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第2話
カンカン音が鳴るのは一瞬だった。停電したような暗い電車を歩く。ダウンライトだけが点き、まるで漏電したように激しく不規則に点滅している。窓の外はトンネルのようで、夜のようなぽつぽつとした明かりもない。人相が悪い、目付きが悪いと言われる俺の顔が映っている。俺は律儀に吊革に掴まり、窓に映る俺の昏い顔を眺めた。だがそれは俺じゃない。窓の中の俺は俺から目を逸らした。俺も俺の居る場所から、窓の奥の俺の視線を追った。隣の車両の奥にあいつが立っている。離れていて、あいつじゃなかったかも知れない。でも俺は直感的にあいつだと思った。あいつを目にしたら、用だの理由だのそんなものは要らない。あいつを視界の中に捉えたら傍に行く。そういうふうに身体ができている。俺はあいつの立つ場所に向かって歩く。あいつの名前を呼ぶ。声は出なかった。進みながら視界はあいつごと歪み、伸び、縮み、渦を巻く。
◇
俺は借金の取り立てに向かっていた。ソウイウ機関、むしろソウイウ自由業から委託されて。名義の都合で取り立てる相手が変わったために住所もいつもと違っていた。そこは俺の前に住んでいた地区に近かった。田舎の10代くらいの若さなら自転車でも十分往復できる距離で、車さえあれば近場ともいえた。その相手とは電話で話したことはあるが顔を合わせるのは初めてで、電話の短かい受け答えの声や喋り方からは知的で落ち着いた印象があった。強張った感じはよくいる已む無く断れずに引き受けちまったのだろう。同じ立場にとんでもない世間知らずか後先考えられないバカがいるが、俺としてはそういうふうには感じなかった。
着いたアパートは小綺麗で、俺の取り立ててきた例としては珍しい、しっかりとした造りだった。六台入る駐車場にシルバーの車が一台停まっていた。それが何となく、その相手の車なのだと思った。これは俺の勘で、実際当たっていた。年齢は同じはずだが、色や車種からいって爺臭い感じがした。車を眺め、白塗りのベランダの奥の2階真ん中のレースカーテンを眺めているうちに、住人とすれ違う。最近の流行りに敏げな、しかし下品ではなく垢抜けた若い女は高級住宅街の有閑マダムの風格があり、ただこの住人だけで俺のこのアパートに対するイメージが決まった。
コンクリートの少し急な階段を上がる。俺の数え方からして13階段。初めて取り立てる相手を自殺に追い込んだ時から、階段の数を数えるのが癖になっている。13階段、でも13階段にするか?俺の数え方が間違っていたんだろう、おそらくは。若くはないと膝に来そうな、特に自動車大国のこの県じゃすぐに駄目になりそうなきつい階段を上りきり、伸びる廊下はなかなか綺麗に掃除されていた。部屋番号と表札を確認する。築島 。響きはありきたりだが字面はあまり見ない。インターホンを押す。大体は返済のつもりのない奴等ばっかりで、ナメられたら終わる。ひとつ怒声でも浴びせてドアを殴るのが一作業だったが、いかんせん、今まで取り立ててきた輩とは少し違う。"知人"のここくらいに小洒落たアパートに身を寄せていたことは何度もあるが。初回はこんなものだろう。まずは返済の意思があるのかってところをみてからだ。インターホンが鳴って3秒、扉が開く。どんなやつだろうと思った。他人の借金を肩代わりする世間知らずのお人好しは。俺は暗い中に浮かぶ白い顔を捉えた瞬間に惚 けていた。雷に打たれていた。実際、遠くでは雷が轟いていた。空は灰色がかり、日光は偏っているような落ち着きと不穏さを併せ持つ、春の終わり夏の始めにありがちな少し期待をさせるあの妙な天気。俺ひとりだけ雷に打たれていた。本物の遠雷なんてまったく無視して。冷水に長く打たれたみたいな白い肌と、薄い唇とプライドの高そうな高く通った鼻と、細い眉。絵に描いたようだ優等生とかが掛けていそうな角張った眼鏡が全体的に陰湿で嫌味で冷淡な感じを整えていた。医者や弁護士などのいかにも堅そうな職業を思わせる。俺は言うべきことを忘れて、ただ威圧的で荘厳な彫刻や絵画を前にした時のようにただただ頭の中を真っ白にして素直にその美しさに無防備を晒していた。
