1 / 3
1. 割れて壊れたティーカップ・前編
貴族レイ家の四男に生まれたローシャは生まれつき体が弱かった。体力がなく運動も勉強もついていくことが出来なかった。そんなことから後継者候補からは外れており、両親も優秀な兄達に係りっきりになり、ローシャに構うことは少なかった。兄たちともほとんど顔を合わせたことがない。ローシャは家族の中で浮いていた。
しかしローシャは寂しくなかった。
執事のアルベルトがいたからだ。
アルベルトは数多くいる執事の中でも一番ローシャを気にかけてくれいた。幼い頃から可愛がっていてくれていた。実の親より兄たちよりも、ローシャはアルベルトが好きだった。
「おはようございます、ローシャ様」
アルベルトは挨拶をするとまだ眠っているローシャを通り過ぎて部屋のカーテンを開けてまわった。ローシャはふとんに深く潜り込んだ。
「眩しい…アルベルト」
「もう起きる時間ですよ」
「まだ眠い…」
「さあ、起きて。ローシャ様の好きな紅茶を淹れました」
「甘いの?」
「もちろん。砂糖とミルクを贅沢に使っています」
「ふふふ、起きる」
布団から顔を出すと、アルベルトはローシャの背中に手を回した。ローシャは抱きかかえられるように身を起こした。手をとってベッドから降ろされテーブルへと誘導される。椅子を引かれるとローシャは流れるように座った。
テーブルには朝食のハムエッグとトーストが並べられていたが、ローシャは先に紅茶に口をつけた。
「甘い」
「甘すぎましたか?」
「ううん、このぐらいが好き」
「ローシャ様の好みは把握しておりますから」
アルベルトはやさしく微笑んだ。そんなアルベルトの笑顔はローシャの心をくすぐったくさせた。
こうやっていつもアルベルトが朝食を運んできてくれる。
「アルベルト。今日は時間ある?勉強を見てほしいんだ」
「申し訳ありません、ローシャ様。今日は用事が詰まっています。このあと私がこちらに来ることはありません。家庭教師を呼びつけておきます」
「やだ、アルベルトがいい」
「わたしもローシャ様のお側にいたのですが」
「じゃあ、いてよ」
「今日は無理なんです」
「いいよ、アルベルトが見てくれないなら勉強しない」
「ローシャ様…」
ローシャがそっぽを向くと、アルベルトは困った顔をした。ローシャはアルベルトを困らせたいわけではない。ただちょっと甘えているのだ。
アルベルトは屈んでローシャと目線を合わせた。シルクの手袋を外しローシャの頰を上から下に撫でた。その指の動きにローシャは緊張した。
「昼食は一緒に食べましょう。時間を作りますから、二人で食べましょう。それでいいでしょうか」
アルベルトの手はそのままローシャの頰を滑り、首に触れ、喉を撫でた。
「もちろん紅茶もご用意します。ローシャ様の好きな砂糖とミルク、多めでね」
そう言うとアルベルトの手は離れていった。ローシャは耳まで赤くなった。コクンと小さく頷いた。アルベルトが甘やかしてくれることが、家族の中で居場所のないローシャにとって存在理由を与えてくれる。
「アルベルト、仕事が忙しいのにいつも僕のことを考えてくれてありがとう」
「仕事は関係ありません。わたしがそうしたいんです」
「フフッ」とローシャは笑った。するとアルベルトの顔が近づいてきて、耳元で囁かれた。
「ローシャ様、今日はお部屋から出ないようにしてください」
耳に吐息があたり、ドキドキする。
「どうして」
