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第3話

 細流(せせらぎ)と、足を冷やすあいつで俺は癒された。海は混み、山を登るような趣味もない。緑の濃い陰を落とす渓流に来た。静かで控えめなあいつは裾を捲り、いつもより子供っぽく見えた。俺も浮つく。やつは(ほとり)で眺める俺を手招きした。向こう岸は苔の生した静かな森で、夏という季節を引き立てるような静けさと涼しさを醸していた。水墨画みたいな木々が奥に薄らいで見える。やつは頭が良いし何より真面目で、心配性なくらいだから毎年起こる水難事故に自ら飛び入るようなことはしない。ただ俺も、こいつのことに関しては心配性にもなる。もし目の前で溺れている奴を見たときに、こいつが巻き込まれに行かないかとか。  油井さん。  白い手が俺を呼ぶ。綺麗な声と。風鈴みたいな。やつに呼ばれたら俺に拒否権なんかなかった。どこかで鳥が囀っている。(ひぐらし)の鳴き声が空間に沁みていく。セミには詳しくないが、蜩だけは知っている。その鳴き声も。曲の終わりみたいな切なさと焦りがある。俺も裾を捲り、やつのもとに行った。川の水は冷たく、勢いはあるものの浅かった。俺とあいつの足に当たり白く繁吹(しぶ)いている。夏の冷たさだと思った。冬や春の冷たさを俺は知らないが。  油井さん。  俺は嬉しくて、楽しくて幸せだった。汗の乾いたあいつの腕や肩、背中に俺は身体を擦り付ける。どこかにあいつの肉感があることに落ち着いた。堪らなく気持ち良かった。あいつは一歩、一歩、向こう岸に歩いていく。あいつは(つまず)き、俺は受け止めた。あいつは俺と目を合わせ、俺は見惚れた。そうするしかない。きっと俺は魂を抜かれていた。山ノ神というより山ノ()だ。こんな美しさは。魂を失った俺は無条件にあいつに付いていく。渓流の清々しい景色もあいつの前で霞む。水面の透明感も、流れに抗う魚影も、自然に打ち砕かれ響く音も。涼しげな森の広がる岸につき、あいつは俺を迎えてくれる。俺は甘えてキスした。あいつも嫌がったりしなかった。触れるだけのキスは少し冷えている。避暑地のキスという感じだった。  帰り、何食うか。  俺は戻ろうと向こう岸、俺たちが来たほうを振り返る。あいつは冷たい手で俺に触れた。それから川とは反対に俺を引っ張る。  油井さん。  熊が出るとは聞いたことがないが、出たとしてもこいつだけは守らなきゃならないと思った。手足が千切れて、頭が潰されても。腹が裂けても。骨が砕けても。  真っ赤な駅に着く。赤いフィルムを通しているみたいで、そんなものはなかった。床も壁もホーム以外は生肉みたいな、口腔みたいな生々しげな質感をしている。改札を出て、カンカンカンカン近くの踏切が鳴り響いている。強い日差しとアスファルトが助長する熱気に晒される。あいつが待っている。コンビニに寄って、タバコとアイスを買って、早く帰ってあいつを抱きたい。早く、あいつの中に入りたい。あいつとひとつになりたい。離れないように。二度と。時間も気にせずに結合していたい。恥じらいも忘れて、下品な体勢で、もうすべてを晒して滑稽に、あいつの驚くほど深くまで。早く帰って、早くあいつの顔を見て、早くあいつを抱きたい。  雨が窓を打つ。彼は無理が祟って身体を壊した。色濃い隈が目立ち、虚ろな目はただ眼球の運動として動くだけだった。意外と人間は目で語れるものなのだと知る。俺は彼の体調不良を知っていながら、ただ居候し肉体を喰い物にする取り立て屋でしかいられなかった。寝る間もなかった。夜も働き詰めで、主な昼の仕事を回すためにカフェインばかり摂っていた。彼はまともに飯も食わず、俺が彼を買った金も生活費に充てずすべて返済に充てていた。いずれもっと大きな瓦解がある。取り返しもつかないような。彼は帰宅早々、俺と顔を合わせ、目を合わせた瞬間に崩れ落ちた。軽くなった身体を引いて俺は彼が目覚めるのを待った。身体を拭いて着替えさせ、水も飲ませた。このまま目が覚めなかったら。