どうぞ、おあがりください。
借金の取り立て屋にするとは思えないほど、彼は丁寧な物腰で、玄関には小さなサボテンや多肉植物が飾ってあった。鉢植えも洒落たものに替えられている。それは元からなのか、"来客"のために態 わざそうしたのか分からないほど、真新しいくらい綺麗だった。俺はこの築島という男を買い被っていたのかも知れない。ただの世間知らずで能天気なのか。部屋はワンルームだが広く、殺風景なくらいで綺麗に片付けられていた。冷房が効き、座布団まで用意されている。生命保険の説明か何かとでも勘違いしていないか。やりようによってソウイウコトにはなるにはなるが。
彼は丁寧で恭しさはあったが事務的で、何より不快感が顔によく出た。世間知らずの能天気といった感じは次第に薄れていく。言葉遣いや語彙、理解力から言って聡い男だった。日向を生きる同年代で比較すれば稼ぎも悪くない。ただ膨れ上がった借金はそう簡単に返せる額ではなくなっていた。
カン、と踏み切りを通り抜ける。しかし目の前は暗かった。停電したような車両を俺は重くなって溶けたような腿を上げて歩いた。床は沼地のように沈んでいく。夢の中で走った時のあの焦燥と不安と息苦しさに似ている。辿り着けないところにいるあいつに気付いて欲しくて俺は叫んだ。叫んで呼び続けても俺にも俺の声は聞こえなかった。空間が歪む。陽炎 そのままに。あいつごと。俺は膝まで沈んだ泥沼みたいな踵の裏で、溶けたみたいな腿を上げ、入水 でもするみたいに身体を捻って腕を振り、渦を巻く視界を掻き分けて、その先にいるあいつに向かっていた。あいつは何にも気付かないで座ることもなくドア横の手摺りを握り、何も映らない窓を見ていた。何を見ている?何を考えている?何を悩んでいる?俺が傍に居る。なのに俺はあいつの傍に寄れない。あいつと離れたまま車両の電気が落ち、赤くなる。
俺とあいつは愛し合っていた。
愛し合っていた?
愛し合っていたよな?
グラスの中で氷が鳴った。白い指が滑らかに去っていく。仇敵みたいな俺に対しても彼の扱いは客人だった。払える分だけ払ってもまだ足らない。期日が延びればさらに利子が膨らむ。だから俺はこのアパートを訪ねることができた。すぐに気に入った。天井にシーリングファンが回ってるのが何より面白い。だが膨れ続ける額に丁寧な暮らしというやつももう出来なくなった彼は必要最低限の暮らしに身を落として、痩せていった。俺はこのアパートが気に入っていたし、飼う鳥が美しい青い鳥なら鳥籠もそれなりでなくてはならなかった。家賃を立て替えてやると脅して、逃げ道をちらつかせて、住む家も失いかけで、引っ越す費用も寝る時間さえない彼の骨張って固い身体を、俺は、暴いた。
昼間は会社勤め、夜はアルバイト、夜更けは俺を相手に生活費を稼ぐ。俺の家はこのアパートになっていた。雇主 には少し俺から上乗せして渡した。肉体関係に多少の後ろめたさがあった。催促と脅迫、場合によっては暴力も振るうような関係であって、私的な部分を丸出しにした言葉と肉を交わすような関係じゃない。給料、貯金、バイト代をすべて返済に充てている彼は俺に身体を売ることでしか住む場所や食うものを確保できない。彼はいい餌だった。他の踏み倒した者がどうなっているのかをよく知っている。大抵全裸に剥かれ高速道路に投げられたり、免許証を晒されたり、会社や親戚、近隣住民を巻き込むかたちで追い込むものだ。