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一、春蝉
「今日は糝薯 を煮たやつが食べたい」
起きがけに海生 はこんな我儘を言う。
前の日もその前の日も食べ物を受け付けずに吐き戻したくせに、毎日起きてきては不毛にも思える要求をしてくる。顔色はここに来た時から全く改善することも無く青白い。
幼い頃は健康的で活発な子供だと思っていたが、今はこんなにも窶れて影が濃い。
祖父母が遺した古い家を両親ではなく孫の自分が相続した。広さは勿体無いほどだが、水回りや建付けが古くて誰も欲しがらなかった。然し昔はそこそこ立派な家だっただけに、思い出の家屋を取り壊すのも悔まれると両親や親戚が惜しむようになり、遂にまだ身軽だった私に白羽の矢が立ったのだった。
私の仕事は売れない物書きでまだ独り身、最低限の物さえ揃っていればそこそこ暮らせてしまう。狭いアパート暮らしから一転、広い一軒家に一人で住むことになった。半年は家の手入れや修復や家事の勝手に苦労したが、今は慣れたものだ。
そうして迎えた今年の初夏、従甥の海生が身体を壊し療養の為にここを訪れたのだった。
祖父母が生きている頃には、盆正月は家族や親戚がこぞってこの家に集まったものだ。
海生が子供の頃は、夏休みは祖父母の元に預けられていて、子守のためにと毎夏私がこの田舎に呼び出され、勉強や仕事の合間に海生と遊んでいた。
海生が中学に上がる頃にはその習慣も無くなり、受験勉強に追われていたのか盆正月にも顔を合わせなくなった。海生との再会は三年ぶりになる。
「一紫 兄ちゃん?」
すっかり声変わりした海生が洗濯物を干していた一紫を呼び止める。その様相は記憶の中の子供の姿とはかけ離れていて、誰なのか気付けなかった。
スラッと背が伸びて手足がとても長い。伸ばしっぱなしの細い髪の毛が肩に付きそうで、元気な短髪のやんちゃ小僧はどこにもいなかった。
電話で相談を受けた時に聞いてはいたが、本人の強い希望でここへ静養しに来たのだと、海生を送ってきた従兄から改めて告げられる。
海生が原因不明の病に侵されたのは一年前からで、その症状は好転と悪化を繰り返しており、検査を繰り返しても病名すら特定されぬまま、手の施しようが無いと医師をも悩ませていて、海生の家族は頭を抱えているのだという。一紫の従兄である海生の父親もどことなく窶れたように見えた。
短い間の滞在でも、病に伏している息子の気分が晴れるのならと、この家に海生を連れてきたのだった。少々不便な古い家での生活は弱った病人の身体に障るのではないかと一紫は心配ではあったが、ここに連れてくると約束してから海生の様子が明るくなったと聞かせられては、断る事など出来なかった。
申し訳なさそうに何度も頭を下げる従兄を見送り、玄関から居間に戻るとまだ見慣れない姿の海生は懐かしい面影で満面の笑顔を浮かべていた。
「カズ兄、今日、夕方雨だって」
晴天で洗濯日和だ、と午前中のうちにせっせと洗濯物を外に干す一紫に、縁側にごろ寝セットをセッティングして横になる海生が、スマートフォンの画面を見つめたままに言う。
ここに来てから、海生はこのごろ寝セットを家のあちこちに運んでは一紫の側をついて回っているのだ。低反発素材のスリムな長座布団に、柔らかい手触りのタオルケット、キャラクターモノの大きめの枕。これを寝袋のように、上手いこと丸めて持ち歩いている。縁側にも居間にも一紫の自室にもついてきて、一応横にはなっている。貧血がひどくて立っている事すらままならないくせに、とんだ金魚のフンだ。こんな所は、子供の頃と全く変わっていない。
「カズ兄、カズ兄」とついてきては、祖父母に隠れてアイスやジュースを強請り、庭で見つけた蝉の抜け殻のコレクションを一つずつ摘んで自慢してきたものだ。
今は、枕に頭を埋めたままスマートフォンの画面か、こちらの様子かを代わる代わる眺めている。
初日に比べると、一紫が打ち鳴らすキーボードのタイプ音を子守唄に、眠っている時が多くなってきた。青く血管が浮いた白骨の様に枯れた手元から、画面が点灯したままのスマートフォンを取り外して、タオルケットをかけ直す。少し涼しくなってくる夕方に、仏間で、よく幼い海生と二人並んで夕寝をしたものだ。祖母が掛けていってくれるタオルケットの押し入れの匂いを鮮明に思い出す。
今日も海生は夕飯をかっ込んだ。
美味い美味いと喜んで、食卓に出した蓮根の糝薯を平らげる。何も残さずに食事を終えた後間もなく、気配を消したつもりの海生が便所で嘔吐する。
この家に来てからほぼ毎日、これの繰り返しだった。与えたものは何でも喜んで口にする。然し本当は全く身体が受け付けておらず、こうして吐き出してしまう。隠しているつもりのようだが、嗚咽が漏れ聞こえているのだ。昼間に要求されて食べさせたアイスは、庭先に吐き出したようだった。
殆ど胃に物を溜められていないのに、海生は用を足す頻度も高い。本人は頻尿なのだと笑って誤魔化してはいたが、明らかに身体に異常をきたしている。
食事と食事の間毎に、海生は薬を飲む。病院から処方されたものだと、よくある薬袋を広げては、オブラートにいくつかの錠剤と白い粉薬を盛って口にする。こうもたくさんの薬を飲んでいるのに、何故一向に海生の症状が改善されないのか、一紫は不安が募っていた。
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