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中編

 ようやく再び散歩に出られるようになったのは、一月程経ってからだった。  いつものように限界まで走ったあと、いつもの土手に向かった。少年がどうしているのか心配だったのもあるが、散歩の最後にここへ来るのはすっかり習慣になっていた。  一月で人の背丈程まで伸びた牧草をかき分ける。感覚だけを頼りに少年と話していた場所を探すが、一面背高の牧草じゃあ永遠にたどり着けない気がした。いい加減諦めようかと思った時、近くで少年の声がした。 「ずーっとがさがさやってたから、おっさんが来たんだろうと思って」  少年は牧草をなぎ倒して作ったらしいぽっかりと開けた場所に居た。小さな秘密基地のようだ。 「久しぶりじゃん。もう来ねぇのかと思った」 「母親が体調崩してね。しばらく自重してたんだ」 「前回後味悪い終わり方したろ? だからちょっと気にしてたんだぜ。おっさん、ああゆう暗い話嫌いだったのかなーとか」 「いや、タイミングが悪かっただけだよ」  少年は、続きを話してくれると言う。いつも私の事ばかり話させていたから、少しくらい自分の事も話さないとフェアじゃない、と。 「仲が良い兄ちゃんがいたんだ。よくある、近所の面倒見のいい兄ちゃんってやつだけど」  田舎じゃ向こう三軒両隣、全部親戚みたいなものだ。そのなかに歳の近いのがいて、物心ついた頃から兄弟のように育ったらしい。よく二人でこの土手に来ては、良いことも悪いこともやっていたのだとか。 「悪いことっつってもたかが知れてるけどな。隠れて煙草吸ったりとか、そうゆうやつだよ」  充分悪いと小突くと含み笑いが返ってきた。まぁ、私も経験者なものだから、あまり強くは言えない。 「勿論仲が良い日ばっかりじゃなかったぜ。喧嘩もしまくったよ。周りの大人は、喧嘩するほど仲が良いとかなんとか言ってほったらかしだったけどな。だけどあの日だけは……止めて欲しかった。いや、こんなとこで喧嘩なんかしなきゃよかったんだ」  雨の翌日だった。いつも、雨でも雪でも構わずこの土手に来ていた。今まで一度も危険な事なんかなかった。  その日少年は「兄ちゃん」に自分の秘密を打ち明けようとしていた。しかしその話を切り出す前に、ささいな事で喧嘩になってしまった。なにかと彼の話をはぐらかす「兄ちゃん」に対し無性に腹が立ち、それは大げさな取っ組み合いにまで発展してしまった。喧嘩にはよくあることだ。思ってもいないことを言ってしまったり、過去のあれこれを掘り起こしてみたり。なまじ体力の有り余っている青少年の喧嘩は、止める者がいないといつまでも続いた。  ひとしきり暴れてすっかり疲れたところで、二人は距離をとって一息ついた。その時、なにか足場の悪いものを踏んだのか、立ちくらみでもしたのか「兄ちゃん」がよろめいて半歩下がった。  瞬きしたあとにはもうそこに「兄ちゃん」は居なかった。  あたりはすっかり暗く、喧嘩に夢中になっていたため、自分達が岸の終わりまで来ていることに気がつかなかった。思い至って岸辺まで行くと、前日の雨で嵩が増し、ごうごうと流れる音に紛れて僅かに声が聞こえた。目を凝らすと、川下でもがく人影がかろうじて見えた。転がるように駆けたが、もう追いつけないところまで流されてしまっていた。心臓が破れるかと思う程走ったが、距離は広がるばかりだった。 「土手道から見ていた人が気付いて、すぐに消防団を呼んできたけど、もう兄ちゃんは見つからなかった。翌日朝一番で警察も来て一日中捜索したけど、それでも見つからなかった。その翌日も、翌々日も。そのうち誰も探さなくなって、兄ちゃんの両親だけが毎日必死に探してた……半年くらい経ってから、泣く泣く葬式上げてた。空の棺桶が、すげぇ軽くて……」  その後すぐ「兄ちゃん」の両親は引っ越し、音信不通になり、完全に消息がわからなくなってしまった。親戚は多く残っていたが、誰にも行き先を告げていなかった。 「俺のせいだ! 俺がもっと早く気付いて追いかけてれば、いいや、くだらねぇ事で喧嘩しなけりゃ! そもそも、俺の気持ちを、兄ちゃんに打ち明けようなんて思ったのがいけなかったんだ!」  少年は大声で泣き崩れた。きっと今まで誰にも言えなかったのだろう。フェアじゃない、などと理由を後からつけてまで話したのは、何も知らない私が丁度よかったのだ。  私は彼が落ち着くまで震える背を撫でてやった。暫くすると酷い鼻声で謝罪と礼を言った。  ブラウスで涙を拭っているようなので首に掛けていたタオルを渡してやると、汗臭いと言われた。 「おまけに加齢臭までするし」 「嫌なら返しなさい」 「いや……使うよ、サンキュ」  少年は遠慮なく鼻をかみ、大きなため息を吐いた。多少は鼻通りがよくなったようだ。タオルを返そうとした手を、好きなようにして構わないと押し戻した。 「……誰かが、君を責めたのかい?」 「誰も……兄ちゃんの両親も、責めやしなかったよ。事故だった、兄ちゃんの注意が足らなかったんだから、俺が気に病む事はない、ってさ。懺悔する暇もくれなかった」  彼は鼻を啜り、無念そうに言った。 「そんでもって、兄ちゃんの分まで生きろ、幸せになってくれ、だとさ。馬鹿みたいに責められた方がよっぽどよかった。