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番外編 ヒート休暇のお店番2
香ばしい焼きたての小麦の匂いが漂う店内。
沢山のつやつやしたパンが並んだショーケースの後ろに、ランは少し緊張した面持ちで立っていた。
実家の香水店以外では働いたこともないし、家族やソフィアリたち以外の中に一人で入り込むことも初めてだったからだ。
「あたしがずっと傍に居るんだから緊張するこたあないよ」
ミリヤ婆さまは小さな身体だか声は大きくてとにかく元気がいい。しかしこのところ膝の調子が悪くて、小さな木の椅子に腰掛けながらランの仕事ぶりを隣で監督してくれることになった。
幼い頃からここのパンを食べて育ち、婆さまが大好きなランはその言葉が心強くて嬉しくて、こくこく頷いてにっこりした。
ケース越しにお客さんの選んだパンを紙袋に入れて、お会計して渡す。それだけといえばそれだけなのだが、日頃はゆったりとしたペースで接客するためついていけるか心配で、昨日は珍しく夜すぐに眠れなかった。
しかしそんな様子を同じ床につく兄に知れると手伝いに行くことを反対されそうなので昨晩ランは静かに寝たふりをしたのだった。
だがそれは杞憂に終わっていた。
兄はここ2日急に父が昔使っていた農園の中にある古い工房に香水作りのため籠もるようになっていたからだ。
以前から父と兄は店を母や農園の誰かに任せ、自分たちは工房に日中香水作りに没頭することもあった。父が兄を伴い中央や果ては外国にまで二人で商談に出かけることもある。
兄は元々小さな頃から父からΩの香水に限らず父の仕事のノウハウをみっちり教わってきていたし、農園で働く人々との仲介役もここ数年父から引き継ぎ兄の仕事になっている。
それでも香水作りは今でも父が主軸になっていたし、兄だけで工房に籠もることは稀だった。
兄が遅くまで作業をすることもなかったのだ。いつもランが眠る時間には二人の部屋に戻り、ともにおやすみなさいとキスをして暖かで硬く筋張った男らしい腕に抱きしめられながら眠りについていた。
しかしこのところランは兄を待っている間にいつの間にか寝てしまって、兄がいつ帰って来たのかわからない。
いつも兄が眠っているあたりのシーツを触ると冷たくて何故か胸がきゅっと締め付けられる心地がした。
兄はランがまだ寝ぼけ眼で朝食を取る頃にはすでに身支度を整え、日頃は家族団欒に使う祖母の色とりどりの花の絵がたくさん飾られた居間で、父と何やら仕事の相談をしているようだった。
工房にいる時のラフな格好とは違う商談用の中央で仕立てたチャコールのスーツを着た兄はランには見せない険しげな表情で父と話している。端正な顔に翳りが見えて、見知らぬ大人の男の色気をランに垣間見させた。
ランは朝日の中向かい合うよく似た一対の父と兄の様子に、なにか寂しさと疎外感を感じてしまっていた。
しかしパン屋での仕事をするにあたり気持ちを切り替えて、ランはランで初めての仕事に一生懸命取り組んでみようと話が来たとき最初に感じたワクワク感を思い出して浸り切ることにした。
ランにとってこれは初めての挑戦なのだ。外で吸収してきた経験を活かして、少しでも兄や父の役に立ちたい。
たまたま養子にはしてもらえたが、ランは基本的に農園で育った他の子どもたちとなんの違いもないと自分では思っている。
いつか兄が家族を設けたらあの家を出ていかなければならない日が来るかもしれない。
でも本当はランはずっと今の家族の傍にいたいと願っているのだ。図々しいかもしれないけれど。この世で一番ランを守り育ててくれた両親と兄の傍にいたいのだ。そのためには少しでも……
(皆の役に立ちたい。役に立たなきゃ……)