考えはしたがリアルには感じられなかった。寝息は安らかで、卒倒したやつのものとは思えない。俺は彼の、さっき水をくれたときに濡れた程度の唇を塞いだ。寝息が乱れる。そして拒まれる。御伽話(おとぎばなし)みたいだ。俺の口付けで目覚めるなんて。  飯、食いに行くか。  行きません。  彼はそのまま起きようとする。顔色は青褪め、髪は萎びたような感じがあった。肌も荒れている。相変わらず必要以上に偏執的に手を洗うため乾燥し、所々擦れたように切れている。その硬さとざらつきが嫌いじゃなかった。  飯代、稼げ。  寝間着のボタンを外していく。俺に迫られたら彼は拒否しない。生で抱くなら倍額だった。彼は自ら生ですることを求めることもなく俺の気紛れに付き従う。口淫するにもさせるにも料金を決めた。彼は上手くなかった。されたこともなかったという。まず俺以外と肌を合わせる経験があるのかも不明だった。聞きたくなかった。場合によってはその白い首を絞めてしまいそうで。  俺はその日、肌の滑らかさや、胸を責めた時の声の甘やかさを脳髄に叩き付けるように抱いた。ただただ彼が快感と官能に溺れるように。舐めて咥えて触って撫で摩って、彼が寝られるように緩やかに追い遣る。指だけで迸り、白い肉体が悶えたとき俺は感動した。コマ送りに近い挿入と静止の長い抽送はひどく困惑させた。身体中を触る。俺の手垢が付いてないところは許さない。不意を突いて腰を勢いよく打ち付けた。  あっ、ぁああっ…  病人を犯して俺は喜んでいる。腹の中の脈動を感じたのか彼は目蓋を閉じ、(うな)されるように眠る。俺はゴムを捨て"料金"を払う。ゴム無しの中で出したのと同じ額にして。クーラーを弱め、俺はコンビニに出掛けた。車に戻るよりも歩いたほうが早かった。暗くなってもセミはまだ鳴いていた。それでも随分と落ち着いている。近所からはカレーだの煮物だのの匂いがした。このままでは願ったとしても彼は家庭を持てないだろう。安堵した。同時に苦しくなった。貯金は無いに等しくなった。趣味に費やす時間はなく、健康にもそろそろ問題が出るのだろう。熱く乾いたアスファルトに一滴一滴水を落とすみたいに彼は少しずつ、病んで………  踏切の警報器が鳴り響く。セミも相変わらずうるさかった。供えられた花束はもう腐っている。ふと顔を上げると向こうの遮断機の奥にあいつが立っていた。俺は買ってきたばかりのワーゲンダースのアイスとコーヒーとガムが入った袋を掲げた。あいつが微笑むのが見える。あいつと居るならタバコはやめる。やつの匂いが消えるから。俺はガムを噛んで、吸いたい欲を抑える。あいつも噛む。同じもののはずなのにあいつから薫るミントは違っているような気がした。懐かしく優しい柔らかなミントの匂い。俺は麻薬中毒者みたいに、やつから漂うミントに焦がれた。もっと嗅いでいたい。俺の匂いにしてしまいたいと。俺とあいつの間を電車が通る。鈍い光りが危なげだった。3両編成が通り抜けるのはそんなかからないのに俺は早く向こう側のあいつに会いたかった。会って、アイス溶けるのも忘れて抱き締めて、手を繋いで帰る。早くあいつに会いたい。電車が通り抜ける。あいつはいなかった。アスファルトが焼けて揺らめくだけ。  電子レンジが加熱の終わりを告げ、目覚めた彼にカルボナーラを食わせた。会社を休ませたことに珍しく感情を露わにしていたが、そこにはただ会社を休んだことに対する落胆や焦燥だけではないことはすぐに分かった。食は進まないようだった。食わせてやると言っても首を振るばかりでプラスチックのフォークにスパゲティを巻くこともしない。それどころかまだ透明な蓋が被さったままだ。開けようともしない。  お腹、減ってないんです。  最悪臓器を売ってもらう。身体を壊されると困る。  それも半ばはったりではなかった。場合によってはなくはない。部位によるが総額でも億の値段を超える。それで生きていられるのならこの圧迫した生活からも逃がれられるだろう。内臓、血液、その他体組織半分以上失っても生きていられるのなら。  