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5 ラグの過去

それからはあっと言う間に半年が過ぎた。 ソフィアリは中央に居たときとは違い、基本的には日々自由に過ごしている。自由過ぎると言っても良い。 ハレルに来てはじめの頃から護身術をラグから習い始めた。身長もかなり伸び、雰囲気も青年に近づき大人びてきた。 背格好は、会ってはいないがセラフィンに追いついているような気がする。 まだ発情期すら来ていないので、オメガとの判定はやはり誤診だったのではとさえ思うのだ。 鏡に映る姿はすらりと美しいアルファの青年の様だと言っても、言いすぎではないかもしれない。 街の若者たちから憧れられてはいるが、高貴すぎて遠巻きにされ、領主の館の貴公子と呼ばれているらしい。 本当は同年代の友人が欲しいソフィアリにはそれがひどく寂しく感じる。 中央の学校から送ってもらっていた半年分の課題も早々に終わり、上の学校に進もうにも学び舎はなく…… リリオンが領主の仕事の大まかなものは教えてくれたが、すぐに覚えてしまってものたりなかった。 ソフィアリが領主を本格的に継ぐのはまだ先で良いと言われている。成人するまでの数年は若者らしく伸び伸びと過ごしなさいとリリオンは優しく声をかけてくれるのだ。 来月からはリリオンのかつての友人で、大学で教授をしていた方がついの棲家としてこの地に移り住んでくる。ソフィアリの勉強も見てくれることになっていた。それまでは、さらに暇だ。 逆にラグは忙しそうだ。 家令のカレルも年を取ったのでラグを見所ありとみるや、リリオンの鶴の一声でカレルが兼任していた領主の補佐の仕事を、どんどんと引き継いでいくことになった。 ソフィアリはラグがここで仕事を持つことにより、他所に行かないでくれるのではとはじめは歓迎していた。ここまでソフィアリを送り届けたらどこかに行ってしまうのではと旅の最後は気を揉んでいたからだ。 家の細かな事はカレルより、元々侍女頭が取り仕切ってくれているので、ラグはもっぱら地域との会合や小さな揉め事の仲裁、果てはリリオンの名代まで任されて隣の領地との行き来もしている。 まだ成人前のソフィアリに任せられないものをラグに先に引き継ぐのが狙いのようだが、実際リリオンには焦りがあるのだという。 近年、年のせいか心臓が弱くなったカレルを心配しリリオンは早く引退させたかったのだ。 しかし後継者がいるわけでもなく、中央に新たな領主の宛を欲しいと連絡をしたところだった。 それが先にソフィアリの父の知るところとなりまだ年若い息子が送られてきた。 ソフィアリは正直的はずれな形でやってきた後継者だった訳だ。 しかしついてきた従者もどきが即戦力になったので、ソフィアリの成人までに先に彼を仕込んで、そののちすぐにソフィアリを領主にすれば数年で引退できると踏んだのだった。 今日もラグは何やら忙しそうに朝早く出掛けていった。そのせいか、結局ゆっくり話をする時間もなくて、ソフィアリはかなり寂しい…… 旅の間とここに来たての時だけが、ラグを独占できた時間だったわけだ。 この街は美しくのんびりしているがやはり中央に比べると刺激には乏しいのだ。同じ年頃のものたちはすでに家業を手伝っているので忙しく、若い友もいない。 寂しさを募らせるソフィアリを周りの大人たちはただ放っておいているわけではなかった。 半年でかなり成長してきたソフィアリであるが、本人ばかりか知らぬだけでオメガとしての成長も着実に果たしてきていた。 他の若者たちがざわつくほどの艶美な姿形。 時折香る爽やかだがあとを引くフェロモンは田舎の港町の若者には刺激が強すぎるのだ。 悪さをするものが出ないとも考え、アスターとラグとリリオンが過保護に彼らと距離を置かせているのをソフィアリは知らない。 ゆっくりと屋敷中心に過ごさせて初めての発情期のときにはアスターの妻や、他のオメガたちに世話をさせてなんとか乗り切らせてあげようと考えていた。