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第23話
アルベルティーナの言葉に、ラウは柳眉を険しくさせた。
ラウはエリファレットを連れている理由を、氷雪の魔物に負わされた傷の中和のためとしか説明していない。エリファレットが殺してくれと頼んでいることは、ラウしか知らないことだ。それなのに何故、殺しておけ、と言う言葉を聞かされるのか。それも早急に殺せと言うのは、一体どう言う意味なのか。
剣呑な目付きになったからだろう。アルベルティーナの瞳が怯んだように揺らめいた。だが、彼女がラウから視線を逸らすことはなかった。
憂いを帯びた美しく儚い瞳が、それでも言葉を紡ぐ。
「酷なようじゃが、あれはすでに危うい。殺しておくべきじゃ」
殃禍を生まぬうちに、と内々で呟かれた言葉はラウに届くことはなく、訝しげに顔が顰められる。
「お前もエリファも、何故口を揃えて俺に殺せと言うんだ?」
エリファレット自身に事情があるのは理解しているもりだ。だがアルベルティーナまでもが殺せと言のは何故なのか。
鋭くなった口調に、アルベルティーナが瞠目した。
「そうか……エリファはわかっておって……そのつもりでラウに近付いたのだな……」
得心がいったと頷いたアルベルティーナの呟きは、少なからずラウの心を抉った。詰問しようとした口が、ぐっと押し黙る。
その通りだ。恩返しと言いながらも、エリファレットの背景には、殺してくれることを見越したものが存在している。例えお願いであって義務がなくとも、貸し借りが一切なくなっていたとしても、ラウには毒を中和してもらったと言う明確な行為の後が残っている。助けようと思ったわけではなく、ついでに助かってしまったエリファレットとは恩義の大きさが違う。エリファレットがラウに返してくれたものは、大きく余りある。
エリファレットがそれを盾に取ることがなくとも、恩義の格差を感じるラウは、請われれば一蹴しにくい。
わかっているつもりでいたが、他人からはっきりと告げられると心を抉るものがある。
ラウはもう、エリファレットを殺せない。その自覚が、ラウにはある。
それほどに、ラウの中であの子狼の存在は大きい。
押し黙ったラウに気付かないように、思案するアルベルティーナが可憐な口を開く。
「賢明な判断のようでいて、かえって裏目に出たか……」
エリファレットが恩返しなどに来なければ、あるいはラウが即座に首を刎ねていれば、事は深刻にならずに済んだだろう。冒険者が狼の首を刎ねた、だけで済んだのだ。だがラウと一緒にいることによって、因果律が生まれてしまった。
「どう言う意味だ? 回りくどい言い方はやめろ、ティナ」
含蓄あるというより勿体ぶる言い回しに、気が急いたラウの口調が鋭くなる。
精霊族は物知りだが、その豊富すぎる知識で時に会話がひどくわかりにくい。
「エリファが殺されたがる理由を、ティナは知っているのか?」
だったら何故知っているのか。エリファレットとアルベルティーナは面識がない。初めて会った人物の個人的な事情を筒抜けにするほど、精霊族の慧眼は優れていないはずだ。ならば精霊族の知識が、エリファレット個人ではなく、銀の狼族について何かを知り得ているのだ。
いつもより余裕をなくしたラウに、アルベルティーナがそっと息をついて伏せていた瞳を上げた。
「……先に話したな。銀の狼族は、天に仕えし聖獣が人と混じったことにより始まる。彼らの間に生まれたのは、七人の子どもだ」
子どもたちには、聖獣の力を受け継いで魔を払う力があった。世界はまだ始まりの種族が降り立って間もなく、混沌とした大地を平定している時期だった。子どもたちは始まりの種族を助けるために、混沌から生み出される魔を払うことにした。次々と生み出される魔を、来る日も来る日も子どもたちは打ち払った。
始まりの種族が聖樹を植え終わると、魔が生み出される頻度はぐんと減った。だが混沌は消える前に、大きく残忍な魔を生み出した。子どもたちは必死に立ち向かったが、あと一歩というところで阻まれた。
末の子どもが魔に魅入られたのだ。末の子どもは魔を取り込んで邪悪で凶悪となり、次々に聖樹を汚した。
六人の子どもは末の子どもを八つ裂きにすることに決め、一斉に襲いかかった。四肢を裂き胴を引きちぎり、首を喰いちぎった。それでも末の子どもは絶命せず、六人の子どもは、引き裂いた体を自身の命をもって封じ込めた。
七人の子どもは死に絶え、聖獣は涙を流して天に祈った。哀れに思った天界の女神が、六人の子どもに再び命を与えた。
「だが、六人の子どもは兄弟殺しの業からは逃れることは出来ず、末の子どもの命を抱えることとなった」
