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デニッシュ・メアリー ――あなたの心が見えない 9

 一耶は今夜も夜勤だと話していたから、彼とバッティングする可能性はない。しかし、店のオーナーとはいえ、恒星に会えるかどうかはわからない。それでもいい。  店内に他の客の姿はなく、この前と同じストゥールに腰を下ろすと、すっかり顔見知りになってしまったバーテンダーがいつものように淡々とした様子で会釈をした。  最初はモスコミュールと決めていた。グラスを傾けながらクールジャズのサウンドに耳を傾ける。  これは『ライト・アローン』だ。片想いの相手をライバルに取られるといった内容の歌詞で有名な、男性ジャズヴォーカリストが歌う失恋のナンバーのタイトルである。  次に流れるのはサンバのリズムにジャズのフレーズをミックスしたボサノバ。明るく、時に重く響く。  しばらくして扉の開く音がした。 「よう。邪魔するよ」  もしや──入ってきた人物を見た刹那、建樹は目眩をおぼえた。それはもちろん、この店のオーナーと呼ばれる男、待ち望んでいたその人だった。  まさか本当に現れるなんて。誓いを破った後悔と、会えて嬉しい、二つの気持ちが混在しているが、そうと認めたくない建樹はひたすら気づかないふりを努めた。  先日の黒一色のやさぐれた雰囲気とは打って変わって、焦茶色のイタリア製高級スーツに身を包んだ恒星はどこから見ても立派な敏腕ビジネスマン、あるいはやり手の青年実業家といった出で立ちだ。  カウンターの前に、一夜の関係を結んだ男が居たのに気づいたはずの恒星だが、まったく動揺する気配はない。

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