なのでそれとは知らせず軟禁状態になっていたのだ。 そうとはしらないソフィアリは、 暇を持て余し今日も屋敷の裏手の白い石の階段から、同じく真っ白な砂浜のある海辺に降り立つ。 どこまでも青く透明な海辺へ、着ていたものをすべて置き去りにし波間へ足を踏み入れていく。 白く泡立ち吹き寄せる波が足の甲まで濡らして砂をさらっていくのを足の裏側に感じる。 あまりに美しい海の色には何度見ても驚かされる。 波は穏やかでのたりのたりとし、仰向けに浮かんだり水の中をくぐるようにしたりして、何もかも忘れてしばし波と戯れる。 空も海も青く溶け合い、自分自身との境目さえもわからなくなりそうだ。 しかし、こんなときふと、中央にいるセラフィンを思い出す。 今頃一人で授業を受けているのだろうか。 父や母を責めてはいないだろうか。 俺の姿を追い求めてはいないだろうか。 涙が溢れてしょっぱいのが塩水なのか涙なのかわからなくなる。 ああ、自分は孤独だと思った。 誰かに強烈に愛されてこの孤独から掬い上げてほしい。 この孤独を前に、心は塞ぎ。 セラフィンから暴力的なまでの愛をぶつけられていた日々さえ恋しく思う…… 「ソフィアリ」 不意に海岸から声をかけられる。声の主を察し、ソフィアリは一度深く深く海の底へ潜っていった。 そしてわざと中々水面に上がらない。 ややあって、すごい勢いでこちらに向かって泳いでくるラグの姿を水の中でみやる。 ソフィアリは目をつぶり、身体の力を抜くと、腰を太い腕がすくい上げ、あっという間に海岸に引き上げられた。 「ソフィアリ。しっかりしろ」 腕の中のソフィアリは目を開けずに身体の力をすべて抜ききってラグの腕にすべてを委ねる。 強い腕の中、恍惚とした気分だ。 用事を終えて帰ってきたラグはふらふらと階段を降りていくソフィアリの姿を追いかけてきていたのだ。 少しだけ日にやけてもまだなお白い、長く伸びた黒髪に彩られた肢体。 長く黒黒としたまつ毛のふせられた端正な美貌。 桃色の乳首にうっすらしか柔らかな肉のついていない絞られた腰、長く骨格のしっかりした手足。黒い陰毛がまとわりつく性器。 抱き上げた身体の滑らかな感触。 こんなにも、無防備で艶めかしい姿を晒され、ラグは焼けつくような欲を刺激されそうになるのをこらえた。 ソフィアリの冷えて白っぽくなった唇が弧を描き、瞳が開いて仇っぽい眼差しがラグを絡めとろうと瞬きする。 「ラグは、俺を守るために来たんだろ?なんで離れてばかりいるの?」 そういって冷たい指先がラグの濡れた頬をなぞる。 誘惑するように頭を引き寄せ、唇が付きそうな距離で囁く。青い目がじっとすがるように見上げる。 「そばに、いろ」 そしてゆっくりとラグの厚く硬い唇に薄くふわりとした唇を重ねていった。 歴戦の勇者も息を呑んで、魅入られたように体の動きを封じられる。 しばしその媚態に酔わされた。 ラグはあまりにも蠱惑的かつ魅力的に育ってきたソフィアリに対して、いつか間違いを犯してしまいそうで…… 朝早くから忙しいことと夜に出歩くこともあるからとの理由をつけ、初日からずっと一緒だった寝所もこの一週間分けていた。 ソフィアリはラグに避けられていると感じて苦しくて切なくて恋しくて…… こんな行動に出てしまった自分を、言葉にして伝えられずもどかしくて。 啄むようなあどけない口づけのあとは、小鳥のように腕のなかで身じろぎもせず震えることしかできなかった。 「ソフィアリの様子がおかしい」 あの日からソフィアリは時折微熱を出すようになり、通ってきてくれるアスターの妻のような農園のオメガたちに世話をしてもらっている。 眠っていたかと思えば勝手に屋敷を抜け出してふらふらと立ち歩く。ラクが探しに行くと素直に戻るがまたどこかにいなくなる。 