23 / 122

08.ジークと薬(2)

 *  *  * 「冗談じゃねぇ……」  リュシーは汗に張り付く前髪を掻き上げながら、閉めきった扉を背に頭上を仰ぐ。  何かを堪えるように歯噛みして、目を細め、その傍ら、ドア越しに室内の様子を探る。  少しは落ち着いてきただろうか。  先ほどまでに比べれば格段に減った物音に、リュシーは大きく息をつく。 「あのご主人(くそやろう)……適当なことばっか言いやがってっ……」  吐き捨てるように呟くと、応えるようにガタン! と響いた音にびくりと肩が揺れた。  そんな自分の反応に舌打ちしながら、再度背後に意識を向ける。  けれども、それきり気になるような音も声も聞こえては来なかった。  リュシーはそのままずるずると足下にへたりこんだ。不自然に乱れた襟元を掻き寄せながら、忌々しげにため息を重ねる。 (なんで俺がこんな目に……)  主人(アンリ)はまだ帰らない。  夕方まではもつだろうと聞いていたが、実際には昼すぎまでも、もたなかった。  *  *  *  数時間前――まだリビングで話し込んでいた時のことだ。  目を覚ましてから昼頃までのジークは、確かにすっかり落ち着いて見えた。  明るく真面目で一生懸命。素直で優しく、かつしっかりとした面もある――見るからに人好きのするその性格は、アンリとはまるで正反対にリュシーには映った。  (まと)う空気にも一切の険がなく、久しく触れた覚えがないほどのその清白ぶりは、感心を通り越して呆れてしまいそうなほどで、 (……気を抜きすぎた)  それが何よりの失態だった。  カチャンと音を立てて、カップが倒れたのに気付いたときには、ジークの息はすでに上がっていた。ふわりと漂ってきた匂いに気付いたのもその時だ。  そこから一気に濃くなった甘い香りに、リュシーは束の間、気圧されたように動けなくなった。  辛うじて上げた視線の先で、ジークは苦しいように自分の身体を掻き抱いていて――。  かと思うと、次の瞬間、糸が切れたかのように意識を失った。  ジークはそのまま床へと崩れ落ちた。どさり、と響いたその音に、ようやくリュシーの時間が動き出す。  慌てて傍へ駆け寄ると、ジークはなまめかしい吐息を漏らしながら、微かにまぶたを震わせていた。  リュシーの頭の中に、昨夜の様相が蘇る。この家(ここ)に来る前――リュシーがジークを拾いに行ったときと、似ている気がした。  リュシーは急くようにジークの身体を抱き上げた。  触れた先から、何とも形容しがたい空気が纏わり付いてくる。  きわめて甘く、強制的に官能を擽るようなそれは、元々影響を受けにくいはずのリュシーにまでも強引に火をつけようとする。 (うっとうしい……)  煽られたって、リュシー(自分)は達けないのに――現状(いま)のままでは。 「間に合わなかったら、じゃ、ねぇよっ……」  リュシーはじわじわと体温を上げるジークを抱えたまま、リビングを飛び出すと、 「こんなの、どうせ想定内だろ……!」  吐き捨てながら廊下を突っ切り、次いでアトリエの扉を蹴り開けた。  リュシーはそこから更にひとつ扉を抜けて、ジークを奥の部屋のベッドに下ろす。  それからすぐにアトリエに戻り、今度は作業台の上へと視線を走らせた。  間もなく目に止めたのは、今朝方ジークが気にしていた、不思議な色合いの液体が入った瓶だ。焦れたようにそれを手に取り、急いで奥の部屋へと向かう。 「!」  けれども、そこでリュシーは足を止める。  とっさに口元を覆ったのは、先とは比べものにならないほどに濃くなった香りが、部屋中を満たしていたからで、 「リュシー、さん……」  そしてベッドに寝ていたはずのジークが、いつの間にか身を起こし、艶然と微笑んでいたからだった。

ともだちにシェアしよう!