突然始まった昔話に、だがラウは聞き入っていた。
つっと、語り口を止めたアルベルティーナが、澄んだ瞳をゆっくりと細めた。
同時。
「姫殿下!!」
けたたましく扉が開き、老ブロームが血相を変えて飛び込んできた。
完全に無警戒だったラウはビクっと背を震わせ、色をなくしたブロームに目を丸くする。髪か髭かわからない毛で顔を隠していてさえ、はっきりと動揺していることがわかった。
何か予想だにしないことが起こっていることを瞬時に悟り、ラウはさっと緊張を纏う。
次いで、ぞっと背筋を走り抜けた怖気にぎょと目を向いた。
この恐ろしいほどの威圧感と緊迫感を、ラウは知っている。
知らずに握っていた拳に、じっとりと汗が滲む。
「孵化しますぞ……!!」
「騒ぐな。わかっておる。……妾の言葉ではやはり足りぬか……」
目に見えて動揺するブロームと違い、アルベルティーナはひどく落ち着いているように見えた。だが口調の端々に緊張感と切迫感が見え隠れし、ラウは自身の感覚が狂っていないことを知る。
泰然とする精霊族をここまで動揺させる気配。ラウも以前対峙したことがある。
「ティナ」
緊張感と切迫感、そして知ったる恐怖に口の中が乾いていた。
呼び声はいつもより硬質で、凍てつくようだった。
「どう言うことだ? この気配……氷雪の魔物のものだろう? 何故ディノクルーガーの森に氷雪の魔物が現れる?」
氷雪の魔物は、いつどうやってどんな形で現れるのかわからない正体不明の化け物だ。だが神域にも近いディノクルーガーの森に出現するなど有り得ない。
張り詰めた空気と産毛をチリチリと刺激する悪意に、あの日の記憶が蘇る。
死さえ垣間見える戦いだった。氷のように見える白銀の体毛は見た目とは裏腹に柔らかく、刃を上手く避けて皮膚まで通さない。ラウの刃は銀の体毛を削り取るだけで、なかなか致命傷を与えられなかった。
熊よりも大きな巨躯は敏捷に動き回り、鋭い鉤爪が幾度となくラウを襲った。かすりでもすれば、それは致命傷になった。だが四肢の腱を斬って動きを止めたところを狙われ、腹を裂かれた。それでも無理矢理体勢を変えて何とか首を切り落としたのだ。
あの化け物以外に注意を払える余裕などなかった。その中で、エリファレットが助かったのはただの僥倖だ。
思い至って、ラウははっとした。
今ラウのそばに、エリファレットはいない。
あのおぞましい魔物を知っているエリファレットが、突如現れたこの気配に怯えていないはずがない。
さぁっと音を立てて血の気が引き、ラウは思わず走り出した。
「エリファ!?」
その手を、アルベルティーナの鋭い声が止めた。
「待て、ラウ!!」
「後から行く! 今はエリファレットを探す!!」
ディノクルーガーの森におぞましい魔物が現れたのだ。それは必ず倒さねばならない。ラウは自身の役目を知っているつもりだ。氷雪の魔物が相手だからと言って、逃げ出したりはしない。だが今は、エリファレットの安否が最優先事項だ。彼を一人にしておけない。
エリファレットを見つけ次第向かうと怒鳴り返したが、アルベルティーナは掴んだラウの手を離さなかった。
「落ち着け。あの子狼の場所なら把握しておる」
「どこだ!?」
そう、ここはディノクルーガーの森だ。その森の女王たるアルベルティーナが把握していないはずがなかった。
探すまでもなく知っているのなら迎えに行くだけだ。そう急くが、対するアルベルティーナの目はどこまでも冷静な色を見せていた。感情が凪いで、泰然とした森そのものを思わせる。
「その前に、先の続きじゃ」
「ティナ!!」
今その話はどうでもいい。この際、エリファレットが殺されたい理由も、どうでもいい。今は彼の無事を確かめないと、ラウの気持ちが落ち着かないのだ。早く無事を確認し、あの温もりを腕に抱きたい。
安穏と語っている状況ではないはずなのに、焦りを隠さないブロームすらもアルベルティーナの言葉に意を唱えない。
振り払って駆け出そうにも、折れそうなほど華奢な手は思いもよらぬほどラウを離さない。
「頼む、アルベルティーナ……! エリファレットのところに行かせてくれ……!」
氷雪の魔物の気配は、もはや疑いようもなくラウを襲っている。この森の中に、エリファレットが一人怯えていると思うと、胸が張り裂けそうだ。
強い懇願に、アルベルティーナの手がわずかに緩む。
切なくラウを見つめ、静かに口を開いた。
「……ラウにとって、あの子狼はなんじゃ?」
「……それは、今聞くことか?」
ディノクルーガーの森に氷雪の魔物の気配が現れ、エリファレットの安否がわらない。ラウだけでなく、精霊族にとっても危機的状況下で、その女王が問いただすべきことなのか。
侮蔑さえこもった声音に、だがアルベルティーナは重ねて問うた。
「大切か?」