ランの切なく小さな決意は、胸の中にしまわれたままだ。
パン屋の朝は早い。香水店が店を開けるのよりニ刻は早いし昼には客足のピークになる。
ランはミリヤ婆さまが一人で店を回せるようになる昼下がりまで店を二日間だけ手伝うことになった。その翌日からはお祭り当日の特別営業になるから、街の保育所で働くミリヤの娘さんでリアムの母が手伝いに戻ってこれるのだ。
開店と同時に見知った顔の多いお客さんがやってきた。今は祭りの時期しか売らないパンも扱っているためか、常連以外の観光客もちらほら姿が見えて朝から中々の盛況ぶりだ。香水店よりも当然回転率もよく、金銭の受け渡しも細かいのでランはとても気を使った。
隣で婆さんがどのパンが幾らかの指示を出すと、ランは得意の暗算を駆使して合計を出す。日頃はおっとりした子のテキパキとした仕事ぶりにミリヤは満足げだ。
そんなランの様子を厨房で働いていたリアムはこっそり伺いにやってきていた。実は朝からちょくちょく見に来ている。
普段は姉がどんっと構えて立っているよく磨かれ硝子のはめ込まれたショーケースの前に、ほっそりとした小さな後ろ姿がみえる。ダークブロンド髪が首元まで覆った後ろ姿。高いがきんきんしていない丸みのある声で一生懸命接客している。
そんなランの姿を見てリアムも思わず笑みがこぼれてしまう。
リアムはランより2歳年上だ。
初めて母親に連れられ自分の家の店にランが来て、初めて出会った日の事をリアムは今でもよく覚えている。腕利きの職人が魂を注ぎ込み、丹精込めて愛らしく美しく作り上げられた大切なお人形のようだと思った。
この土地の子供は日に焼けた艶々した照りのある肌のものが多くて瞳も髪もどちらかといえば暗めのものが多い。
もちろんランの兄メテオのような髪は灰茶色、目は琥珀のものもいるがそういうものは大体親かそのまた親かは別の土地にいたものが多い。
ランはアスターの家の養子でそもそもこの土地のものではないらしい。だからか独特の美しい色合いを帯びている。シミ一つない真っ白な肌はミルクのようにも砂糖菓子のようにも見えて目に甘く、燐光が瞬く瞳はなにかの熟れた果実のように瑞々しく潤んでいる。薔薇色に染まる頬に儚いほど華奢な身体。
童話にでてくるお姫様はこんな容姿をしているのではないかと夢見たくなる、そんなふわふわのした魅力のある少年だ。しかも性格も人懐っこく、穏やかで優しくて商店街の者たちに愛されている。
しかしそのお姫様には絶えず護衛の騎士である兄がいてリアムたちような近所の悪ガキはとにかく近寄らせてもらえなかったし、今も同年代で交流したくとも上手く誘いが伝わらない。
リアムは特に最初に遊んだときにランにちょっかいを出して泣かせてしまったので他のものよりもさらにメテオに目の敵にされている。
しかしそれはもう7年も前の話だ。リアムとしては今でもランと親しくなりたくて、新作のパンが出るたびに届けたり、花を買っては届けたり、手紙を書いては届けたり……。していたのだがどういうわけか、毎回本人に渡せず兄の方に渡す羽目になる……
ハレへの街は今は海の女神まつり一色だ。
海の女神まつりは、元々あった夏に女神に感謝を捧げる海の女神信仰と街の小さな夏の祭りを領主のソフィアリが掛け合わせて観光の目玉にするために作り出したもので今年で四年目となる。
夏の1週間、商店を青や海の貝殻、ガラスなど女神を連想させる色合いで飾り付け、海の女神を模した像を町内ごとに花々で飾り立ててその美を競う。
最終日の夜は昨年から中央で人気の花火職人を招いて花火が打ち上げることになっている。上がっている時間はまだまだ短いが新しい名物に街の住民も沸いている。
