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第5話
ふにっと、やわく温かな感触が唇に触れて、ラウは半分閉じていた目蓋を上げた。
間近に透き通る翠色を見て、それが満面の笑みを浮かべる。
「ラウ、おはようございます!」
快活な声が起き抜けの耳を刺激する。
ラウはゆっくりとした瞬きを何度か繰り返し、エリファレットのけぶる銀の髪を片手で押し除けた。
「……近い……煩い……」
ボゾボソと口が動いて文句が落ちて、動きが止まる。
ラウは朝に弱い。目覚めてから完全に覚醒するまでに時間がかかり、毎朝ベッドの上で身を起こしたまま微動だにしない。脳に血流が正常に流れるまで、動きが緩慢なのだ。
ここ数日でしっかりとそれを理解したエリファレットは、ベッドに乗り上げたままの姿勢でラウの覚醒を待つ。
ぼんやりとした青い瞳が、ゆっくりと冷たい水底を思わせるように冴えていく。
確かめるように何度か瞬きを繰り返し、ラウはようやくエリファレットをきちんと視界に入れた。
(……あぁ、中和か……)
先程唇に触れたやわく温かなものが、目の前にあるエリファレットの唇だと、ようやく思考が追いつく。
毒を中和させると宣言した通り、エリファレットは日に何回かラウにキスをする。朝起き抜けに唇を盗まれるのはすでに習慣化しているようで、ラウを見上げて挨拶を待つのも毎朝のことだった。銀の被毛に覆われた耳が元気よく立って、スサスサと揺れる銀の毛束が肩越しに見える。
(相変わらず、グラスに口を付けるような気軽さだな)
今更生娘のように騒いだり頬を赤らめたりする可愛らしさはラウにないが、エリファレットの躊躇いのなさはいっそ清々しいほどだ。それ以外に目的を持たないからだろうが、時折悪戯心が疼く。思い知らせてやりたいと思うのは、恩を返される身の思考としては些か危ういだろうか。
「おはよう」
内心おくびにも出さずに挨拶を返すと、エリファレットは満足げに笑ってするりとベッドを降りる。
「朝ご飯出来てますよ。顔洗ってください」
傍からみれば、ひどく誤解を受けそうなやり取りだった。ラウはカリカリと頭を掻いて、ご機嫌に揺れている銀の尻尾を見送る。
楽にしていいと言った日から、エリファレットはよく耳も尻尾も出したままにしているようになった。寝る時などは、狼の姿で丸まって寝る。銀の塊が気持ち良さそうに眠る姿は、なかなかに眼福ではある。
着替えて顔を洗い、朝食を取る。家にいてまともに生活出来ていることは、ラウにとっては奇跡のようだった。
「ラウ、今日は買い物に行きたいんですが……」
食後のお茶を片手に新聞を読んでいたラウに、エリファレットが遠慮がちに声をかける。
エリファレットがラウの家に滞在するようになって早数日。何もないと呆れられ、一緒に買い物に行って以降出かけていない。あの時それなりに買い込んだように思ったが、食べ物はそれほど買われなかったことをラウは知らない。家事全般に必要不可欠なものを揃えるのが先だったのだ。それだけ家に何もなかったのだ。
ラウは新聞をたたみ、カップの中身を一口啜った。
「出かけるか」
食べるものがないのは由々しき事態だ。
提案に、エリファレットの銀の耳がピクリと動く。
「はい!」
ふぁっさと揺れる銀の毛束と一緒になっての良い返事に、ラウはカップの影からこっそり笑う。
ピンと立った耳と、ふぁさふぁさ揺れる毛束が分かりやすい。
「ラウは何が食べたいですか?」
朝食を食べたばかりの相手に向かってエリファレットが弾んだ声をかけるが、返すラウの言葉は素っ気ない。
「何でもいい」
途端しゅんと耳が銀の髪の中に紛れて、ゆっくり揺れていた銀の毛束がはたりと止まる。
「お前の作ったものはなんでも美味い。俺じゃなくて、お前がどこに行きたいか、だ」
ラウは食に対してこだわりがあまりない。強いて言うならば、酒に合う美味いアテがあればいい。ラウの希望より、エリファレットが何を作りたいのか。もしくは、何を食べたいのか、を主に置いた方が建設的だ。
自身の希望を聞かれて驚いたエリファレットが、ぱっと顔を輝かせる。