「アルベルティーナ!!」
「答えよ、ラウ・ファン・アス」
いい加減にしろと怒鳴って、ラウは突然圧力ある透き通る声にぐっと口をつぐんだ。
声音も大きさも先と変わらないのに、反論を許さない強さがあった。知らずに膝を折ってしまうような、圧倒的な畏怖すら感じる。
アルベルティーナの手が、ラウから離れる。だがラウの足はその場に縫い止められたように動かなかった。
「エリファレットを、自身の命と等しく大切だと思うか?」
心の奥に抵抗なくするりと入り込む声音だった。
当然だと、ラウは頷いた。
「あぁ。あいつの身に何かあったかと思うと、気が狂いそうだ」
ラウのそばで、くるくると表情を変えるエリファレットを見ているのが好きだ。毒の中和にかこつけて深く口付けると、透き通る翠玉が蕩ける。真っ赤になって怒る時とは明らかに違う、色を纏う顔がたまらない。
エリファレットがいて初めて胸にともる灯りがある。心の奥の柔らかな場所を刺激して、穏やかに優しく温かい気持ちになる。
それはラウが初めて抱く、愛おしさだった。
アルベルティーナの両目が、かすかに潤んで細められた。
「……そうか……。なれば、エリファが氷雪の魔物を発現させる前に止めてやれ。それが出来るのはおそらくラウだけじゃ」
感情を削ぎ落としたようなアルベルティーナの声が、ラウの耳朶に響く。あまりにもするりと内に入りすぎて、ラウの反応は一瞬遅れた。
「……はっ……な、んっ……?」
森の麗人が紡いだ言葉の意味が理解しきれなくて、声が咄嗟に出てこなかった。彼女は今なんと言ったのだろうか。
脳に言葉が入りきらないラウの様子に、アルベルティーナが潤んだままの瞳を向ける。
「六人の子どもは、魔と同化した末の子どもの体の一部を、内に封じたまま息を吹き返した。それが銀の狼族の祖じゃ」
混沌が最後に生み出した大いなる厄災。その片鱗を、六人の子どもは受け継いだのだ。
時が流れ代を重ねても、その厄災の片鱗が彼らの血脈から消え失せることはなかった。
アルベルティーナの語りが、ようやくラウの欲しかった答えに辿りつく。
「氷雪の魔物とは、銀の狼族の内に封じられし魔が発現した姿じゃ」
天に仕えし聖獣の血を引く矜持を忘れ、内に潜みし魔に魅入られた者が氷雪の魔物を生み出す。希望を抱けず、心手折られた者が絶望の末に生み出す化け物だ。
故に世界中のあらゆるところで、ある日突然氷雪の魔物は出現する。
ぞっと、ラウの背筋を怖気が走った。
それでは。今。
この森を満たしている氷雪の魔物の気配とは。
「エリファレット……!?」
思い至って、ラウは飛び出した。
アルベルティーナがその後を追うことはなく、彼女は華奢な肩を震わせそれを見送った。
細かに震える肩は心細く折れそうで、老ブロームが労しげに近付く。
背後の気配にアルベルティーナは顔を上げ振り返る。
「……どうやら…………本格的に、フラれたようじゃ……」
気丈に微笑む目元にはうっすらと涙が膜を張り、ブロームは静々と彼女のそばに並び立つ。
「……姫殿下の隣に立つには、あの男は力不足です。なにより、ラウ殿はルカ様とは合わぬでしょう」
幼き時から傍に就く老人の言葉が、慰めとも道理ともつかずに吐き出される。
アルベルティーナはきょとりと目を瞬き、それから思わず破顔した。
「確かに……! お兄様とラウは合わぬな!」
マルスリオスにいる兄を思い出し、アルベルティーナは喉を鳴らして笑った。
何故今まで気付かなかったのだろう。ラウと兄の相性が決定的に悪いことなど、想像せずともわかる。ブロームに言われ、すぐに納得するほどには明白なことだ。
何故誰もそれを諫めようとしなかったのだろう。そう諌められさえすれば、ブロームをはじめとする民たちも、いらぬ心配はせずとも良かったはずだ。
唯一絶対とする兄と相性が悪い男と、アルベルティーナが添うことなど有り得ないのだから。
(……諫言するのも憚られるほど、目が眩んでおったか……)
誰かを想う熱量は、時に何ものも見失わせる。それは前を向く絶大な力にもなり、心を食い破る絶望を生むこともある。
アルベルティーナは一度目を閉じ、一つ深呼吸して心を整える。
そう、懐く想いは絶望を生む。
瞳に泰然とした色が戻り、ディノクルーガーの森の女王としての彼女が顕れる。
「妾も参るぞ。放置は出来ぬからな」
「ですが、姫殿下……」
膝を折った老人の言い澱む言葉を察し、アルベルティーナは緩く首を振る。
「これは妾にも非がある。完全に蚊帳の外に置かれるのは面白くない」
ディノクルーガーの森は、アルベルティーナが守る。
「聖樹の聖域に参るぞ」
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