彼はぼんやりしていたが蓋を開け、プラスチックフォークの袋を剥いた。もう何のために生きているのかも分からない。臓器を金にするためだ。俺と海外旅行することになる。半分ははったりだった。俺の子種を擦り付けた身体だ。俺が汚した身体だ。俺のものを飲んで作られた身体だ。世界各国にそれが散らばるのは気に入らない。  どうして連帯保証人になっちまった?  クーラーが少しの間黙った。俺もどうして彼を知りたいだなんて思ったのか分からない。身体だけで良かったはずだった。彼はまるで高級レストランみたいに上品な仕草でスパゲティを巻く。薄い唇が開く。俺は食い入るようにそれを見つめた。脳味噌が茹だりそうだ。俺は本当におかしくなった。彼は俺の問いには答えなかったが、カルボナーラを収めていく唇や伏せた目蓋を見ているだけで満足だった。細い顎が動いている。何かが燻る。俺は彼に朝顔の観察日記よろしく花の種を胸に植え付けられていて、育ち、もう咲きそうになっている。それは喜ばしいものではなくて根深く俺から生気と正気を吸って苦しめている。彼は俺にそんな種を植え付けたことも知らない。俺たちの関係は単純だったはずだ。今まで取り立てる相手の家に住み着くなんてことはなかった。取り立て屋も人間で、一応は感情がある。金の返済のために多少は踏み込むが、彼にはそうする必要がない。  あの…  彼は綺麗にカルボナーラを平らげた。目が合う。何か言おうとするのを俺は遮り、コンビニで買ったビタミン剤を2粒テーブルに落とす。らしくもなく神経質な彼を慮ってアルコールティッシュで念入りに拭いたから、嫌がることもないだろう?彼は黙って、何の薬かも確認もせず2粒を口に入れた。それは諦めなのか信頼なのか俺が知る必要はなく、どちらでも俺の中の意味は変わらないどころかそもそも無い。ただ錠剤を口に入れる仕草に、彼が俺に植え付けた花みたいなものは咲きそうなる。水を飲むときに晒される白い喉の隆起も俺を追い込もうとしている。俺は脳天から真っ二つになって、彼の花だけが遺る。きっと。  少し、多くありませんか…  掠れた声で彼はベッドサイドの札束を目で差した。俺はまだグラスを握る彼に見惚れていた。俺のほうが一服盛られたも同然だった。動悸と不整脈だ。平気な面をして当然のように無防備に無警戒に触っていたが、こんな人外みたいな男に触れてよく火傷も消滅もしなかったものだと感心する。太陽に蝋の翼を溶かされた神話の野郎みたいに。俺は彼に支配されている。  あの…油井さん。  いい。受け取っておけ。暫くの飯代にしろ。  彼が様々なものを諦めて解体されてくれたら俺の苦しみは治まる。きっと。彼を彼たらしめるものが世界各国に散れば。回収困難になれば。俺の世界から消えさえすれば。  ですが…  困るなら、本当に中に出されるか?  彼は首を振った。食べたものを片付けようとするが俺は彼をベッドに運んだ。あのガラス玉みたいな綺麗な目は俺を放さない。植え付けられた謎の花はもう蕾にまでなっている。息苦しい。張るようだ。  明日は会社…ちゃんと行きますから。  不思議な感じがした。俺たちは他人で、取り立てる者と取り立てる者で、俺は彼に手が届けばそれで満足で、それでいてまだ望んでいる。  踏切の警報機よりも電車の音のほうが尾を引いていた。気持ち早歩きで踏切を渡る。あいつが待っていると思った。でもあいつはいなかった。不安になった。ビニール袋を振って走った。寝ていた猫がたまげて逃げるのも、小石か枯葉を踏んだのも構わず。あいつが待っている。俺を待っている。独りにしない。俺は玄関扉を開けた。チェーンがドアを繋いでいる。胸が破裂しそうだ。安堵はなかった。顔を見ないことには。息が乱れた。汗が滝のように流れる。走った暑さと変な寒さで肌はおかしくなっている。隙間の奥にあいつが現れ、驚いた顔をしていた。チェーンが外れた瞬間に抱き付いた。腕の中にやつの硬い感触がある。どこにも行くな。俺の傍に居ろ。言いたいことは沢山ある。  びっくりしました。不審者かと思って。  汗も匂いも擦り付けた。