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第1話

 やつの綺麗な背中を舐めるのが好きだった。翼が生えて飛んでいきそうだ。  あいつの背中に乗り、あいつの奥を穿つ。下半身が重なると、白い咽喉が反る。俺を固く(つよ)くする声が漏れ出て、ベッドが軋む。人のこんな奥まで入れるのかと驚く。この時だけは星と星ほど離れ離れになった心地が同じ地点に留まっていられる。この時だけは、俺を孕んでいてくれる。  踏切が鳴る。俺は我に帰った。少し伸びた髪が首に貼り付いた。セミがうるさく鳴いている。湿った土の匂いがする。この国には(わざ)わざ同じ意味を持てども違った響きによって形作られる言葉があって、しかしそのどれでも感覚だけは上手く伝えきれない。よしんば伝え切れたとしても、すべて俺の伝えたいことと合致しているかどうかなんて分からない。所詮は違う個体だ。同じ土地で、同じ季節の中、同じ風に吹かれても。  目の前を電車が通っていった。ほぼほぼ熱風といっていい温風で脇に置かれた花束が揺れていた。セロファンの下で萎びていている。タバコの箱は少し前に通り過ぎた夕立で結露していた。あの世は暑いと聞いたことがある。あの世が暑いという情報は誰が仕入れてきたものなのかは定かでない。死に損ないから聞いたのだろう。それか、生きている者が勝手に馳せる一種の業だ。  踏切が上がる。俺は線路を越え家を目指す。まだ耳にはカンカン、カンカン音が残っている。先に伸びる道は熱で揺らめき、足元には腹を見せる虫が転がっていた。お仲間たちの大合唱の中でアスファルトに焼かれ、太陽に炙られている。爪先で突ついた。脚の開いたそれはもう死骸だった。何か落胆に似たつまらなさがあった。地面を這い、暴れ、鳴き喚く様を想像していた。俺はまた歩いた。  地区のサイレンが鳴った。光化学スモッグとかいうものの注意報らしかった。最近よく発令されるようになった。あいつが遮光カーテンを閉める。角張った眼鏡が陰険な印象を与えるが、それでも真面目で優しげな顔立ちをしている。涼しげな雰囲気をしているが今年の夏はこいつにも堪えるようで、汗ばんだ頬や首に俺は煽られる。クーラーを付けてするのも好きだったが汗だくで絡むのも好きだった。あいつは人魚みたいに俺の手を熱がる。それで俺は、少し冷たいあいつの肌に触る。2人でシャワーを浴びて、ガンガンに冷やした部屋でまた2回戦に入るのもいい。俺は部屋が少し暗くなったのをいいことにあいつに詰め寄った。早く抱きたい。すぐに食べちまいたい。まだクーラーは点けたばかりで、お互いに汗で湿(しと)っている。神経質なこいつはすぐに着替えたがっていたが、どうせすぐ裸になる。それでも育ちの良いこいつは肌を見せたがらない。俺にもだ。「脱いじまえよ」と抱き締めながら囁いた。どうせすぐ冷える。ほんの少しの間、こいつと暑くなるのも悪くない。他の季節よりも塩映(しおは)ゆくなるキスも嫌いじゃなかった。唇を寄せる。嫌味(ナイス)なタイミングでインターホンが鳴った。「先にシャワー浴びてろ」と言い残して俺は玄関へ出る。暑い中ご苦労なことだ。それでいてあいつとのキスが1秒で終わるはずがない。  水道が小さく唸っている。シャワーがタイルを叩く。ベッドの上では身体の奥深くまで晒すくせに、ここで肌を見せるのは恥ずかしいらしい。今すぐ取っ捕まえてお預けを喰らったキスがしたい。俺は何度も青臭い童貞に帰って恥じらうあいつの仕草に焦らされる。それも好きだ。それで極力あいつの肌には触らないで、一気にベッドで発散したい。水滴がまるでダイヤモンドみたいだ。俺はこいつに見惚れて、こいつはそんな俺を怒る。孝晶(たかあき)。それがこいつの名前。耳の弱いこいつは、している時に囁くと小さく震える。眼鏡を外すと鋭さの増す顔を俺は飽きるほど見つめて結局いつまで経っても飽きはしない。_鏡に映る伏せた顔を俺は眺める。長い睫毛が剃っている。他のところの毛は薄いのに、髪と睫毛は豊かだった。髪が濡れると雰囲気が変わる。