てめえも受けてばっかいねえでかかってこいよ、舐めてんじゃねえぞ」  息さえ乱さぬ男に苛立ちをぶつければ、相手は薄い色の切れ長の目を細め、右と左にそれぞれ握った得物を翻す。 「あえて加減してやってる。貴様のためにな」 「ふざけんな……手ぇ抜いたてめえに勝ったところで意味ねえんだよ」  彼は盾を持たない、双剣使いの闘士だった。太い両腕に、通常のグラディウスよりも細身の剣を持ち、自在に操る。俊敏で軽やかな身のこなしで敵を翻弄し、隙を突いて勝ちを取る。他の大勢と同じく鋼の肉体を持つ割には小回りが利き素速く動き回る彼の戦法は、勝利の数に表れるだけでなく、市民の人気も獲得していた。  戦いぶりだけでなく、容姿もまた彼の人気に一役買っていた。半分ほどを後頭部で結い上げた金髪は、少し褪せているが闘技場では強烈な太陽の光のもとで輝く。湖畔色の目から放たれる玲瓏な眼差しと、酷薄とも感じられる薄い唇。年中日射を浴びても焼けにくい体質なのか肌は他と比べても白く、無駄な肉のない鋼の肉体は観客の女を虜にする。  所属する養成所にヴァレンティーナ筆頭の剣闘士が在籍していることは、剣闘士たちにとって同じ砂上で訓練を積む兄弟として誇りであり、また闘志を刺激される好敵手でもあった。  だがブラックドックは違った。率直に表現すると、アレウスのことは気に食わなかった。筆頭剣闘士でありながらもどこか冷めた態度や、それでいながら闘技会自体には貪欲――なところは確かに癪に障るが、一番の理由はそれでない。元自由民だが金のために剣闘士に身を堕とした――と聞いたが他人の闘技会に対する姿勢も、気にするところではない。 「必死に戦い勝ちを重ねたところで、お前には帰る場所はない」  かつて養成所に入り、奴隷剣闘士の焼印を肩に捺されたばかりのブラックドッグに、当時すでに筆頭剣闘士として名を馳せていたアレウスは無感情にそう言い放った。  ブラックドッグは彼に殴りかかり、彼の端整な澄まし顔に一発入れ、養成所の衛兵たちに取り押さえられて懲罰房に放り込まれたのだ。  彼の言った言葉は事実だった。不躾で無神経な物言いなど剣闘士の間では当然だったしまたブラックドッグ自身もそうだったが、故郷をなくしたばかりのブラックドッグにとって、彼の言葉は深く突き刺さって血を流させ、奴隷という自身の身分に対する憎悪を増幅させた。  以来、アレウスのことを嫌悪していた。アレウスも、ブラックドッグに対して辛辣な態度を取ることが多かった。  広い砂地で、剣闘士たちが二人一組で各々訓練を始めてから一時間近く経過しようとしていた。真上に上った太陽は容赦なく男たちの身体を焼き、水分は汗となって砂に吸い込まれていくが、模造剣を打ちつける音と野太い叫び声はまだ止まない。  防御に徹するアレウスに、ブラックドッグは間髪おかずに攻撃を畳みかける。舐めてかかっていると痛い目を見るということを教えるまで、この男を地に伏せるまでは、終わりにできない。 「――訓練止め、整列!」  訓練士の号令がかかっても、ブラックドッグは攻撃の手を緩めなかった。アレウスは湖の色をした目を剣から逸らす。彼の体勢がわずかに崩れる。今だ、と得物を振りかぶった時、突然、訓練場に拍手が鳴り響いた。  アレウスは故意に剣を落とし、ブラックドッグの振るった剣は彼の腕を強く打った。  砂地の頭上から降る大きく乾いた音に、ブラックドッグはアレウスの視線の先を追って見上げた。  訓練場は、剣闘士の宿舎を兼ねた、休息や食事、沐浴のための建造物と、養成所を運営する興行師の屋敷の間に挟まれている。敷地一帯は人の身長の二倍ある壁に囲われ、奴隷剣闘士たちが逃亡を図ることは許されない。  砂塵が舞い上がる訓練場を、屋敷の二階にある露台から見下ろしている者たちがいる。ほぼ裸に近い格好で訓練に励む剣闘士とは異なり、上質な衣服を身に纏い、市場に行けば高値で取引される装飾品を身につけ、芳醇なワインが注がれた杯を片手に、側に控えた奴隷に扇を扇がせている。  