これを観光客は海辺の桟敷席から眺めるらしいが、地元っ子は去年海を見渡せる丘の上から皆で集まって見ていた。うまい具合に意中の相手を呼び出せたものは愛の告白をしたらしくそこで誕生したカップルが幾人も今年に入って結婚している。
リアムはそれにランを誘いたくて手紙を書いたのだが……
今回の手紙もなんとなくランに渡っていない気がするのだ。多分ランの兄の仕業かと思う。商店街の大人たちはメテオのランへの執着をよく知っているのでランにちょっかいを出すのはやめておけといわれるが、年若いリアムはそんなことは知ったことではないと思う。
そもそも家族といてばかりで同じ年頃の仲間たちと遊ぶことすらできないなんて、ランが可哀想だとリアムはそう思っていた。
それを今日こそランに直接話をするのだ。
ふと会計の列に目をやるとよく見たら、商店街の悪ガキ仲間であるトビアスが会計の列の2つ後ろに並んでいるのが見えた。
目があうとバツの悪そうな顔をしてなにやら包み紙を背中に隠す。トビアスの家は菓子なども扱う食品店。その後ろには、食堂を手伝うビート。そして花屋のダイ。みな日頃からリアムとつるんでいるやつばかりで、ランとは一番年の近いものたちだ。
しかも奴ら、普段は厨房側の勝手口から買いに来るくせに今日はなぜだか並んでいるのだ。
怪しい絶対に怪しい。
そのままパンの補充棚の間でランの後ろから見ていたら、トビアスが代金を支払いついでにランになにかを渡しているのが見えた。
「ラン、あのさ。祭りの最終日はみんなで丘で花火を見るんだけど、よかったら俺と……」
「ちょっと待った!」
「ひゃい?!」
補充棚が揺れ、パンが危うく落ちそうな勢いで影から現れたリアムにトビアスがびっくりして間抜けな声を上げた。それどころか列に割り込みながら残りの二人も前に出てきた。
「トビアス! 抜け駆けするな」
リアムの言葉にトビアスは心外だと鳶色の目を丸くする。
「お前こそランに店を手伝わせて! 抜け駆けだろ!」
「店の手伝いは親父たちが決めたことだ! 俺が決めたことじゃない」
店先でぎゃあぎゃあ争い始めた悪ガキ共をどこかそんな声が出るのかという迫力の声でミリヤが一喝する。
「やかましい! ランを誘いたいなら昼を過ぎてからまたやってこい!」
「それじゃあメテオ兄が迎えに来るかもしれないだろう! 今言わせてくれ! ラン! 祭りの花火を見に行こう!」
「花火に行こうラン! この花を受け取ってくれ」
「うちは食堂のお客さん用に桟敷席とったぞ!見やすいよ」
「クソ、俺が最初に誘う予定だったのに!」
ランは矢継ぎ早の誘いに驚いて大きな目をまん丸に見開くとパンのトングをゆっくりとトング掛けに返した。
後ろに並ぶ商店街の顔見知り客たちは固唾をのんで行方をみまもる。
ランはショーケースの向こう側から皆の様子を見て、嬉しさが伝わるような、明るい笑顔を弾けさせた。
「ありがとう! みんなで花火を見るんだね!楽しみ。僕去年花火は農園にいてあまり見られなかったからすごく嬉しい」
一瞬周囲に沈黙が流れた。
……皆で行くような誘い文句だったか?
四人は顔を見合わせ、列に並んだ街の人々が、次第にくすくす笑い声をたてはじめる。
一斉に誘ったせいで皆で行く体になってしまったようだ。しかし兄の目を盗んでランを誘い出せただけでも良くやったものだ。
しかし、次の言葉に皆詰めが甘かったと凍りつく。
「僕も兄さん誘ってもいい?」
悪ガキ四人組が一斉に弁明をはじめたが、今度こそミリヤに、尻を叩かれた。
「こら、リアム。話はついたな。早く戻れ! ランくん、ほらまたお客さん順番にお願いね」
呆然とする青年たちを一人ひとり散らすようにミリヤは彼らの背中を順番に張り倒していった。
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