額に貼り付く前髪を掻き上げる乱雑な仕草に俺は少女漫画の女みたいになった。見るからに男なのは分かるが、少し神経質で几帳面で、俺の思う(たお)やかなところばかりを見ているからそのギャップの大きさは俺に深々と刺さる。まるで(かえし)の付いた(もり)だ。もう何本も刺さって俺の心はヤマアラシ同然だ。早く抱きたい。そうは思いながらも暴発する寸前まで焦らされたい。俺がこいつに屈服するまで。  エアコンが軋みながら寒いくらいの冷風を吹く。俺は冷蔵庫からこいつがまめに作り置きする麦茶をグラスに注いだ。汗が流れて、こいつが乾涸(ひから)びる前に口移しで飲ませる。もう遠慮はしなかった。こいつを触る。手がこいつを求めている。ベッドまで数歩か或いは十数歩。リビングの奥にベッドルーム。部屋は少し広い。秒の単位で済む短かい時間が待てない。俺はやつが潰れるほど抱き締めた。麦茶で冷やされた口の中にこいつから落ちてくる水滴を吸った。今更いちいち言葉にして伝えることでもない。俺は冷えていくやつの身体を伝って、男なら誰しも弱くなるそこを舐めた。少し芯を持っている。こいつは感じやすい。俺の身体で感じてくれたのだと思うと嬉しくなる。触っただけで。キスしただけで。舌を這わせながら腿を摩るとさらに硬さを増していく。喉奥まで迎えた。やつの肌を目にするだけで溢れる唾液が口淫を手助けする。俺の身体はこいつに出会ってから、こいつ以上に変わった。こいつの後ろの初めてをもらった時、こいつは戸惑っていたし怖がってもいた。おかしくなったと泣きそうにもなっていた。でも俺はもっとおかしくなった。こいつに出会って一目で惚れてから俺はその前よりずっと変わった。こいつを視界に入れるだけで身体は熱を持ち、こいつの声を聞くだけで胸が張る。こいつに触るだけであれが勃ち、こいつに見つめられるだけで達しそうだ。俺は夢中になってこいつの弱いところを舐めた。こいつを気持ち良くしたいのか、それとも俺の舌を気持ち良くしたいのかもう分からない。俺はおかしくなった。こいつを舐めているうちに俺の舌は性感帯になった。俺の指も、掌も、擦り寄せる頬も、重ね合わせる額も、どこもかしこも性感帯になっている。変態だ、俺は。こいつが啼きながら乱れ、おかしくなると言いながら達するよりも俺のほうがずっとずっと不可逆的におかしくなっている。やつの以外を咥えたことはないが、やつのそれが俺の口に出入りさせるたび、触ってもいない俺のものはガチガチに固くなっている。耳に入ってくる息遣いとか、俺の手を握る冷たい指とか、それとはまた別に、俺の口の中までおかしくなった。食事や歯磨きでは気付かない。キスの気持ち良さともまた違う。  あぁ……  やつが感じれば俺も感じる。まだ触ってもいないあれが先走っている。エアコンが冷たい風を吹いても俺は熱くなろうとしているし、こいつを熱くしようとしている。  もう、放して……  俺はやつを感じたい。こいつの震慄(わなな)きも、こいつの味も。生きづらそうなほど神経質げな眉が歪む。固く目蓋を閉じて睫毛が反る。噛んでいた唇が緩んで、途端に意地悪がしたくなったから、こいつの呟きに従う。それなのにあいつは潤んだ目を開いて、俺と瞳を合わせたら、顔に白い繁吹(しぶき)が飛んだ。どこまで俺をおかしくさせるのだろう?どこまで俺はこいつに魅了されるのだろう?どこまで俺はこいつに囚われるのだろう?  カンカンカンと踏切が鳴る。今日はあの萎びた花束に水をやった。封を開けていないタバコが(ひし)げている。相変わらずセミはうるさかった。目の前を熱気を掻き分けて電車が通る。田舎の電車は3両で、そんな田舎なら車を使えばいいのに、俺は近くのコンビニまで歩きたがった。支払いを済ませて、煙草を買って、酒を買って、つまみを買って、あいつにアイスを買って。俺はあいつに臭がられるのが好きだ。呆れられるのが。叱られるのが。心配されるのが。俺はあいつに母ちゃんになってもらうのが大好きだ。それでも俺の求めてるものはもっともっと欲深い現金な関係だ。  