あの海のように青く、悩ましいほど蠱惑的な瞳でもの言いたげにじっと見つめ、迎えに行けば嬉しげにされ、ラグはそのたびに心臓をつかまれたような心地になり戸惑ってばかりだ。 そんなことをここ数日ずっと繰り返している。 夜、街の中では遅くまでやっている方の酒場でアスターと酒を酌み交わしながら、ラグは心中穏やかでないものを感じていた。 年齢は親子ほど違うものの、感覚の若いアスターとはこの地に根ざした者として学ぶことも多く、なんだかんだで週に2.3度こうして会っている。 「まあ、発情期が近くなってナーバスになっているオメガそのものという感じだがな。微熱が続いてるだろ? 本発情期前の時期に入っているのだと思うぞ。 あれだけのフェロモン振りまいていて、お前わからないのか? 気をつけないとアルファでなくても近づけばわかるようになってきたぞ」 普通の人間より嗅覚の鋭いアスターの指摘にラグは珍しく悩ましげに眉根をよせた。 「フェル族は鋤鼻器《じょうびき》が普通の人間とは、別の発達をしてる。因果関係はわからんが同族のオメガにしか強く反応しないようになっているとは聞いたことがある。同族以外とは子をなしにくいのと何か関係があるのかもしれないが…… 正直俺にはソフィアリの匂いはほんの僅かしかわからない。とてもいい香りだとは思うが……」 「難儀だな、お前。ソフィーはお前の気を引きたくてしょうがないからフェロモンだして、ああやってふらふらと出歩いてるんだろ。  一度抱いてやったら落ち着くさ。早く番にしてやれよ。私はもうあの芳しく、高貴で、少しだけ官能的なフェロモンをだいぶ堪能させてもらった。いい香水作れそうだ。お前の牽制フェロモンもどきも入れてやるよ。ボトルのデザインも凝って作るぞ」 人の悪そうな笑みを浮かべても上品に見えるアスターに、ラグは酒に視線を落として誰にも打ち明けていなかった決意を話した。 「ソフィアリは庇護を欲しがって俺に甘えているだけのまだ子どもだ。これからいくらでも似合いの、好きな相手が現れるだろう。 咲きかけの花を散らすように、番になどしたくない。それに…… 俺はもう生涯番を作る気はない」 アスターはわずかに瞳を見開いて尋ねる。 テーブルに新たなグラスが置かれ、アスターは思わずそれを掴んで飲んだ。 「番を持ってるのか?」 「正確には、持っていただな…… 子どももいたが、失った」 ちりっとした胸の痛みは今もおさまらない、未だ思い出すだけでも針で胸を刺されるような苦しい記憶。 「聞いてもいいのか?」 ラグは頷くと透明な中にハーブをちらした酒をあおり、青臭いそれの苦味を噛み締めた。 「どこまで知ってる?」 「お前が政治家と一族の争いに巻き込まれて除隊したということと、先の戦争では英雄扱いされていたことぐらいかな。カレルはああ見えて若いころは、軍国、国粋主義者を気取ってたから手放しにお前のことを気に入ってるみたいだぞ」 からかう口調を残しつつも、深いシワの刻まれた瞳はラグが話し始めることをゆったりとまっていた。 「英雄なんてものじゃない…… 傭兵はフェル族のような祖先に獣人の血が入った荒くれ者が多くて、俺の一族も何人もはいっていた。まとめ上げるのはとにかく力を誇示すればいいから簡単だった。そんなやつらだから戦争では大活躍できた。それだけのことだ……」 晒されている太い腕にはいくつもの傷跡が走っている。多分身体全身このような創痍だらけなのだろう。 「番となった妻も中央に呼び寄せていたんだが、最後の戦争後も各地を転々とすることが多くて、慣れない土地にいさせるよりも故郷で子育てをさせたほうがいいと妊娠を期に里に帰らせていた。……幼い頃からともにいた相手で、静かで忍耐強く優しい人だったよ」 緑の瞳は里にのこした妻子の姿を映しているのか遠くを見ていた。 語られる悲劇の予兆にアスターも酒をあおる。 「中央は今すごい勢いでインフラを整備している。電力が慢性的に足りなくなり、水力発電のダム建設を急いでいて、元軍人も沢山駆り出されたらしい。