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前編

 吸い込む息は炎のように私の肺を焼き尽くしていく。すっかり渇いた舌が唇に張り付き、うっかり唇を切ってしまう。心臓はもう二、三分もすれば破裂してしまうかもしれない。足の感覚はとうになくなってしばらく。眼球に流れる汗で視界はぼやけ、ろくに前も見えない。  私は最早走っていると言うより這うように進んだ。  それでも私は走る事をやめない。やめられない。  私はなぜ、この土手道に差し掛かると自分を痛め付け力尽きるまで走ってしまうのだろう。早く、もっと早く──  高卒で都会の会社に就職し、同時に地元を離れ、結婚もせず蟻のように働き続けてもう三十年。四十で父が他界し、五十を前にして母が病に倒れた。家業は弟が継いだが、あれは子供もまだ小さくとても母の面倒にまで手がまわらない。かと言って、地元では名の知れた大店である芳井(よしい)──私の実家だ。が、大奥さんを施設に入れる事は地元住人達がよしとしない。そこで独身で身の軽い私に白羽の矢が立った。  私は定年を十五年残し、退職して実家に移戻ってきた。  幼い頃慣れ親しんだ母屋の古い日本家屋は、今は管理費との名目で入場料を数百円取り、年中他人に開放されていた。母が具合のいい時などは家の歴史や造形を案内している。母と弟達が住むのは同じ敷地に増設した小綺麗な平屋の近代家屋だった。  初めて現状を目にした時、言い様のない淋しさが胸を押し潰した。  古い母屋に特に愛着はなかった。むしろ、申し訳程度に傘を被った電球ばかりが照明で、あちこち光の届かない闇がくすぶり、風の強い日には家中の窓側がたがた騒ぎ、歩けばぎしぎしと音が後を追ってくる廊下などは幼心に恐怖しかなかった。ついでに言えば生まれ育ったこの田舎も嫌いだ。だから忙しさを理由にして、父の葬儀以外では一度も帰らなかったのだ。  しかし大勢の人が出入りし、家中を踏み荒らす様を見ると、私の胸は何度も何度も押し潰されて、やがては完全に潰れて再起不能になってしまうのではないかと思うのだ。  そうなってはたまらないので、私はしばらく前から母に手が要らない時は散歩をする事にした。どうせ店に出ても役には立たないし、新居に居たところでやる事もない。  私の散歩は、幼い自分を追いかけるものだった。  近所の寺、ここの幼稚園では毎朝の乾布摩擦が嫌でたまらなかった。裏の林は鬱蒼としていて、何度か肝だめしに来た事がある。いつもおいてけぼりをくらって一人泣いたものだ。そのたび村の大人を総動員して探し出され、子ども心に申し訳なかった。  その向かいの八百屋では、一度万引きをして──未遂に終わったが。母から火が出る程尻を叩かれた。泣きわめいて謝る私を同じく泣きながら抱き締めた母が、一緒に八百屋の主人に謝ってくれた。  八百屋の脇にある駐車場を抜けて、当時はまだ鋪装もされていなかった住宅街を貫く道路の先にある坂を越えれば、細い川がある。今では見る影もなく濁ってしまっているが、昔は素足で浸かり魚や蟹を追い回す事もできた。  中学に上がり自転車通学になると、帰りに歩いては行けない遠くにまで出掛けて、陽が落ちてから帰宅すればやはり母に鬼の形相で叱られた。  そして、この土手道。  毎日少しずつ幼い自分をたどり、思い出を胸で転がせば、それは雪だるま式にどんどん膨れ上がり、多くの忘れていた事──路地、空き地、駄菓子屋、空、野良猫、放置自動車、秘密基地、タイムカプセル、実に様々なものを巻き込んで脳みそから取り出してくる。その中にあったのが、この土手道だ。春には菜の花が咲き乱れ、夏には牧草が青々としげり、秋にはすすきがさらさらと波打ち、天気のいい日には陽の光がきらきらと反射する川を見下ろせる土手道。  昔に歩いた道を足は覚えていて、頭で思い出すよりも早く私をここに導いた。  デスクワークの多かった私の足腰はすっかり衰えていて、土手に上がる道を登っただけで既に息が切れていた。しかし土手道に出た途端、私は無性に走りたくてたまらなくなり、勝手に走りだそうとする足を擦り、疼く体を両手で抱いて抑えていたが、とうとう、抑えていたバネをうっかり放した時のように、弾かれて走り出してしまった。  