硬さのあるこいつに身体をぶつけるのが楽しい。細めの腰を強く締め上げる。強く強く離れないように。俺ごと縄で縛っておきたい。  愛してる。  俺の腕の中であいつは重くなる。ぐったりしてまるで人形を抱いているみたいだった。あいつは俺の支えなしで立っていられなくなっていた。意識もない。畳まれたように腰から上が後ろに倒れ、首がだらりと伸びた。骨が抜かれたように。虚ろな目はどこも見てやしない。伸びきった首に惰性で繋がった頭が右から左に転がる。  腿を持ち上げて上品なこの人からは想像もつかない恥ずかしい体勢で俺はこの人の慎ましい孔に図々しく侵入した。目を開けていられないほどの快楽だった。日の当たらない場所同士をぶつける。  ぁっん……っ、もう…、っ!  彼の喘ぎに混ざり、俺も呻いていた。イきたい、のほかに、もっと気持ち良くさせたい、もっと気持ち良くなりたいと思った。射精欲に上がるに連れて知能は著しく下がる。  イきたいか?  動きを止め、荒々しい息遣いが落ち着くのを待った。彼の腰は小刻みに揺れ抽送を促す。身体を引き攣らせる姿は微風(そよかぜ)からも守らなければならないくらいに弱い生き物にみえた。届く限り腕を伸ばして男のごつい脚を触る。女の丸みも柔らかさもない。何が楽しいのかも分からないのに愉しかった。興奮する。訊いておきながら腰が止まらなかった。この人を貪りたい。  あっあっあっ……あっ!  この人の悦いところに当たっている感じがした。意図的にそこにぶつけてもいる。あまりに揺れるものだから彼は俺に掴まろうとした。持ち上げた脚を下ろして俺は回されたこの人の手を齧った。指先の匂い、汗の味、荒れた皮膚の質感すべて知りたい。爪と肉の間、脇の溝も舌先で穿(ほじ)る。自分がこんなにねちっこいことをするとは思わなかった。腰を打ち付けるのをやめても彼は俺を締め付け続けた。前も勃っている。中だけで前もイけるようになってからはゴムを被せた。ベッドを汚すのが嫌そうだから。おかしな話で、神経質な彼の気性を忖度(そんたく)した結果で、それでもゴムの付け方を知らないこの人の世話をするときは、やってることに反して健全な喜びがあった。会話的な会話をしている心地になるから。  イけばいい。  奥を突き上げている感じがあった。彼はまた悲鳴のような嬌声を漏らして俺から逃げようとする。それを力任せに押さえてまで繋がろうとする自我は獣の生産するための交尾に似ていた。  んぁっあっあっ…あぁっ!ごめんなさい…っ、ごめんなさ……っぁっんんッ!  この人が昂まれば俺も昂まる。俺を昂めるためにこの人を昂める。俺の腕の中で、俺によってこの人は一度大きく震えた。悶える身体に細胞が潰れるレベルで密着した。この人の細胞と重なって癒着するレベルで。この人と感覚も神経も共有してしまいたい。養分も吸われてもいい。奥の奥で果てる。視界が白くなるような猛烈な快感に呻いてしまう。ゴムを付けているのか、生でしているのかも忘れた。この人を抱いている。それだけが重要だ。  ヨかった。  この人を辱める言動を知っている。嫌がらせみたいにカラダを褒めたり、金稼ぎ以外のまた別な関係を匂わせるような、たとえば事後の愛撫とか口ではない場所にキスを施すとこの人はつらそうにした。この人の感情が出てくるのならこの際何でもいい。好きに向けて欲しい。どれでも受け止める。この人のカラダの中から出て、ゴムを外す。生でしていたらと思うと期待が膨らんだ。同時に恐ろしくもある。この人のカラダに病みつきになりそうで。俺は彼に背を向け"料金"を払う。行為後に静かに音もなく泣いているのを知っている。それを見たら最後だと思った。何が最後かは分からないが、漠然と。何となく。やるなと言われたやりたくなる仄暗い衝動と好奇心の勝る強迫観念に似ている。俺は気付かないふりをしてシャツを引っ被る。  コンビニに行く。必要なものは?  ありません…  適当な弁当を買ってくる。  要らない、必要ないと言われるのは決まっていた。待っているつもりで返事すらもない。外に出ると湿気と昼間に溜められた熱気に包まれた。