……そんなに大切な計画なのに突貫で杜撰でな。山の雪解け水を発電に利用しようとしたんだろうが、戦後そちらに人員を回せなかった地質調査がおざなりで…… 幾度も人意的な雪崩を引き起こしてしまった」 アスターは険しい顔でラグの感情を読み取ろうとする。 何事にも動じない男の目元にも険しさが浮かぶ。 「そうだ。俺の里は無謀な計画のせいで大部分が雪崩に飲まれて、この世から消え去った」 愛しい番も抱くことすら数回しかかなわなかった黒髪の息子も、白い雪にのまれてしまった。 あの日、知らせはだいぶ立ってから、たまたま戻った中央で聞いた。 信じられなくて里を訪ねたかったが、同じように里を失った同胞たちはこの事故の責任をとらせようと役人やそれを支持した政治家に詰め寄った。政治家に危害を加えかねなくなった同胞たちをラグは抑えに行ったが、さなかの混乱を逆に蜂起とみなされ、みな投獄された。 それを救ってくれたのは軍にも馴染みが深いソフィアリの親族たちだった。 相手の政治家がソフィアリの父の政敵であったのも絡み、責任の追求と莫大な補償金をもぎ取ってくれた。 里の者たちはそれを手に里の再興に戻っていくといったが、一生贅沢をしなければ生きていける金を手にしながらも、番とわが子を失ったラグは心を失った。 「俺の元上官がソフィアリの親族で…… 俺の行く末を心配してくれて今回の話を持ちかけられた。正直軍に戻るのも嫌気が差していたから除隊のいい契機になった。国を守っても妻子も守れないような男と、いつでも考えてしまうだろうからな。もう一度守るものを作って少しずつ傷を癒やせと言われた…… 癒やされるはずなどないのにな」 自嘲の吐息は酒のグラスに落ち、ラグは大きな身体を丸めるようにして深くため息をついた。 アスターはあえて厳しく声をかける。 これをこの男に言えるのは自分しかないと思ったからだ。 「ソフィアリをわが子の代わりみたいに思い込もうとしてるようだが、やめておけ。あいつはここに一人で乗り込もうとした立派な男だ。 だが、お前と同じように寂しい男だ。 庇護するだけではあいつのことも救えない」 ソフィアリがなぜここにきたのかも、アスターは知り得ていた。 「お前たちは似た者同士だな。家族との縁が切れ、それでも家族に報いようと人生に抗っている。……意外と似合いの二人だと思うがな」 なんにせよ番に先立たれたアルファは悲劇だ。 心に空いた大きな穴はいつまでも風を通し続けて冷えるばかりだ。再び熱い炎を灯して、溶かした蝋のような愛で塞いでくれる相手に出会わなければ、いずれ緩やかに死ぬだろう。 アスターは、勇気づけるように岩のように大きなラグの身体をばんばんと叩く。 「愛や献身は、与えるだけではだめだ。自分も受け取らなければ真の交流とはいえない。 お前もあの子からの愛を受け取る準備をはじめて、ちゃんと向かい合ってみるといい」 金をグラスの横に多めにおいたアスターは立ち上がり、トレードマークのように上手なウィンクをよこした。 「きっとフェロモンと同じで蕩けるように甘いだろうよ。あの子との恋は。 お前は溺れるのが怖いだけだ。そんなこと溺れてみてから考えれば良い。俺はそうして生きてきた。人の愛でこれまで生かしてもらってきたのさ。 でもその愛の献身に報いようとしたときには、もう遅いことだってある。愛に報いたいと思ったときに、その愛を返し受け取ってもらうことの喜びを失うこともまた悲劇だ。機会を誤るなよ」 子を得て仕事も確固たる地位を築き、やっと妻を番にしようとした矢先、アスターの妻は産後体調を崩し、発情期がこなくなってしまったのだ。 苦労をかけ通した妻を番にしてあげられなかったことは、この陽気で前向きな男の大きな悔恨の疵となっていた。 ラグは頷いた。自分を慕うソフィアリの愛に報いることを真剣に考えようと思った。

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