「理由は後に説明いたします。今はただ私のお願いを聞いて欲しい」
「アルベルトのお願いなら僕はなんでも聞くよ。部屋から出なければいいんだね」
「そうです、お昼には私が来ますからそれまでは」
「わかった」
「ありがとうございます」
アルベルトは唇が耳に当たったような気がした瞬間、アルベルトは立ち上がりローシャから離れていった。
「さあ、ローシャさま。家庭教師を呼んできますから、支度してくださいね」
「うん」
アルベルトは去り際にローシャの髪を軽く撫でると部屋を出て行った。それと入れ替わりにメイドが入ってきて一礼をし特に会話もなく朝食を下げていった。
ローシャは勉強の準備を始めた。
ローシャが部屋から出てはいけないと言われるのは、これが初めてではなかった。来客がある時などそうだ。両親は出来損ないのローシャの存在を隠したがる。アルベルトはローシャが傷つかないようにいつも誤魔化しているが、さすがに何も察しないほどローシャはおめでたい性格ではなかった。だけどローシャは気づかないふりをする。知れば傷つくのは自分だ。だから深く考えなかった。
お昼になればアルベルトに会える。アルベルトがいるなら頑張れる。
カチカチカチカチ
時計の針の音がやけにうるさい。静かだ。
アルベルトは家庭教師を呼ぶと言っていたが、2時間経ったが、まだ現れていない。
「どうしたんだろう」
自習の集中力もつき、ローシャは本棚から小説をとった。もう何度読んだことか分からない小説だ。ペラペラと流し読んだ。
誰もこない。ローシャを気に掛けてくれる人間はこの屋敷にいない。そんな気持ちが芽生えて苦しくなった。
(はやくお昼にならないかな…。そうすればアルベルトに会える。一緒にお昼を食べるんだ)
ローシャにはアルベルトだけだ。
トントントン
慌ただしく扉をノックされ「失礼します」とメイドが飛び込んできた。
「ローシャ様!」
「どうしたの?」
「急いで避難してください。レバンを中心とした執事たちが謀反を起こしました」
「謀反?」
「この屋敷は乗っ取られたのです。領主様や奥様、お兄様がたは皆拘束されています」
「父様たちが?」
急に何を言っているのだろう。
信じられない。レバンとは執事長であり、長年このレイ家に仕えてくれている。父からの信頼も厚い。
「この謀反に関わっていない従業員たちは皆逃げ出しています。ローシャ様もお逃げください」
「待って、急に言われてもよくわからないよ」
「ローシャ様、落ちついて聞いてください。レバンは我々を裏切ったのです。レイ家の人間は処刑すると聞きました。ローシャ様の命があぶないんです」
「そ、そんな」
「ローシャ様、行きましょう」
「で、でも、アルベルトはどうしてるんだろう?僕、アルベルトが迎えに来るまで待つよ」
「アルベルトもこの謀反の共謀者です。ああもう、クズクズしていられない。わたしは先に逃げさせていただきます」
メイドはローシャの身の回りを世話をしていた者だ。最後の良心でローシャを迎えに来たのだが、切羽詰まった状況に耐えきれずローシャを残して逃げ出していった。
当のローシャは混乱していた。思考が追いつかない。
今なんと言った?メイドは今なんと言った?
アルベルトが裏切った?
ローシャは体の内側が冷えていくようだった。頭が上手く回らなくなり、体は動かない。呼吸だけがやけに荒くっていった。
ローシャはしばらく動けなかった。時間だけが過ぎる。状況が理解できない。あのメイドの言っていたことは本当なのか?