毎日、毎日、息ができなくなっても足が鉛のようになっても心臓がもう耐えられないと訴えても。  そんな事を半年近く続け、私はすっかり痩せてビール腹も消え去り、肌に艶が出て、退職前より体力もだいぶついた。心配していた血糖も血圧も今ではすっかり正常値。医者には誉められ弟からは不審がられ、母は嬉しそうにしていた。  初めに走っていた頃より、距離がだいぶ伸びた。夕方の土手道は他にもジョギングする人が多い。勿論私は彼らと違い好きで走っているわけではないのだが、傍目に見れば違いはない。狭い田舎町だから、私を芳井の長男だと知る年寄りが現れるのに時間はかからなかった。 「シゲさんとこのマサ君じゃなかね?」  シゲさんとは亡き父の事だ。年寄り達は私を名ではなく「シゲさん家のマサ」もしくは「長男坊」としか呼ばない。ここではそれが私の名なのだ。弟はちゃんと名前で呼ばれるのに。私がここを嫌いな理由の一つだ。 「いつ帰ってきたと。挨拶もなしとは水臭せぇな」  今走りながら私に唾を飛ばしながら嬉しそうに声をかけているのは、近所に構える工務店の棟梁、通称テツさん。本名は知らない。彼は私が就職した頃と風貌がほとんどかわっておらず、それでどうにか思い出せた。  私は適当に相槌をうちながら、テツさんの話を右から左に聞き流していた。彼の話と言えば、亡き父や病床の母、三代目の弟、それに四代目になる予定の甥の話しかない。私にはそのほとんどが関係のないものだ。ところが、そのテツさんの口から気になる名前が出てきて私は走る足を緩める。 「この土手に長男坊とおると、カツ坊を思い出すなぁ」 「カツ坊?」 「おっと、なんでもなかよ」  私は足を止めた。カツという名前が、光の届かない深海の底に探査艇が降り立った時、ライトに照らされたどこまでも滑らかな海底の砂が舞うように、私の記憶の奥底をざわめかせる。  俯いて動かない私に、テツさんは大丈夫かと声をかけてくれたが、言葉少なに別れを告げ全力でその場を離れた。テツさんが何を誤魔化したのかも気になったが、そんなことはどうでもよくなる程、酷い胸騒ぎで目眩がしそうだった。  早く、早くもっと早く。ああ、なぜ私の足はこんなにも遅いのか。もっと早く走らなければ、追い付けないのに。  何に? 何を追って走る?  陽が落ちて川が闇に浸っても、私は走り続けた。もう帰る体力も残っていない。土手道を少し降りて、破裂しそうな心臓が口から飛び出さないよう口を押さえ、肉離れ寸前の足を投げ出し、草に体を預けた。  広がる空は満天の星。こんなにへとへとに疲れたのも、仰ぐ星空も、頬を撫でる草の匂いのする風も、都会では決して味わえないものだった。  そのまま風がさわさわと草を撫でる音を聞きながら、私は浅い眠りに落ちていった。酷使した体はふわふわと宙を漂い、やがて形もなくなり、意識も霞と消えた。  ──私は土手道に立ち、川岸の草むらに埋もれて喧嘩をしている二人の少年を黙って眺めていた。いけない、止めなければ。今止めなければ、一生後悔する──しかし間に割って入った私の体をすり抜け、二人は取っ組み合いを始めてしまった。絡まり、転げ、棒立ちに見ている私からどんどん離れていく。  駄目だ、やめろ、やめてくれ。お願いだからやめてくれ!  二人が離れ、背の高い方の少年が後ずさった時、そこはもう岸の終わりだった。ごうごう流れる川は、少年を息つく間もなくさらってしまった。瞬きをする暇もなかった。茶色の濁流のどこを探しても、黒の学生服はとうとう見つからなかった。一人残された方の少年は、しばらく茫然とたたずんでいたが、やがて鞭を打たれた馬のように走り出した。川下に向かって、力の限りに走って行った── 「カツ兄ぃ!」  私は自分の寝言で目を覚ました。何か酷く恐ろしい夢を見ていたようだが、思い出せない。  起こそうとした体に草がまとわりつく。身体中汗びっしょりで、髪もシャツも張り付いてしまっている。まだ寝汗をかくには涼しい季節だ。これは今の夢が原因だろう。起きた時に落ちたタオルを拾い上げ汗を拭く。辺りはすっかり闇が落ちている。