返す意思さえ見て取れるのなら、そんな真似はしない。吝嗇 な態度を見せさえしなければ。これでも俺は彼を守ろうとしたいた。寝る間も無く働かせておきながら。女ならもっと手っ取り早かったが、男なら人を選ぶ。彼ほどの若さ、見目の良さ、雰囲気の良さならすぐさまその道に放り込んだ。俺相手ではなくもっと手広く身体を、売らせていた。女ほどではなくても需要はあった。やりようによっては女よりも稼げる。狭く深く。俺は敢えてこの話をしなかった。何故だろう。何故だろう?ただしたくなかった。おかしな話で、その手段を取らせるのなら商売道具になるわけだから客には大事に扱わせる。俺みたいに縛ったり、叩いたり、爪を立てるなんてことはさせない。身体を売らせたほうが、或いは痛みは少ないかも知れない。
俺とあいつは、愛し合ってなんぞいなかった。
あいつは俺を、愛してなんぞ…
カン、とまたひとつ踏み切りを通り抜ける。音だけだ。俺は底無し沼みたいな床に嵌って、抜け出すこともできず、かといって沈みもしなかった。床は泥濘 んで、俺は身動きひとつ取れないまま、視界のずっと先にぽつんと佇むあいつの伏せった顔を眺めた。あいつの前では息を忘れる。声も。起こる感情はひとつだけ。別にそれだけを選んだわけではなく、自ずと。電車は揺れ、吊り革も並行に。線路の上を走っている。泥濘みに嵌った行方知らずの俺の踵にその振動が伝わっている。あいつはまだ扉脇の銀の手摺りに捕まって俯く。どこに行く?俺を置いて?一緒に行こう。俺はあいつと、すれ違う夫婦みたいに、邪魔なカップルみたいに、どこでも隣に居たい。
踵の裏の振動が乱れた。惰性に似た走行をする電車が揺れた。吊り革も並行に傾く。あいつは直立不動で、少しだけ俺のほうを向きそうになった。もう少しだ、もう少しなんだ。俺を見てくれ。
同じ地区にある工場からチャイムが鳴った。学校なんかのよくあるチャイムより少し音程が違って聞こえるような気もする。あのアパートの駐車場には車が停められず、その近くの公園の駐車場に停めている。そろそろ彼も車を手放すかも知れない。そうしたら仕事に行けないだろう。不便にはなるが駅もある。電車も本数は少ないがなくはない。彼の会社は幸い、バスも出るような大きな駅から近かった。ただそうなるとアルバイトのほうに支障が出る。そうなればやはり手離さないだろう。俺はこの公園の作るだけ作った駐車場になっていた。敷地を囲う木の根で隆起しアスファルトを割って下から雑草が伸びている。煙草を吸うのに俺は時折公園の中を眺めた。子供を看るのは嫌いじゃない。
ブランコのところに彼がいた。ブランコの囲いに腰掛け、話相手はブランコに乗る子供だった。俺を前にしたときの顰め面だの緊張だのはなく、柔らかく笑っている。元の暮らしぶりからして、いい保護者になれただろう。連帯保証人になどならなければ。見目が良く、頭も性格も良く、稼ぎもある。連帯保証人になんぞならなければ女が放っておかないだろう。周りも放っておかないだろう。誰かと、女でなくても、たとえば男でも、彼と肩を並べて同等な立場に居られる奴を勝手に想像して息が詰まった。そして今現在進行形で彼に柔らかな表情と綺麗な声を与えられているブランコの坊主に嫉妬した。
彼の横に並びたい。彼の隣に。普通に話したい。顰め面以外の表情 が見たい。笑って欲しい。呆れて欲しい。俺を構え。俺を見ろ。俺のことだけ考えろ。
すみません。でも丁度良かった。
俺が近付くと彼は立った。ブランコの坊主は気にした風もなく遊び続ける。まるで俺が一緒になるのを嫌がるみたいに彼は早々に歩き出す。日向を生きているあのブランコの坊主に、俺みたいなのが近付くのを忌 んだか、それか、俺と深く関わりがあるところをあのガキに見られるのを気にしたか。これは俺の被害妄想だ、きっと。
なんでこんなところに居るんだ?
