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ニ、蟪蛄

 「雷、鳴ってる…?」  静かな午後に眠っていたはずの海生が顔を上げた。  「まだ遠くの方だ」  耳を澄ましながら一紫は答えた。海生がまたボリボリと脇腹を掻きむしっている。汗疹がひどいというので痒み止めを渡したが、効いていないようだ。  涼しい日は減って、暑く居心地の悪い日が急激に増えた。なけなしの貯金を叩いて、海生のために家に数台のエアコンを取り付けたが、海生自身はさほど汗はかいてないようで、助かっているのは一紫自身だった。  「そろそろ薬が切れるだろ、通院は?いつ行く」  パソコンに文字の羅列を作りながら、一紫は視界の片隅の海生に問う。しかし、返事は無い。汗疹を掻きむしる音だけが沈黙をなぞる。  「明後日、行くぞ」  「行きたくない」  具体的に提案した途端に、海生が我儘を言う。  「暑い、疲れる、動けない、無理」  ガキっぽい言い訳を並べ立てながら、ひねくれ者そのものに海生は拒絶する。  「ダメだ、ちゃんと治さないと…お前、家族に心配かけ過ぎだろ」  「なぁ、カズ兄…花火大会いつ?」  聞く耳持たずと言った噛み合わないやり取りで、海生は強引に話を流そうとする。病院と花火大会と、意味の無い頑なな押し問答の末、決裂したまま日が巡ってくる。  朝から、海生は荒れていた。  「絶対行かねぇ!!嫌だって言ってんだろ!!」  一紫が掴んだ腕を、海生は振り払う。軽い体に全く力が乗らず、逆に自分が重心を崩して転げてしまっている。そんな海生を抱え上げ、支度もさせずに一紫は車に押し込んだ。興奮したせいで逆に血が下がったか、病院についた頃には屍のように血色を失っており、脱力して歩けない海生のために車椅子を借りた。  地元で海生が通っていた病院ではなく、祖父母の家から少し街の方に入った所に出来た、新しい総合病院を訪れた。少しでも海生の治療の為になればと、一紫は近隣の中でも手厚くしっかりした病院を調べていたのだ。そして一紫が思った通り、入念な検査が行われる。  処置のために、看護師に車椅子をバトンタッチすると、海生は振り返り、憎々しげに涙を浮かべて一紫を睨んだ。そこから半日待たされる。ようやく帰る頃には、夕方に差し掛かっていた。  すぐに結果が出る物については説明を受けたが、確実な結果が出るには数日かかると告げられただけで、その日は帰される。帰りの車の中で、海生はずっと項垂れていた。怒っているのか拗ねているのか、更に長くなった髪の毛が多い隠していて、表情を確認出来ない。  「飛んで火にいる夏の虫って言うじゃん…あれって、火に飛び込んだ虫がアホくさいって事?」  唐突に不思議な事を言い出す海生に、一紫は持て余した溜息が漏れてしまう。  「人間には愚かに見えるって事だろ」  遠い帰り道のせいで日は落ちて、暗がりに信号の赤が冴え始めている。海生は、すっかり黙ってしまった。  「死ぬのが分かってて火に飛び込む気持ちは分からんが、本能に付き従って馬鹿正直に全うしてんだなってのはちょっとカッコイイかもな」  取り繕うつもりで一紫は言った。海生は、「うん」とだけ答える。通りには街灯が点き始めている。大きな蛾が光に纏わりついているのが見えた。

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