遠くに見えるはずの町明かりも少なく、土手を照らすのは星と月明かりだけ。  ふと、川岸で人影のようなものが揺れた。暗闇に目が慣れてくると、それは詰襟の学生だった。川を眺める後ろ姿、短く刈られた髪が田舎くさい。  腕時計は十一時を指していた。ほんの十分程眠ったつもりが数時間経っていた。こんな時間に一人でこんな場所に居るなんて、訳ありだろう。私は少年を放っておくべきか、声をかけるべきか少し悩み、土手を降りた。いくら平和な田舎と言えど、何があるかわからない。 「こんな時間に一人で居ると危ないよ」  少年は突然声をかけられびくりと肩を震わせ、おずおずと振り向いた。明かりが乏しいため、私を見上げる顔は輪郭も曖昧で、細かな情報は読み取れない。 「こんなド田舎じゃそうそう事件なんて起こらねぇよ。おっさんが不審人物じゃねぇならな」  少年はぶっきらぼうに言うと、ジャージ姿の中年男には興味なさげに顔を川に戻した。少年の隣に座ってみたが、ちらともこちらを見ない。 「見ない顔だな。この辺の子かい?」 「おっさんこそ見かけねぇな。あれか、脱サラして田舎暮らししに来たとかいうアホか?」  こんな町、一つもいい事はないと、少年は吐き捨てるように言った。 「いや、母が倒れて実家に帰ってきたんだよ」  二度とこの地の土を踏むことはないと思っていたのに。 「じゃあおっさん早く帰らねぇとヤバいんじゃねぇの」 「夜は弟夫婦が居るからたまにはいいさ。君こそ、早く帰らないと両親が心配するんじゃないのかい?」  少年は相変わらず私を見ないが、話かければちゃんと反応する。こんな時間に一人黙って川を見ているような子だから、いじめられっ子か、大人しいタイプだろうかと思ったが、むしろお喋りのようだ。口も悪い。 「心配なんてしてねぇよ。俺にも弟が居んだけど、みーんな弟のがかわいいみたいでよ。俺が何やっても無関心さ」  少年はいつも、こうして遅くまで時間を潰し、家族が寝静まった頃に帰るのだと言う。この町にはゲームセンターやネットカフェ、二十四時間営業のファミリーレストランなど気の利いた店は一つもない。そもそも、あったとしてもこんな時間まで居ては補導されてしまう。この川岸は暗く人の訪れもほとんどなく、丁度いいらしい。  しかし何時間も一人で居て退屈しないのだろうか。私がそうたずねると、少年はちらりと私を見て、すぐに足の間に顔を埋めた。眼下の地面に向かってぼそぼそと呟く。 「前は一人じゃなかったんだけどよ、今はもう居ねぇんだ……」  私が何か言う前に少年は勢いよく立ち上がり、足元の小石を拾い上げた。しばらく握りしめていた小石を思いきり川に向かって投げ、また小石を拾う。拾っては投げ、拾っては投げ。  やがて手近な小石がなくなると、少年は黙ってその様子を見ていた私に初めて体ごと顔を向けた。 「なぁおっさん、俺いつもここに居るからさ、話し相手になってくんねぇ?」  母の世話があるから毎日は来れないと言うと、少年はそれでもいいと答えた。  その日から私は時々、時間の許す日は少年と夜中まで過ごした。彼は決まって陽が落ちると現れ、日付が変わる前に帰った。  彼はいつも都会の話を聞きたがった。 「卒業したら都会の会社に就職して、こんな町とっととおさらばしてやる」  都会ではこの満天の星空もなく、空気は草ではなく排気ガスのにおいがして、人々はすれ違う人と目も合わさずいつも忙しそうにどこかへ向かう。時間に追われ、自分の時間もろくに持てず、毎日が矢のように過ぎていく。  こんな話をすれば都会への憧れも薄くなりそうだが、彼は瞳を輝かせ私の話に聞き入った。輝かせると言っても、暗闇でろくに顔も見えないから実際はわからない。彼の嬉々とした声に私がそう感じているだけだ。  私もそうだった。窮屈な生活から開放された今になっても、都会への未練が断ち切れない。と言うより、やはり実家が、もっと言うならこの町が好きになれない。 「なんか俺とおっさんって似てるな。将来おっさんみてぇな枯れたジジイになったら嫌だなぁ」 「枯れたって……私はとうとうしなかったけど、結婚すればそんな枯れないだろ」 「結婚かぁ……俺も結婚しねぇだろうな」  なぜと聞けば、彼は黙って対岸でぽつぽつ灯る町明かりを見つめた。