ひとりはこの養成所の興行師であるスプリウスという男で、その左隣に佇む薄手のドレスを纏った婦人は彼の妻だった。右隣には見慣れない男がいたが、衣服や装飾品から身分の高い客人だとわかる。  拍手をしたのは客人のようだった。  訓練士が鞭で大地を打つと、剣闘士たちは剣を落として屋敷に向かい横一列に整列した。無愛想にしながらも背後に手を組み、姿勢を正す。その中にブラックドッグとアレウスも加わった。乱れた呼吸を整えるように深く息を吸って吐く。筋肉に盛り上がった胸を、玉の汗が流れていく。  隣に立ったアレウスが、小声で囁きを寄越す。 「貴様はドクトーレの大声の号令が聞こえないほど耳が遠いのか」 「お前を叩きのめすチャンスを奪うのが不躾だ」 「叩きのめす……そんな機会、過去一度でもあったか?」  猛禽のように鋭い眼光でブラックドッグは隣の男を睨めつけた。この男はいつも、腹立たせる台詞しか吐かない。前に立つ訓練士が、咎めるようにこちらに視線を寄越した。 「旦那様。お客様がいらっしゃるのであれば、何人か選んで戦いをお見せしますか」 「いや、引き続き訓練を続けよ。来月の闘技会に向けて力を高めよ」  そう指示を出してからスプリウスは不意に、仏頂面で佇むブラックドッグと、その隣のアレウスに視線を落とした。 「アレウス、それからブラックドッグ。今夜屋敷に来い」  短い命令を聞いて、咎め立てでもあるのかとブラックドッグは考えた。主と客人の前で号令を無視して攻撃を続けただけでか? 「承知しました、旦那様」  乱れのない声で答えたアレウスの横顔を、ちらと盗み見る。ブラックドッグは、唾棄したい気持ちになった。  この男の、機械的なまでの従順な態度も気に入らない。主人などクソだ。当然のごとく、剣闘士を自身の懐を膨らませるだけの金儲けの道具としか考えていない。そんな男に平伏することも、平伏する男のことも、ブラックドッグは何よりも厭う。  苛立ちを抱えながら、他の剣闘士同様に訓練に戻り、日没まで筋力と剣技を磨いた。今宵起こる過ちが、良くも悪くも自身の未来に影響することを、この時はまだ知りもしなかった。  日没後、スプリウスの屋敷へ赴いたブラックドッグは、普段主についている女奴隷たちに腕を引かれ、湯場へ連れられた。屋敷の湯場は、奴隷剣闘士たちが使用している沐浴場と違って広く清潔だった。垢も浮いていなければ黴もない。  半ば強引に腰布を取られ、念入りに身体を洗われた。この養成所に来て三年、屋敷に足を踏み入れたのも、主つきの奴隷に身体を洗われるのも初めてだった。汚ならしい姿で屋敷をうろつくなと言われているようだった。  石鹸を使い、洗髪もされた。さながら主人にするように、丁寧に。乳白色の湯に沈められ、全身の水気を拭われた後には、花の香りのする香油を肌に塗りたくられて気分が悪くなった。  おそらく叱責するために呼ばれたのだろうにこの扱いは何だろうかと首を傾げながら、主つきの奴隷の後をついて歩く。 「こちらで旦那様がお待ちです」  案内された部屋に足を踏み入れると、部屋中に焚かれた香炉の煙が肺を満たし、ブラックドッグの眉間に深い皺が刻まれた。  ふわりと素足を包む、毛足の短い絨毯はおそらく獣の毛皮。朱色の壁は艶やかで、部屋の四隅と中央に立つ柱には麗しい裸体の女神が描かれている。中央に置かれたテーブルには、ワインの入った瓶が置かれているが、側に人の姿はない。部屋の最奥の露台に置かれた長椅子に、主人たちは腰かけている。  その前に立つ、ブラックドッグと同じく腰布だけを身につけた男が、振り返る。目が合って思わず舌打ちをしたくなった。 「ブラックドッグ。こちらへ来い」  スプリウスの声かけに、ブラックドッグは顔を歪め、重い足を運んだ。通常足を踏み入れることも許されないような部屋だった。