「じゃぁ、肉屋に行きたいです」
はりきって答えたエリファレットを見て、ラウは一つ頷いた。
「あぁ……生肉……」
察した、と言うラウに、エリファレットがばっと毛を逆立てた。
「違いますよ!? 僕は生肉は食べないですよ!」
全力で否定するエリファレットに、ラウは首を傾げる。
「狼だろう?」
むしろ生肉を食べて然るべきではないのか。
ラウの頭の中に、獣が小動物の肉に食らい付く姿が克明に浮かぶ。柔らかい腹から裂いて内臓を引き摺り出し、美しい銀の被毛を真っ赤な血で染めるのだ。
想像に、エリファレットが飛び上がる。
「僕ら銀の狼族は、天に仕える聖獣を祖としてるんですよ! 生肉なんて食べるわけないじゃないですか!」
誤解甚だしく心外です、とエリファレットが口を尖らせ全力で首を振る。
ラウはエリファレットの必死の弁明ぶりを笑い、口元をうっすらと吊り上げる。細められた深い青の瞳が、悪戯に緩む。
「そのわりには、肉屋で必死で見ていたな」
一度買い物に出た時、肉屋の前でエリファレットは食い入るように生肉を見ていた。
笑みを含んで揶揄いまじりに言えば、エリファレットの少年らしい丸い頬がさっと赤くなった。
「あ、れは……! と、ても……いい、お肉だった、ので……」
生唾を呑んだ覚えはないが、そう見られてもおかしくないほど真剣に見ていた記憶はある。だからこそ、今日は肉屋に行きたいと思っているのだ。
言葉に詰まってさらに顔を赤くするエリファレットに、ラウはこれ以上は可哀想かと頭を撫でた。
銀の髪は、狼の毛の時とは触り心地が違う。硬めの被毛とは違い、髪はさらさらと柔らかく手に馴染む。
「わかった。肉屋に行こう。他には?」
尋ねると、エリファレットは撫でられたまま行き場所を探し始める。
耳と尻尾が出ているせいばかりではなく、この子どもはひどく感情豊かだ。くるくると表情を変え、それだけでラウの目を楽しませる。今も目の前で真剣に行き先を考える姿は、愛らしくもある。銀の髪からピンと立つ同じ色の耳が、上下に動く様は愛嬌があった。
その立ち耳が、ピクっと何かを捉えてピンと立ち上がった。顔を上げたエリファレットの透き通る翠の瞳が、玄関へ向けられる。
「誰か来ます」
呟きは独り言のようで、エリファレットはそのまま玄関まで走り出した。
「っ……!? エリファ、待て!!」
瞬発力はさすがと言うべきか、ラウの制止はエリファレットの耳に届くことはなかった。
色をなしたラウが後を追って視界に入れたのは、呼び鈴と同時に扉が開かれるところだった。
その人は迎え入れたエリファレットを見ると、大きな菫色の瞳はぱちりと瞬きさせた。
小柄で華奢な、少女のような容貌の女性だった。ふんわりとした雰囲気と上品な佇まい。その奥に隠れるように紛れる妖艶な色香が、彼女を大人の女性と知らしめす。
彼女が小さく赤い唇に白い繊手をあて、あら、と笑った。
「ラウ、いつの間にこんな大きな子どもを作ったんです?」
可憐な鈴の声が、走って追いついたラウに向けられる。
ラウは深い青の瞳をむっとさせ、エリファレットの肩を抱いて後ろに下がらせる。
「俺の子どもなわけないだろう。俺が一桁の時の子どもになるぞ。犯罪じゃないか」
揶揄うのはよせ、と嗜めるも、彼女は花の顔に笑みを浮かべたまま動じない。
「そうですね。でも恋人と言っても犯罪ですよ、ラウ」
逆に嗜められる口調に、ラウの柳眉が寄る。
それはならないだろう、と口を開きかけ、問答の主旨が違うと再び口を閉じる。
むっと口を閉じたラウを見て、女性は吐息のように笑う。
「冗談ですよ」
笑いながら、つぃっと菫色の瞳がエリファレットに向けられる。
エリファレットがピリっと緊張して、耳が立ち銀の毛束が伸びる。
はっとしたラウがエリファレットを見て、顔色を変えて女性を見る。
「貴方のところに銀狼がいるという噂は事実でしたね」
にっこりと可憐に笑った女性に、自分の姿を忘れていたエリファレットが飛び上がり、ラウは諦めて天を仰いだ。
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