踏切のあの音の余韻がまだ少し低い空の中に響いている気がした。セミの死骸と緑の虫の潰れたのがアスファルトに落ちていた。脇を通るアパートの室外機の青い陰で猫も平たくなっていた。夏は腐敗が早いだろう。急死なのか毛並みは綺麗で、まだ生きているような感じもした。口笛を吹いて音を出すと尻尾が動き、頭が上がる。人間で言えば人相の悪い、不貞腐れた顔が俺を睨む。試しに呼んでも知らんとばかりにまた平たくなった。溶けていくみたいに。俺はアパートを目指す。早くあいつに会いたい。飽きるほど、何千万回、何億回とあいつに会いたい。ドアを開ければ玄関まであいつが来てくれる。俺は玄関で(サカ)って、品行方正なあいつはそんな場所でするのを嫌がる。親しくもない、仕事だけの奴等も来る場所だ。そんな場所でやつを抱いたら、壁に空気にあいつの匂いが残って、他の奴等に口説かれちまう。あいつは真面目で貞淑なやつだからきっと断る。それなのに俺は不安で不安で仕方がなくなる。俺は被虐的な快楽を覚えてしまいそうだ。惨めは気持ちいい。あいつに関して言うのなら。俺はあいつの前では欲望の奴隷だ。あいつは俺を支配できる。その自覚もないくせに。暑さは怒りに似ている。怒りは激しく体力を消耗する。頭ごなしにあらゆる生き物が鳴いている。この夏で終わろうと。俺はひとつひとつあいつに言葉を見つけて求愛する。この夏では終わらせない。ずっと一緒に居る。ずっと、一緒に。  冷蔵庫がピーピー警報を鳴らしていた。珍しいこともある。キッチンの収まったリビングであいつはオレンジ色の光を浴びていた。俺はアイスを入れにきたのか、こいつを抱き締めに近寄ったのか分からなくなった。  ごめんなさい。牛乳を溢してしまって。  あいつは冷蔵庫の中の拭いていた。扇風機だけの部屋は暑かった。俺は冷蔵庫を前にしていても汗に濡れている背中に欲情した。普段はカッターシャツなのに俺の前ではカジュアルなTシャツでしかも潔癖な傾向のあるあいつの汗染みの浮かんだ姿を俺は目にすることが出来る。こんな喜びはなかなかない。  明日また買ってくる。クーラー点けようぜ、倒れちまう。  あいつはすまなそうに目を伏せた。自分に対する期待値が人間臭さを通り越すほどに高過ぎるのか、自分に厳しいのか。俺はそういうところにも惹かれて、惹かれて、こいつは火みたいなやつだから、往々にして俺みたいな夏の虫は派手な爆音を立てて焼かれるもんだ。俺はクーラーを点けて扇風機を弱めた。レースカーテンが揺れている。俺とあいつの2人の時間を鳥からも雲からも空からも守ってくれている。鳥がこいつを堕とそうとするし、雲はこいつを隠そうとするし、空はこいつを(さら)おうとする。あいつはレースカーテンみたいなやつだ。俺がこいつを匿うレースカーテンみたいにならなきゃならないはずなのに。  隣の町の花火が鳴った。ベッドが軋む。クーラーの効いた暗い部屋の中で俺たちは絡み合う。下半身だけでなく上半身も重ねて、あいつのシーツを握る手を上から包んだ。男同士の俺たちの間には何も打ち上がらない。でも打ち上げたいとも思わなかった。奥を抉る。あいつが喘ぐ。隣町寄りのこのアパートからも花火は見えたが、俺が見たいのはこいつであって花火じゃない。大の大人2人で今更花火を見たいということもない。  夏祭り、行くか。来週…  耳元で囁く。首を舐めるとあいつは俺を締め付けた。窓の外に現れる花火なんぞ遠い国の戦争をテレビで観るみたいに他人事だった。  ぁ…ああ……っん、  行くぞ、夏祭り。予定空けとけ。  大人の夏休みは短い。それでいて大人の夏休みは小狡くて、同時に無邪気だ。スイカを割ったりカブトムシを捕まえたりなんてしないが、何故だか、何故だか……――  俺はあいつに唇を寄せた。あいつも口を開いて待っていてくれる。クーラーがどれだけ冷やしても、俺たちは汗ばんだ。俺たちは蒸れて、俺たちは濡れた。ほんの微かな隔たりも誤差でしかなかった。どうせ俺たち生命体はプリンだのホットケーキだのみたいに牛乳と卵みたいにひとつにはなれないことを知っている。