でも意外と、冷気とその境界で切り替わる瞬間は嫌いじゃない。  ラジオ体操の音楽を聞きながら目覚めた朝は心地が良かった。涙を流す俺を、あいつの冷たい指が慰めてくれる。裸で抱き合っているから体温が混ざり、タオルケットの下で氷みたいに溶けて、やつと融合しているみたいだった。  秋に行こう、海。冬でもいい。  この季節は大混雑するし、こいつは日焼けに弱そうだ。俺はこいつと海に行きたい。水平線をただぼんやりと、俺とこいつしか居ないみたいに眺めていたい。  はい。行きましょう、海…  嬉しくて幸せで綺麗な額にキスする。こいつも首を伸ばして俺の頬にキスしてくれた。  朝飯買ってくる。まだ寝とけ。  少し眺めの色素の薄い茶けた髪を撫でる。夜遅くまでずっと繋がっていた。疲れているだろう。受け入れる側はきっと俺より。それより何より、帰るところにこいつが待っているという実感は何回何十回繰り返しても飽きない。適当に服を着て2人の住処を出た。セミの鳴く雑木林の近くを通る。日射しは朝でも強かった。アスファルトは眩しい。朝飯と氷と、タバコとガムと、アイスと、それから。鼻の中に吹き込む風から今日は雨が降りそうだった。土砂降りを待ち望んでもいる。雨音と雷鳴で静かになった外と薄暗くなった部屋の中であいつと肩を寄せ合って、あの自然現象なのに非日常に囲われた日常を感じたい。充実した日になりそうだった。晴れていながら雲行きは怪しく、風は雨を告げていても。コンビニが見えてくるあの踏切に差し掛かり、夏の朝の空気に浸った。赤い光が視界の端を横切り、やがてリズム良く鳴り始める。今日は耳にうるさいと感じた。セミよりも、鼓動よりも。俺は何かに焦っていて、何かに怯えている。踏切の音がそうさせているのかどうかも分からない。遮断機が徐々に落ちてくる。急かされている気分になった。俺は何かを恐れている。踏切の音がさらに俺を煽る。何かをしなければならない、何かをしろと。カンカンカンカン、俺を責めたてている。この踏切が俺と何かを隔てている。向こう側には国道沿いとはいえ田舎にありがちなコンビニの広い駐車場が見えた。足は遮断機の前で惑う。迷っている。あっち側に行きたい。その衝動が抑えられなくなる。遮断機に触れる。それが遮断機だなんて認識はもうなかった。ただ優先された意識に動かされるままに潜ろうとする。そんな俺の手を後ろから冷たい手が引いた。  一緒に行きます。たまには……2人で。  あいつの痩せた身体に受け止められた。指が絡んだまま。あいつは微笑んでいた。俺は突如として現れた悲しみを抑えきれなくなった。涙が溢れ、それを見られたくなくてやつを抱き締める。電車が俺の後ろを駆けていった。温い風を掻き分けて。  疲れてしまいましたか。  なんでもない。行こうか。俺、焼鳥食うけどあんたはどうする?  行ってみてから決めます。  あいつの冷たい手と手を繋いで、腕を引かれ踏切を渡る。まだそこまで暑くはなっていない比較的過ごしやすい時間帯はこいつがいるだけで簡単に喜びで満たされた。ずっとこの穏やかな時間が続けばいい。季節ごと。このまま、朝のまま、雷雨もこないで。それでもこいつと居られるから、秋も冬も、昼も夜も、雷雨も雪も俺は望んでしまう。欲が深くなっていく。満たされれば満たされるほど。踏切を渡り終えた途端に少し冷めた風が吹いた。振り返る。花束とタバコが踏切の脇に置かれていた。花を包むセロファンが揺れて輝いている。悲しさは喜びとよく似ていた。暑さが怒りに似ているみたいに。また泣きそうになる俺にあいつが振り返る。  おれはカルボナーラが食べたいです。あなたは?  行ってから決める。  やつは柔らかく微笑む。俺はこいつにぞっこん参っている。俺の胸には大輪の花が咲いている。こいつが咲かせた。枯れたり萎びたりすることなんてなく、こいつに向かって咲く。俺はこの花に引かれてこいつを目に入れる。向日葵みたいに。

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