セミがとにかくうるさかった。あれは成虫 が本番だと思っていたが実際は7年も土の中にいる幼虫が本番なのかもな。交尾は一番大事なことであっても、結局はおまけなのかもな。それとも7年を、たった数日、長くて1ヵ月のために過ごすのか。
少し外を歩きたかったものですから。
家賃のほかにある程度飲食できるくらいの生活費は握らせている。彼を抱いて、互いに果てて、疲れて寝落ちるそのベッドすぐ脇のボードにいやらしく金を置いて。まさか野草でも食おう、公園の水道を使おうなんて考えているんじゃないかと思った。彼はハルジオンみたいにはなれない。彼はドクダミだのたんぽぽみたいなのにはなれない。
逃げる気だったのか。
いいえ、そんなつもりは……全然…
合鍵は持っているから半分俺の家と化したあのアパートは彼が居なくても入れた。我が物顔で、待っていてもいいくらいだった。彼は言い淀んだが、それは図星を突かれた動揺ではなく俺への拒絶だった。楽観的になろうとしたって嫌でも分かる。
絶対に逃げられないからな。あんたの何もこっちは把握してるんだ。どこにも逃げ場なんかない。
存じておりますし、逃げるつもりはありません。
彼は俺を睨むようにきっぱりと言った。彼は俺を夢中にさせる。彼がその気になれば、きっと俺を殺すこともできる。彼が、その気になれば…
彼は一緒に帰るつもりがないのか立ち止まったままだった。自分の両手を握る腕を俺は引っ掴む。力んだのが分かった。動きはぎこちない。肩が張っている。帰りたくないんだな。今日はまだ日が明るいうちから俺に抱かれるから。斡旋した会計事務のアルバイトも今日はなかった。寝かせるために抱く。そんな名目で、ぶつかる胸とか重ねた肌とか合わせた額 から、そんなのは名目で建前で嘘で格好付けなのだと気付かれているような気がする。彼は俺を侮蔑している。当たり前だ。俺は日陰でしか暮らせない。日向を生きていたし今でも半分陰りながら日向を歩く彼には十分俺を侮蔑する権利も謂れもある。
帰るぞ。
顔に水滴が落ちた。気のせいかと思った瞬間に手の甲に小さな水が付いている。ゆっくりと降り始める。彼は歩きたがらなかった。濡れていくのがよく似合う。ずっと眺めていたいくらいだった。日頃の金繰りで疲労困憊の彼は風邪でも引いたら長引きそうだ。今日くらいは早いところ寝かせてやりたい。カラダを繋げなくても元々交わらない。それでも手を伸ばせば届くところに彼が居るのなら、それで今のところは、それだけで、それだけで俺は満たされた。
執拗にベッドのバネが軋んだ。もうそれを鳴らす競技みたいに躍起になって腰を振った。ヒトのオスの交尾中の動きというものは当事者からしてもみっともなく情けない。人間性から離れた異形の怪物か、視界に入るだけで羞恥を煽られるような変質者を思わせる。上半身と下半身はもう別の生き物だった。
あああっ…あっ……!
汗を吸う。髪の匂いに腰は強く彼を穿つ。肌と肌がぶつかる。殴り合いでもないのに頭の中で俺も知らない快感物質で馬鹿になっているのが分かった。耳を噛むとかろうじて自分で支えていた彼がシーツに崩れ落ちる。俺は羽虫も入る隙がないくらいに彼の背中に胸だの腹だのを押し付けた。覆った両手が動いてシーツが茶とか観光コマーシャルなんかでよく見るお白洲 みたいになる。神でも仏でも人間でもない、けれどもそれに近い、神よりも仏よりも人間よりも儚く強く美しいものを抱いているような心地がした。
あ…あっあっ、ぁんっ……!
寝ろ……っ、!