なるべくひとつになろうと努めた結果、俺は神経質で潔癖なあいつを汚せなかった。何百円で買えるゴムで俺はこいつを守りたい。おかしくなった俺は、こいつの中に入れる俺の遺伝子(ガキたち)にまで嫉妬している。子供(ヒト)になるより大それたことだ。俺はこいつの中に居たい。俺はこいつとずっと一緒に居たい。片時も離れたくないのに、焦らされたい俺はコンビニにまで歩いていく。  花火が打ち上がる。もう果てそうだった。深く深く、あいつの弱いところを貫く。俺とこいつの肌が潰れ合う。俺の皮膚すべてがこいつの細胞を抱けばいい。  あ、あ……ああ…っ!  ……ぁっ、  恥ずかしいが気持ちいい。あいつの耳元で声が漏れ出た。情けない俺の声を聞いてくれ。それであいつも俺を何度も締め付けて、鳴くものだからこいつとのセックスはメビウスの輪を辿るようなものだった。終着点はいつも逆。カラダで攻めてるつもりの俺が、こいつにココロで攻められている。でもやっぱり、こいつにそんな自覚はない。  祭囃子の中をやつの手を引いて歩いた。やつは人目を気にして俺と手を繋ぐのを嫌がった。俺はまったく気にしない。それでもあいつは気にする。だから俺はあいつを放した。あいつは人混みを控えめに、遠慮がちに歩く。時には自分よりも背の低い人にぶつかられ、中々前に進めない。他の奴等がこいつに身体を擦り寄せるのが見ていられず俺は一度放したこいつの骨張った腕を掴む。そのまま調子に乗って腕を組む。条件反射で俺のあれは煙った空を向こうとした。  ひとりで歩けます。  俺がひとりじゃ歩けない。  出店と吊り下げられた提灯でやつの頬と唇がオレンジに煌めいている。こいつが人目を気にしないでいいならキスしてた。帰りにレストランを予約してある。夏祭りなのにたこ焼きだの焼きそばだの食わないのは、野暮か?俺は知ってるんだ、この町の出店が廃棄寸前の食材使ってるってな。人件費込みの思い出価格ってやつは少し高い。それはそれで構わないが、情緒を欠いたレストランで味わう花火の後の夏の夜も悪くない。あいつを引いて花火が見える場所を探す。どこもいっぱいだった。俺は別に花火が見たいんじゃない。こいつと居られるならどこだっていい。ベランダから見える米粒ほどの花火でも。こいつと食うカップ麺でも。ただ、たまにはこいつと少し違うことがしたい。こいつと一緒に居る場所には四季がある。それをこいつと一緒に感じていたい。  ごめんなさい。  あいつが呟いて、俺は腕を叩かれる。そして顔を叩かれる。あいつの印象を変える眼鏡が青と緑の不思議な反射をした。  蚊がいたものですから。  堪らなくなって俺はこいつを抱き締める。まだ留まるところも決まってないのに花火が上がった。これを見に来たのに俺はこいつのことしか見てなかった。大の大人、それも男が2人、公共の場で抱擁している。でも夜と花火がそれを隠した。誰もが自分と自分の連れに夢中で、きっと誰も見ていないし、よしんば誰かに見られていようと関係がない。なのにこいつは恥ずかしがって俺を突っ撥ねる。ベッドに行ったら遠慮しない。でも今はやめる。俺はこいつの駄犬(イヌ)だから。花火は次々と上がる。やつは隣で花火を眺める。俺はその横顔を眺める。背丈は同じくらい。年齢(とし)も同じ。洗剤も歯磨き粉もシャンプーも俺と同じ。俺は段々とこいつになっていく。それなのにひとつにはなれない。むしろこいつも俺に近付いてきていたら、ただ俺たちの関係(なか)は平均化されるだけ。ただ気持ち良くなるだけじゃなく、あいつの一部になりたくて、あいつの一部にして欲しくて、俺は早く、こいつを抱きたい。中に入りたい。こいつの頭の中を俺だけでいっぱいにしたい。  花火が上がる。近くにいた子供が父親らしき大人に肩車をねだる。あいつは見通しの良いこの場所を譲る。あいつの手が俺の手を握って蚊の多い駐車場までの脇道に引っ張った。  もういいのか。  だって油井(ゆい)さん、花火に全然興味なかったでしょう。  蚊が飛び、俺は拍手するみたいに四方八方で手叩きをする。蚊が許せない。俺を吸えばいい。