「…アルベルト」
アルベルトに会いたい。やさしい彼の声を聞いて安心したかった。
ローシャは立ち上がった。が、足にうまく力が入らず転んだ。立ち上がれない。
(落ち着け、落ち着け)
動揺する。ローシャは深く呼吸をして、足に力をいれて立ち上がった。倒れそうな震えた足で歩き、震えた手をドアノブにかける。
『今日はお部屋から出ないようにしてください』
アルベルトにそう言われたことを思い出す。
よくあることだ、いつものことだ。そうだ、客が来ているのだ。ローシャがいれば両親の都合が悪いのだ。それだけのことだ。謀反など恐ろしいことは起きていない。
ドアノブを引くと、ローシャは廊下に出た。静かだ。ローシャの部屋は離れにあり、家族の暮らす本館には距離があった。誰もいない広い廊下を歩いた。ローシャの足音だけがやけに響いた。
ローシャは大広間を目指した。そこがこの家の生活の中心であり、誰かしらいると思った。誰でもいい、怒られてもいい、あのメイドが言ったことは彼女の勘違いだと証明して欲しかった。
大広間までの道のりで誰にも出会わなかった。誰もいなかった。人の気配がなかった。それがローシャの不安を大きくさせた。
大広間の扉の前まで来ると、中から人気配がした。ローシャは安堵感した。しかし扉を開こうと近づくと、部屋の中から言い争う声が聞こえた。内容はよく聞き取れない。良くない空気を感じローシャは身を硬くした。緊張から汗が出て来る。扉を開ける勇気が出ない。
「誰だ!?」
何者かに後ろから羽交い締めにされ口を抑えられた。急なことでローシャはパニックになった。声を出すことも抵抗することもできない。
「ローシャ・レイ、か」
拘束は解かれないまま男は呟いた。
「何事だ?」
大広間の扉が開き中からスーツの男が顔を出す。
「ローシャ・レイを捕獲した」
「ローシャ・レイ?しかし今回の計画では…」
「一人でここまで来てしまっていたんだ。このまま返すわけにはいかないだろう」
「そうだな、アルベルトに指示を仰ぐか」
アルベルト、その言葉を聞きローシャは安心と不安を覚えた。アルベルトに会えるのだろうか。ローシャは男たちに連れられるままに大広間の中に入った。扉の閉まる音は重かった。
大広間にはスーツの男たち数十人おり、拳銃を携帯していた。どの顔も見覚えがあった。皆、レイ家の執事として働いていた者たちだ。場の空気は張り詰めピリピリしている。
広間の中心でさらに異質な光景が目に入った。
拳銃を向けられている中心には、手足を拘束され跪かされてる人物が5人いた。ローシャの父、母、兄たちだ。ローシャは目を見開いた。
「父様!母様!」
ローシャは駆け寄ろうとしたが、スーツの男に腕を背中に回され掴まれており、それは無駄な抵抗に終わった。
家族はローシャの方を見たが「動くな」と拳銃を突きつけられ、ローシャの名を口にすることはなかった。
「ローシャ・レイ、か。さっさと逃げればよかったものを、わざわざ来たか」
レバンがローシャに近づいて来た。レバンは執事長だった男だ。今回の謀反の首謀者だと聞いている。いつもは長い黒髪は結っていたが、今はオールバックで固めており、雰囲気が違う。
「レバン、どういうこと?父様たちをどうするつもり?」
「この状況でまだ何も分からないのか?だからレイ家の爪弾き者なのだお前は」
「っ…」
レバンとはそんなに話したことはないが、執事らしい紳士的な男だった。こんなキツい口調で傷つく言葉をいう人物ではない。
突き放して来るレバンも拘束されている家族も、ローシャには今の現実が受け入れられなかった。
「お願い、父様たちを助けて、ねえ、お願い!」
ローシャは涙をこぼし、震える声を必死に出して懇願した。レバンは顔色一つ変えず、しかし面倒くさそうな声色で言った。
「今日という日は、何年もかけて計画されたものだ。執事という道化を演じながらレイ家の滅亡とその権力を狙っていた。それを邪魔されるわけにはいかない。どんな些細なことでもだ。ローシャ、お前とてレイ家の血を引く者。俺にとっては邪魔でしかない」
「えっ…」
レバンはふところから拳銃をとりだし、ローシャに向けた。
「やだ…怖い…やめて…やめて」
ローシャは首を振って抵抗したが、ガッチリ抑え付けられて逃げ出せない。
「政治的権力をもたないお前は交渉材料にもならない。生かしておく意味はない」
「やだあ…やだあ…ごめんなさい、ごめんなさい。許して…許して」
ローシャは泣いた。わんわん泣いたがレバンは構えた銃口を下ろすことはなかった。ローシャは怖くて怖くて堪らなかった。
「レバン、約束が違いますよ」
聞き慣れた声が聞こえ、ローシャは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
アルベルトだ。
いつもの優しい笑みを浮かべていた。それはこの場にとても不釣り合いだった。
ともだちにシェアしよう!