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第2話 完璧な恋人と友人

 蒼のマンションから、荷物をまとめて逃げるように出てきた。新しい新居は古めかしい、築年数を重ねた中古の一軒家にした。一階は寝室と居間があり、二階は物置だ。どうして一軒家にしたのか? それは古いがこじんまりとした庭もあり、そこが決めてだった。ほとんど一日家にこもって作業する自分には丁度よいともいえる安穏の地に思えてしょうがなかった。  都内の喧騒から離れた、街路樹が並ぶ閑静な住宅街の外れはぼろぼろにすれた自分にあっていた。  住んでいた都内有数のタワマンから、意地となけなしのプライドで真逆の物件を探しだし、破格の値段。われながら、いい買い物をしたと思っている。  ちなみに、柱にくすんだシミがついているが、事故物件ではないことは確かだ。取り壊ししようにも更地にすると固定資産税がかかるため、家主はそのまま建物を残していたらしい。  庭先の風鈴がふわりとゆれ、風が頬をくすぐる。なんとも心地よいが、心は深い悲しみに沈んだままなのはかわらない。  あれから、二週間がたつ。蒼からの連絡は一件もない。  臙脂色(えんじいろ)の座布団に腰掛けながら、庭先へぼんやりと視線を泳がせた。  瞼のうらには、いつも蒼が浮かんでしまう。この未練たらしい自分に情けなくため息が洩れた。それは一瞬ではなく、だらだらと雨水が排水管からもれた感じに似ている。  ……まだ、すきだ。でも、好きなヤツって、なんだ。いつだ。いつなんだ……。いつ会ってたんだよ。  握りしめるこぶしが、また未練たらしい。  菫 蒼(すみれ あおい)とは三年ほどつき合ってた。スペイン系の血が入ってるのか肌は母親ゆずりの褐色肌で、すこし長く艶のある黒髪は後ろにまとめて結えている。その方が手術の際、楽だとほっとするような笑みをもらして話していた。  甘いマスクの上に、海外育ちのせいか砂糖を溶かしたような言葉をいつも耳もとで囁いてくる。  どんなに小さなことでも褒めて、口説いてくる。そんな男だった。  どこにいても、なにをしても困らない。穏やかな性格なうえに、美形。つまり、完全無欠の外科医だ。  対して、自分は自由業のミステリー作家。個人事業主。  両親は大学のときに交通事故にて他界。家族もおらず、天涯孤独。そして、収入は毛虫がうねうねと這うような、その日暮らしという気ままな生活を送っている。  性格も容姿も、可もなく不可もなくふつう。  笑えるほどの格差だ。  どうしてつき合えたのか、思い返すほど自分でも不思議に感じる。  いや、そもそもつき合えただけでも奇跡だと思わないといけない。枕を共にしても、つねにオンコールで呼ばれ、キス一つできれば満足な関係。休日にどこか食事したり、旅行も遠方へ足を運んで楽しんだ。恋人らしいことはたくさん重ねたし、悔いはない。  自分にとって、もったいない相手だった、ということなんだろう。恐らく新しい恋人へも顔を崩して、唇と唇を触れ合わせ、その相手をすぐにメロメロにしてしまうに違いない。  自分じゃ、ダメだった。  一緒にいて、好きな人ができるくらい。  もう他人を好きにならない。  なりたくもないな。  三年前はもっと好きだった奴から逃げるように荷物をまとめ、そして懲りもせず、次は愛していると口にしていた男から出て行って欲しいと言われる。荷物の紐を二度も結んだ理不尽さと学びのなさに笑いそうになってしまう。  やっと乗り越えられたってのも勘違か……。 完璧な恋人を恨もうとするが、火の打ちどころはなく、ただ単に魅力がない自分を責めるしかない。  うじうじ考えながらも、姿勢を正すと目の前に広がる真っ白な画面で現実へ戻る。溜息が咽喉のおくから深々とでてしまう。  すると横で新しい携帯がぶるぶると震えた。 「もしもし……」 「久しぶり! 新しい家どう? いま飲んでるんだけど、よかったら来ない?」  ガヤガヤとした居酒屋の、グラスがぶつかる雑音が端末の奥でさんざめく。電話の主は、友人の弘前 満(ひろさき みつる)だった。 「うーん、仕事もあるからな、また……」  ためらいがちに口をつぐんでいると、ふふふと気持ち悪い声が鼓膜に響いた。 「荷物、届いた?大変だったんだよーー。段ボール三つだけど送ったと思ったら、また送らなければならないしね。いや〜、僕も忙しいなか頑張ったんだよ?」  恩着せがましく口にされると自分は弱い。  弘前はミステリー作家で、共同インタビューで知り合った。向こうは横浜で知人とシェアして住んでいて、つまり暇人なのは変わらない。 「わかったよ! どこいけばいい?」 「よしよし、とりあえず都内かな。詳しい場所は連絡するから、待ってるよ」  ずいぶんとご機嫌だなと思いながらも、パソコンを閉じた。なにも進捗はない。塞ぎ込む気持ちも弘前の馬鹿話でもつまみにして、少しは解消しよう、なんとなしにそう思っていた。

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