掌の下で彼の手が震えた。俺の鼓動だったのかも知れない。俺は彼の中に収まり、彼と同時に弛緩する。俺は彼の中に放たれ、彼になる。ひとつになった。彼に孕んでもらっている。ゴムの中での歓喜だった。悦びの他に、動物のオスとしてはもう果てるしかない達成感と虚脱感、それから悲観があった。額の汗が目に入ったのか、そもそも目から出てきたのかも分からない。夏は雨がよく降り、窓に一面雨粒が張り付いている。使用済みのゴムを捨て、俺は裸のまま立ち上がった。帰ってきた時から気になっていたテーブルの上のハガキを見る。死亡通知だ。葬儀は今日だったが親戚だけで済ませるらしい。シーツの擦れる音にハガキから顔を上げる。寝ていたと思っていた彼が起きていた。しかし眠そうだった。
添い寝が必要か。
彼は無言で首を振った。律儀に答えられるとは思わなかった。何かしら反抗的な嫌味を言われるものだと高を括っていた。今にもベッドに倒れそうになりながら上半身を起こし項垂れている。俺はハガキを置いてベッドに戻った。白い肩が強張る。彼を前にするとこの世のすべてが醜く、穢らわしく、浅はかで愚かに思える。神経質に洗い過ぎて荒れた手が乱れた髪を撫で付けている。眼鏡がないために余計鋭くみえる目が俺を捉えた瞬間に俺の中棲む化け物が俺を喰らう。初めて前から、ゴムも無しに彼を貪った。抵抗もすぐに治まり、何故だか死体を犯しているみたいだった。何度も抱いて慣れた体位とは違う挿入と接触、生の体温に俺は興奮した。彼は絶望しているようだった。
慣れておけ。肉体 で稼げるようにな。
前から抱くと触れる面積が増えるだけでなく、彼の顔も近くなる。表情をそのまま見ていられる。彼は自分を抱く俺の腕を嫌がった。几帳面に切り揃えられた爪では何も痛くない。痛ければよかった。引っ掻き傷をくれ。噛み痕をくれ。痣を。ガキも作らない、法律にも認められない、教科書にも載らない。それでも本能は何かしら残そうとする。俺は夏にうるさく鳴き喚くセミにはなれない。誰かの一夏に刻まれる打ち上げ花火にも。彼を抱いた傷が欲しい。
放して……放して…っ
俺は彼を蒸し殺すことも厭わなかった。纏わりついて、俺ごと蒸し殺す。スズメバチを蒸し殺すミツバチみたいだ。俺をミツバチだなんて、俺以外に誰がそんな喩えをするだろう。深く突き上げる。このまま腸を突き破って彼に刺さったまま蒸し死のう。それが幸せだと思った。俺にとっての。力強く抱き締めてもまだ彼は身動ぎ、震える余地があった。どう頑張っても彼には余裕がある。ただ本人が気付かないだけ。俺にはもう余裕がない。俺はオスのカマキリだ。彼は女王蜂で、本当に俺はオスのミツバチで、交尾とともに果てる。これは悦び以外に何がある?
油井さん…、油井さ……ぁっあっ!
結局のところ俺は彼の奴隷だ。彼の快感に溺れる声と表情、カラダ、すべてを知りたいがために俺は彼のバター犬で、玩具だ。液体石鹸とアルコールを何度も何度も数分間、洗い過ぎて荒れた手を繋いだ。敏感な指先 で彼の微妙な動きも逃したくない。すべてが見たい。すべてを知りたい。余すことなく。彼の中身は知れないのだから。
んあっあっあ……あ、あ、あ、ああッ!
俺もベッドをうるさく鳴らして彼に求愛する。交わりが終わりのセミとは違う。厄介だ。抱いて終われるのならもう終わりでいい。言葉も感情も要らない。本能が理性とマーブル模様になる。喰い物にしていいのは仕事の時だけだ。消費する立場ではなく消費させて金を搾り取らせる立場だったはずだ。俺は壊れた。俺は。
カンカン、カンカン、踏切が鳴り響いている。セミのうるささよりも近かった。先に伸びていくアスファルトの先は溶けて揺らめく。日光は針のようだ。汗は止め処なく溢れ、俺はただ水と塩を生産するだけの生き物になる。その中に怪物を秘めておきながら。遮断機が俺を蜃気楼に向かわせない。線路の鉄は眩く焼かれ、目はサーモグラフィーみたいになって触らずとも熱さを理解する。とにかく暑い夏だった。年々暑くなっていく。都市部が開発されるにつれて。それとも温暖化のせいか、その両方か。年々、年々暑くなる。暑さは怒りに似ている。カーブした右手から電車が来る。まるで何かの分岐点みたいな十数メートル先の蜃気楼が火照ったアルミの箱に遮られる。何かを後悔しているし、その分岐点を求めてもいる。田舎の3両の電車は恐ろしく長く、終わりがなかった。
身動きのとれない俺を歪んだ空間の奥のあいつが見た。あいつは優しく微笑んでくれる。薄い唇が動いて、きっと俺を呼んでいる。窓の中で先に小さく花火だけが上がるあの暗黙の瞬間に似ている。あの淑やかで染み渡るような声を、俺が忘れるはずがない。築島 。俺も窓に映る小さな打ち上げ花火みたいだった。声はない。電車は線路とは違う異物を轢いて、引っ掛かりながらまた走り出そうとする。その正体を俺は思い出した。
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