「別れて欲しい」 　それは突然のしらせだった。 　耳元で聞こえるその声は凛として低く、囁くには蕩けるようにあまく、残酷さだけを極める。そして、きっぱりと別れというものを告げていた。 　それでも、三年も付き合った年上の恋人、菫　蒼(すみれ　あおい)の言葉とは考えたくない。 「おれ、なにかしたかな……？」 　途切れそうな弱々しい声がでる。わざとではない。なにかの間違いかもしれないと思ったからだ。 　蒼は外科医だ。多忙なスケジュールの合間を縫って連絡をしてくれ、その日も同じようにかかってくる電話を取った、はずだった。夕食は必要なのか、トマトを抜いた方がいいのか、そんなことを悠長に考えているうちに、開口一番、突拍子のない台詞(せりふ)を浴びてしまった。 「ほかに好きな人ができたんだ。……ごめん、皐月(さつき)。きみのことはとっても好きだった。だから、別れてくれ」 「ほかにすきなひと？」 「うん」 「そう、なんだ」 「ごめん」 　言葉がでない。 　……ごめん、ってなんだ。好きだから別れろっていうことか。なら、謝るなよ。 　半分なにを言われているのか、頭にはいらない。ほぼ聞き流している。皐月、そうだ。自分は倉本　皐月(くらもと　さつき)。しがない小説家だ。先ほどまで締め切りに追われて、推敲を重ねながら、この寂れた喫茶で伝票を増やし、店員の毛虫のような眉を顰めてしまっていた。 　問わず語りに話す二度の謝罪に、はっきりとした意志を感じた。すでに好きな人がいる。許せなくとも、イエスというカードしか選べない。よく冷えて汗をかいたアイスコーヒーのグラスが視界に入り、端末をもつ手がわずかに震えた。 「……つき合うの？」 「そうなるかもしれないし、わからない」 　普段と変わらない物静かで柔らかな声。それは湖畔にさざ波が立つようだった。残酷だな、と思った。 　すれ違いはなかった。はず。付き合って三年が経ち、さらに運がいいのか、わるいのか、いまは一緒に暮らして寝食を共にしている。 　蒼も手術が立て込み忙しそうだったが、数時間前には枕を並べて寝ている額へキスを落として部屋を出てきた。 　身体の繋がりはご無沙汰だが、生活はおおむね順調に流れていたと思い込んでいた。まさか恋人の変化にすこしも気づかないなんて、なんたる失態。 　なにもかも上手くいっていると、ついさっきまで思い描いていた己の鈍感さに呆れた。 「そう、わかったよ。別れる。いままでありがとう」 「君は、物分かりがよすぎるよね。それでいいの？」 　自分から別れようと口にして、よくもまあ、そんなセリフを口にするものだと苛立ちの波が襲ってくる。こっちは感謝まで述べているのだ。抑えていた怒りの堰が切れそうになった。店のクーラーがガンガンとついているのに、自分だけがふつふつと茹だるように熱い。 「どうしようもないよ。好きな人がいるんだろ？　俺はすがらない」 　例えそうしたとしても、好きな奴がいると言われたら労力を無駄にするだけだ。結果はみえている。 「……そうだね、きみはそんなことはしない。そうやって、ずっと恋愛を終わらせたつもりだろうけど、きみのなかでまだ終わらせてないんだ。……結局、僕がきみにずっと縋っていただけなんだから」 　怒りが膨らんで、殺意に転化しそうだった。 少し前まで、『愛している』と何度も真っ赤になる自分に笑いながら耳元で囁いていたのが瞼に浮かんだ。 　いつしか、蒼の声はこの喫茶店のクーラーより冷たく感じ、鋭い棘となって攻撃をしてくるようだった。 　そして、遠回しに過去の恋人のことを言われ、自分ではどうしようもできない苛立ちが魔女の鍋のようにぐつぐつと煮えかえった。いや、あいつとはもう終わってる。 　終えられたはずだ。 　結局、蒼は自分と積み重ねた三年もの砂の城を手を払うように簡単に崩したのだ。おはようのキスもただいまの口づけも、すべてが嘘のように幻だったと思えばいい。 　アホみたいに感傷に浸るわけもいかず、イライラとした気持ちを胸の底へ押し込んだ。 「もう、用件はないんだ。切るよ。さようなら」 　そう言って電話を切り、電源を落とした。建前は格好よく言えたかもしれない。なんとも無愛想な別れだ。 　それも絞る声を押し出しただけの別れ。大変に格好悪い。振られたのは自分だ。蒼は最後まで勝手なわけだ。 　前回の失恋の痛手からもう恋愛はしないと深く誓って遠く離れた札幌まで逃げたのに、たまたま学会の出張先で出会った蒼に猛烈なアタックで、引き摺りながらも付き合い、東京に戻ってきた。 　浮気もせず、毎日甘い言葉を囁かれた。信用もしていた。ずっと側にいると首筋にキスを何度も落とした。 　いや、思い出しても虚しくなるだけだ。ほだされた自分が一番わるい。 　蒼の深い愛はもう次へと移り変わっている。自分の元へはもう戻ってこない。記憶はまた誰かに植えつけられる。考えるのはやめよう。 　持っていた携帯をポケットにいれて、ノートパソコンを閉じて元来たマンションに足を向けた。 　こういうのは早いほうがいい。荷物は少ない。本と服しかないダンボールを友人の弘前というやつにでも送ろう。寝る場所はどこか漫画喫茶でもみつければ、どこでもよい。 　その日のうちに少ない荷物を部屋から持ち出してトラックに運んだ。代わりに合鍵をひとつ残して、蜜月とも思われた俺の三年間は終わった。 　もちろん、携帯端末は解約した。接点は元々ない。これ見よがしに蒼との繋がりを全て断ち切った。そうしないと、また前のように引きずりそうだったから。 　そもそも、こんな別れ方をしたのは二度目なのだ。はじめてではない。なんとも学びようがない自分に吐き気がしてしまう。少しは疑心暗鬼になれといいたい。自分にとって不釣り合いな恋愛は、もう二度としないと心に誓ったのにすぐにぶち壊してしまった。