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08.ジークと薬(2)
* * *
「冗談じゃねぇ……」
リュシーは汗に張り付く前髪を掻き上げながら、閉めきった扉を背に頭上を仰ぐ。
何かを堪えるように歯噛みして、目を細め、その傍ら、ドア越しに室内の様子を探る。
少しは落ち着いてきただろうか。
先ほどまでに比べれば格段に減った物音に、リュシーは大きく息をつく。
「あのご主人 ……適当なことばっか言いやがってっ……」
吐き捨てるように呟くと、応えるようにガタン! と響いた音にびくりと肩が揺れた。
そんな自分の反応に舌打ちしながら、再度背後に意識を向ける。
けれども、それきり気になるような音も声も聞こえては来なかった。
リュシーはそのままずるずると足下にへたりこんだ。不自然に乱れた襟元を掻き寄せながら、忌々しげにため息を重ねる。
(なんで俺がこんな目に……)
主人 はまだ帰らない。
夕方まではもつだろうと聞いていたが、実際には昼すぎまでも、もたなかった。
* * *
数時間前――まだリビングで話し込んでいた時のことだ。
目を覚ましてから昼頃までのジークは、確かにすっかり落ち着いて見えた。
明るく真面目で一生懸命。素直で優しく、かつしっかりとした面もある――見るからに人好きのするその性格は、アンリとはまるで正反対にリュシーには映った。
纏 う空気にも一切の険がなく、久しく触れた覚えがないほどのその清白ぶりは、感心を通り越して呆れてしまいそうなほどで、
(……気を抜きすぎた)
それが何よりの失態だった。
カチャンと音を立てて、カップが倒れたのに気付いたときには、ジークの息はすでに上がっていた。ふわりと漂ってきた匂いに気付いたのもその時だ。
そこから一気に濃くなった甘い香りに、リュシーは束の間、気圧されたように動けなくなった。
辛うじて上げた視線の先で、ジークは苦しいように自分の身体を掻き抱いていて――。
かと思うと、次の瞬間、糸が切れたかのように意識を失った。
ジークはそのまま床へと崩れ落ちた。どさり、と響いたその音に、ようやくリュシーの時間が動き出す。
慌てて傍へ駆け寄ると、ジークはなまめかしい吐息を漏らしながら、微かにまぶたを震わせていた。
リュシーの頭の中に、昨夜の様相が蘇る。この家 に来る前――リュシーがジークを拾いに行ったときと、似ている気がした。
リュシーは急くようにジークの身体を抱き上げた。
触れた先から、何とも形容しがたい空気が纏わり付いてくる。
きわめて甘く、強制的に官能を擽るようなそれは、元々影響を受けにくいはずのリュシーにまでも強引に火をつけようとする。
(うっとうしい……)
煽られたって、リュシー は達けないのに――現状 のままでは。
「間に合わなかったら、じゃ、ねぇよっ……」
リュシーはじわじわと体温を上げるジークを抱えたまま、リビングを飛び出すと、
「こんなの、どうせ想定内だろ……!」
吐き捨てながら廊下を突っ切り、次いでアトリエの扉を蹴り開けた。
リュシーはそこから更にひとつ扉を抜けて、ジークを奥の部屋のベッドに下ろす。
それからすぐにアトリエに戻り、今度は作業台の上へと視線を走らせた。
間もなく目に止めたのは、今朝方ジークが気にしていた、不思議な色合いの液体が入った瓶だ。焦れたようにそれを手に取り、急いで奥の部屋へと向かう。
「!」
けれども、そこでリュシーは足を止める。
とっさに口元を覆ったのは、先とは比べものにならないほどに濃くなった香りが、部屋中を満たしていたからで、
「リュシー、さん……」
そしてベッドに寝ていたはずのジークが、いつの間にか身を起こし、艶然と微笑んでいたからだった。
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