ブラックドッグたち剣闘士が夜間繋がれている、寝床である地下牢は酷く暗く、湿っていて、臭い。この貴人のための豪奢な部屋とは何もかも違う。当然だ、剣闘士は奴隷であって人間ではない。ブラックドッグは、ヴァレンティーナに来てから初めて、人を人とも思わない人種がいるのだと知った。  苦虫を噛み潰しながら、アレウスの隣に並んで立つ。横目で窺い見るが、彼はじっと唇を引き結んで沈黙している。  日中、訓練場を見下ろしていた客人――中年の、細い顔立ちの男の視線が露骨に纏わりついてくる。舐め回すように、頭の天辺から爪先まで、ブラックドッグの全身を這う。  香油を塗られて燭台の明かりに光る肌は、他の多くの者と異なって褐色をしている。厚く硬い筋肉に覆われた身体は、首や腰回りも太く、雄々しい印象を与える。上腕の隆起や膨らんだ胸は、生来のものと肉体に強いた過酷な鍛練の賜物だった。短く刈った黒髪、眼光鋭い同色の瞳、無愛想に引き結んだ厚めの唇は、精悍で男くさい顔立ちを作る。 「そうか、ブラックドッグと呼ばれる所以は、肌も髪も目も黒いからか」  客人は舐め回した後、満足そうに言う。 「その、胸を横に走る傷痕は素晴らしい」 「商人がこれを捕らえた際につけたものと聞きました。三人殺し、胸に深手を負ってようやく大人しくなったのです」  男たちの言葉通り、ブラックドッグの胸部には皮膚が引き攣れた大きな裂傷が走っている。傷痕が目に入る度に、奴隷に堕とされた時のことを思い出して殺意が甦る。  山の民が暮らす、厳しく過酷で、けれど美しい自然に囲まれた村、ヤーラ。そこへ突然、ヴァレンティーナから武装した人間たちが現れ村に火を放った。男も女も、子供も老人も捕らえられ、家族や兄弟は皆、離別した。  山を通りかかったヴァレンティーナ市民を襲撃し盗んだ罪で罰せられたのだと伝えられたが、覚えはなく、ブラックドッグからすればある日突然、故郷が理不尽に奪われたのだった。  奴隷商人の手に落ちたヤーラの民は、ヴァレンティーナの市中で売られた。体格に恵まれ峻厳な顔つきのブラックドッグは、剣闘士養成所を運営する興行師であるスプリウスに買われた。  仲間の消息は知れず、掴む手もない。皆、奴隷としてヴァレンティーナ市民に使役されていることだけは確かだった。   「山の民か。彼らは野蛮かつ獰猛で、獣に等しいと聞く。その強さは剣闘士には打ってつけだろうな、スプリウスよ」 「ですが飼い慣らすのは容易ではありません。始めは見境なく暴れ、引っ掻くわ噛むわ、我が剣闘士たちも怪我を負わせられ、扱うに難儀しました。三年かかって多少は人に近くなりましたが」 「……見境なく、野蛮? そりゃ、てめえらヴァレンティーナのクソどものことだろうが」  見境なく市民でない人間を捕らえ奴隷の烙印を捺し、身につける装飾品の価値に満たないような金銭で売買し、過酷な労働を課す。これ以上に野蛮と呼べる行いがあるだろうか。  吐き捨てた暴言に、主人の側に控えていた二人の衛兵が剣の柄に手をかける。客人はなぜか口もとに笑みさえ浮かべ、彼らの動きを手で制した。 「威勢がいい。従順で軟弱な奴隷たちとは違う」 「申し訳ありません。まだ挨拶の仕方も、人間の作法も身についておらぬのです」 「構わん。作法も品性も、今宵は必要ない」  客人は長椅子に寛いで足を組み、再びねっとりと絡みつくような視線でブラックドッグを仰ぎ見た。 「かえってその獣の性が必要になる」  獣という罵りに口端を引き攣らせながらも、肌の上を這う粘着質な視線に居心地の悪さを感じずにはいられない。昼間の無作法を咎められると思ったが、いずれにせよろくなことは考えていない筈だ――ブラックドッグは再び口を開こうとしたが、それよりも早く隣に直立する男の声が聞こえた。 「旦那様。我々を呼んだ理由をお聞かせください」  無感情で冷ややかな声は、余計にブラックドッグの苛立ちを募らせる。