他に見るものがなく何となく見ているといった様子だ。やがて彼は立ち上がって石を取り、最初の夜と同じく黙々と川に投げた。 「この川、雨の翌日なんかは近づくなっていつも親に言われてたんだけどよ。おっさんもそうだったんじゃねぇ?」  そう、この川は浅く、普段はとても穏やかで夏になると水遊びができる。しかし雨が降って少し嵩が増すと途端に牙を剥く。昔は子どもが流される事故が絶えなかった。それで口酸っぱく言われたものだ。雨が降ったら絶対に川に近づくなと。 「でも小さいガキじゃねぇんだから近づいても川に入らなきゃ大丈夫だろって思ってたんだ」  切った言葉の先を促すための相槌に彼は口を開くも、言葉を喉に詰まらせたようでしきりに息を飲み込んでいる。  やっと口から出たのは、言葉ではなく音だった。肺を詰まらせたような嗚咽。彼は学ランの袖で乱暴に目もとをこすり、鼻を大きくすすった。 「……あっと言う間だった……俺がもっと早く追いかけてりゃ、助けられたかもしんねぇのに」  鼻声でそう呟くと、彼はそれから押し黙り、茫然と立ち尽くしているように見えた。  ここで、誰かを亡くしてしまったのだろうか。それは、以前は一緒にここに居たという人だろうか。だから一人になってしまった今でもこの場所に来るのだろうか。だから、都会に行きたがっているのか──  浮かんだ疑問を、何一つ口にできなかった。本当は泣いてしまいたいだろうに、それを堪える彼の悲壮な背に、何一つ、声も掛けられなかった。  そうして二人は長いこと黙っていたが、やがて彼が、もう帰る時間だと土手を上がって行った。いつもは彼が帰れば私もすぐに帰るのだが、この日はそうしなかった。しばらく、暗闇に溶け込む川を眺めていた。 「兄貴! こんなとこにおったとか!」  どれくらいそうしていたのか、眠っていたのか起きていたのか分からない。頭の中に霞がかかったようにすっきりしない。  高いところから聞こえた呼び声に振り向くと、土手道で大きく手を振るシルエットが確認できた。  道まで上がると、弟に懐中電灯で全身を照らされた。一向に帰ってこないので携帯を鳴らすと、私の部屋から呼び鈴が聞こえるばかりなので探しに来たらしい。 「悪い、携帯忘れたんだ。今何時だ?」 「夜中のニ時。全く、よりによってこんなとこで何しよったと」 「別に……ちょっとぼんやりしてただけだ」  まさか、私は三時間近くぼうっとしていたのか。弟から若年性じゃないのかとからかわれたが、笑えない。  自転車に乗ってきていた弟は、懐中電灯を渡して自転車を押す。チェーンの音と、二人の足音だけが辺りに響く。夏を迎えていない田舎の夜は静かだ。車の通る音さえしない。  私達はどちらともなく話し、いつの間にか近況から昔の思い出話に変わっていた。思えば、弟とこうして話すのはここに帰って来て以来初めてかも知れない。と言うより、あの少年以外で初めてだ。 「そう言えば、よりによってって、なんだ?」  もう家もすぐそこというところで、ふと先程の発言が気になった。弟は足を止め、怪訝そうに言う。 「兄貴、覚えてないと?」 「何を?」 「……覚えてないなら、思い出さん方がよかよ」  私が何か言う間もなく、弟は足早に家に入って行った。  その日から心労が祟って母が体調を崩した。快復してからもしばらくは散歩をやめ、母の側にいた。私は未だこの家に長いこと居られないので落ち着かないのだが、母の件は私のせいなので我儘は言えない。  かつての母屋に他人がずかずか入るのはだいぶ慣れたが、家族に馴染めないのだ。母はずっと気を使って不自由な体をなかなか私に預けようとしないし、弟は一見気が置けないようだが、実はどこか本音を隠しているように思う──だから結局あの土手で何があったのか聞けなかった。弟嫁に至っては完全にゲスト扱いしてくるし、なんだかこの家自体がよそよそしく感じる。これでは私が帰郷した意味があるのかないのか。そんなわけで散歩に出ない毎日にすっかりストレスが溜まってしまった。

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