蚊にはあいつの肌に乗り、あいつの血を吸う機能がある。俺にはない。でも俺はあいつにキス出来るし、あいつとカラダを重ねられるし、あいつを抱き締められる。  あんたのこと見てた。  帰りましょう。夕飯もまだですし、何か予定があると言っていたでしょう。  今言いたい。着いてからのお楽しみだ。今すぐ言いたい。着いてからのお楽しみだ。あいつは振り返って、また謝って、俺の頬を叩く。あんたが噛まれなくて良かったなんて言ったら顔も見てくれなくなることを俺は知ってる。  カンカンカンカン、踏切が鳴る。萎びた花はもう大分荒れていた。タバコの箱も大きく歪んでいる。3両の田舎電車が俺に熱風をかけた。セミは木々の中で大仰に鳴いて、アスファルトに点々と転がってもいた。同じ道を同じように帰る。電柱の横を通り抜けたとき、セミの脱殻が逞しくしがみついているのが目に入った。室内にばかりいるあいつの土産に、年甲斐もなく脱殻を持って帰る。潔癖で神経質なあいつは嫌がるだろうか? そうは思いながらもあいつの反応が早く知りたい。そんなことより早くあいつに会いたい。あいつにシャツを脱がされて、身体を拭かれたい。脱殻を潰さないように大切に掌に乗せた。早くあいつに見せたい。あいつに会いたい。蜃気楼を目指して歩く。牛乳を届けて、あいつとホワイトソーダ味のパプコを分け合う。俺もあいつも甘いのは好きじゃないけどたまには悪くない。俺はあいつに吸われるパプコにも嫉妬するんだろう。どう生まれたらあいつに吸われ、噛まれ、潰されるパプコになれるのかと。他の奴等の手に回らないように、千切られて俺のほうに回ってこないように。どうすれば、どうすれば…  インターホンが鳴る。俺が鳴らした。俺の言い付けを守ってチェーンを嵌めたまま出てきてくれたことが嬉しかった。俺は小学生に戻ったみたいに掌の脱殻を見せびらかした。やつは溜息を吐いて笑った。  立派ですね。  それは俺に言ったのか、この脱殻の大きさとか形に言ったのか分からなかった。あいつはチェーンを外して俺を入れる。俺は牛乳を渡した。ビニール袋は結露していた。パプコは溶けたかも知れない。溶けようが溶けてなかろうがどっちでもいい。あいつと分け合って、あいつと食うのなら。リビングにクーラーは点いていなかった。扇風機が回っている。テーブルには水滴を垂らす麦茶のグラスがあった。俺は勝手に飲み干した。あいつはアイスや牛乳を冷蔵庫にしまいながら麦茶のボトルを出してくれた。それから扇風機が切られ、冷房が点く。短かな蒸し暑い時間、待つには確かに短いが猛暑では十分長い時間をやつと一番熱く過ごしたかった。冷房のリモコンを置く手を握り、背後から抱き竦める。汗で湿(しと)り、蒸れ、こいつの身体は強張る。苦し紛れの最初の微温(ぬる)い風は俺の先走りみたいだ。  海、行こうぜ。  見た目からしてあまり汗をかかなそうなこいつのまだ濡れていない肩に俺は顔を埋めた。テーブルの上のセミの脱殻がきっと俺たちを見ている。空洞になった丸い目にきっと俺たちを反射させている。  海、行くぞ。  日焼けしたら赤くなるから少し水平線をみて、水族館に行こう。きっと混む。別に海でなくてもいい。こいつが居て、俺が居て、2人でいつもと違うところに出掛けられるのなら。手を繋いでラベンダーパークにでも行くか?紫のソフトクリームを食べて、大の男2人で?帰りに名物料理でも巡って、夏は意外と短かいから。  もっと涼しいところにしましょう。  一日中、夏の終わりまで、この涼しい部屋で2人きりでもいい。こいつがいて俺が居る。それで。スイカを食べながらホラー映画を観て、クーラーが虚しくなるくらい汗だくになって抱き合うのも。こいつが居るなら。こいつと一緒なら。  俺はあんたと一緒なら、暑くても寒くてもどっちでもいい。話は振り出しに戻る。それだけこいつと話していられる。何もかも忘れて、ただこの暑い夏を語っていられる。俺は口下手だから。

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