本意でもないくせにへりくだる態度。旦那様だ? 媚売りやがって、と内心で吐き捨てた。 「そうだな。来月開催される大闘技会の主催は、こちらにいらっしゃるユリアトゥス様なのだ。もちろん、我がスプリウス養成所にも出場の要請をしてくださっている」 「試合の演出のご相談で呼ばれたのですか」  アレウスは湖畔の目を細める。 「でしたらブラックドッグはこの場に必要ないでしょう。獣にそのようなことを考えるセンスはありません」 「なんだとてめえ」 「やめよ。アレウス、此度は試合の運びのことで呼んだのではない。実は、ユリアトゥス様は、ティトゥス養成所のセネカとの試合を用意してくださるそうだ」 「セネカ……ですか」  その名はこの一年で頻繁に聞くようになった名前だった。  ヴァレンティーナの剣闘士養成所を運営する興行師、ティトゥスは、スプリウスの商売敵でもある。ティトゥス養成所のセネカと言えば、大熊のセネカという二つ名で知られる剣闘士だった。彼の身体は常人より遥かに大きな巨体で、それに見合った豪腕と持久力を有し、人間離れした怪力で並みの剣闘士たちの頭を握り潰す。彼が闘技場で暴れる姿を観戦する市民たちは、怪物だとか、熊だとか呼んでいる。 「お客人は、俺がセネカに撲殺されるのをお望みですか」 「そうではない。ユリアトゥス様は、お前が闘技場の砂の上にあの巨体を転がすのを所望しておられる」  アレウスはヴァレンティーナ筆頭の剣闘士だが、ティトゥスも瞬く間に名を上げた凄腕の闘士だ。有名どころの剣闘士、しかも俊敏な双剣使いのアレウスと、巨体で怪力のセネカ、正反対の性質を持つふたりの戦いは、市民の関心を大いに惹くものだろう。 「もしセネカを負かせば、闘技場は興奮と歓喜に渦巻くだろう。例え負けたとしても、あの巨体に立ち向かう小さき者の戦いに市民は熱狂する。主催者であるユリアトゥス様の名声も高まる。ユリアトゥス様は、セネカとの試合に、追加で報酬をくださるそうだ」 「……本当ですか」  アレウスの声がわずかに浮いたことにブラックドッグは気づいた。金の話となるとこの男は顔色を変えるのだ。 「はっ、こいつとセネカの剣闘試合なんざどうでもいい……脳天カチ割られて死んじまえ」 「ブラックドッグ、どうでもいいことではない。セネカとの試合が組まれるか否かは、お前たちふたりの働き次第なのだ」 「なおさら、俺には関係ねえな」 「条件があるのですか」  食い気味にアレウスが遮った。横目に睨みつけると、至極真剣な表情で客人を見つめていた。ユリアトゥスは、肘置きに腕をかけながらワインを傾け、悠然とふたりの剣闘士を見上げた。 「ああ……今宵のお前たち次第だ。アレウス、それからブラックドッグと言ったか……私を楽しませよ」  男の視線が身体を這う。剣闘士の極められた雄々しい肉体の上を、ゆっくりと舐めていく。  女奴隷たちに大仰なまでに念入りに身体を清められた理由を理解し、ブラックドッグは喉の奥で唸った。 「ふざけんな……こいつの試合のために身体張れってのか」 「誰がアレウスの試合と言った? セネカと戦うのは、ブラックドッグ、お前もだ」 「ああ?」 「ふたりがかりで大熊と戦う。お前にも同額の報酬を出すぞ」  スプリウスを見やれば、神妙な顔つきで頷いている。もし敗北して死亡したとしても、元の多額の報酬は興行師であるスプリウスへ渡るのだ。  闘技場で死ぬつもりは毛頭ない。セネカを斬り伏せる自信がない訳でもない。だが。 「断る。野郎の一物をしゃぶってまで試合に出て、そんな汚ねえ金は欲しくねえ」 「勘違いをしているぞ、山の民」  ユリアトゥスが愉快げに喉で笑う。 「私の身体ではなく、私の目を楽しませるのだ。お前たちふたりがまぐわう姿を見せよ」

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