俺のせいで兄ちゃんが死んだのに、もうこの世のどこにも兄ちゃんは居ないのに、どうやって幸せになれってんだ……」  小さくなっていく少年の声。声と一緒に少年まで消えてしまいそうな気がして、私はまた彼の背を撫でた。 「君の話を聞く限りでも、私もそれは事故だったと思うよ。けど、責任を感じる事はないとは言わない。やっぱり、きっかけを作ったのは君だ」  少年は黙って私の言葉に耳を傾ける。 「だけど、いつまでもそうしてちゃいけない。いつかは乗り越えて、君なりの責任をとって、前を向いて生きていかなきゃいけないと思うよ」  しばらく少年は黙っていたが、背にあった私の手を払いのけてこちらを向いた。  月と星の明かりだけでも、慣れてくると色々見えるものだが、相変わらず少年の顔は見えない。少年からも私の顔は見えていないはずだが、視線が合ったように感じる。それも、敵意のある視線が。 「オッサンはどうなんだよ。逃げるように里を出て、三十年も帰らなかった自分と向き合った事あんのか。都会で幸せになれなかったのは、そうしちゃいけないって思って逃げてたんじゃねぇのか」  そう言われて、私は全身が緊張して強張ってしまった。  別に、逃げたわけじゃない。ただ嫌いだっただけだ。 「だったら嫌いな理由ってなんだよ。てか、どっちにしたって嫌いなモンから逃げてんじゃねぇか」  それは、田舎独特のしきたりみたいなものとか、近過ぎる人との距離とか、跡継ぎのこととか。 「だからって都会が好きなわけじゃねぇんだろ。身一つで帰郷できたくらいだし。跡継げって言われた事だってねぇのに。本当は好きなのにわざわざ嫌いになって逃げて、挙げ句そのザマかよ。てめぇにできなかった事を俺に押し付けんじゃねぇ!」  彼は一息に捲し立て、私が何か言う暇も与えず牧草を掻き分け帰ってしまった。  私は、少年の言葉に胸がえぐられるようだった。彼の言うような気持ちはない。それなのに、なぜか秘密を言い当てられたような気分だ。  時として心というものは気持ちとは裏腹な場合がある。しかもそれに自分で気付けないから厄介だ。しかし、仮にそうだとしても、私にはその原因がない。  私は少年が帰った後も暫く一人思案していたが、また家族を心配させてはいけないので足早に家路についた。  それにしても、私は少年にそこまで詳しく身の上を話しただろうか。聞かれるままに答えていたからよく覚えていない。  それから少年は土手に来なくなった。何かあったのではと不安にも思ったが、少年の素性を知らないのでどうしようもなかった。毎日すれ違う人達にも、今までは会釈だけで済ませていたところを、思い切って話し掛けてみたりもした。感激してこちらの話を聞いてくれないものだから、本題まで随分かかってしまった。  しかし誰も、少年の事は知らないようだった。小さい町なので大人は子供のことを大体把握しているのだが、皆して首を傾げるばかりだ。  一度、学校を訪ねてみようかと思ったが、流石にやめておいた。  何かあれば自然と耳に入るだろうし、何もなければまた姿を表すだろう。  私は少年と話した土手にさしかかる度、少年の小さな背中と、最後に言われた言葉を、繰り返し思い出すのだった。 「最近は結構うまくやってるみたいやん。兄貴のこと聞いてくるお客さんが随分増えたよ」  母屋に昼食を摂りにきていた弟は嬉しそうに言った。  少年のことがきっかけで、土手で会う人とはよく話すようになった。土手以外でも、立ち話程度はするようになった。気が付けば、昔の友人にも会うようになった。思えば、無意識に避けていたのかもしれない。  友人とは時々飲みに行ったりもしている。一度、歓迎会と称して同窓生を集めてくれた時は、素直に楽しかったし、懐かしかった。 「まぁ……いつまでも自分の世界に閉じこもってもいられないよ」 「あとは早くいい人でも見つけて、お母さんば安心させてやってよ」 「そうだなぁ……」  弟は食後の一服を終わらせると、ろくに休みもせずエプロンをつける。母の世話以外ではほとんど家に居なかった私は、弟が働く姿もほとんど知らない。もっと言えば、店の現状も知らない。 「もう行くのか? そんなに忙しいのか」 「いや、そうでもなかけど、家の事もしてくれとる嫁さんを少しでも休ませてあげたいやん」  弟は少し照れ臭そうに笑って、最後に「いい人って、結婚しろって意味じゃなかよ」とわざわざ言い置いて行った。  今まで前向きに恋愛をしてこなかったのだ、今更こんな、町ごと家族のような田舎でいい人など見つからないだろう。かと言って、よその町まで繰り出すアクティブさももう無い。母には悪いが、こればっかりは諦めてもらうしかない。  私は弟が洗い桶につけていった食器を片付けて母の部屋に向かった。普段は気にも留めないが、弟の一言がなんとなく気になったのだ。退職金から生活費を入れているとはいえ、私がこの家でしているのは母の世話だけだ。少しは家事を手伝ってみよう。  はじめ弟嫁は恐縮して頭を振ったが、私も一人暮らしが長く慣れたもので、一週間程経つと笑顔で「お願いします」と言われるようになった。  夜も暇になってしまったので、高校受験を控えた甥の勉強を見て欲しいと頼まれた。見てやれるものは無いと言ったが、とにかく怠けないように注意していて欲しいのだとか。いくら家業を継ぐのに学歴は必要ないと言っても、芳井の四代目が中卒というわけにはいかないだろう。  そうして少しずつ忙しくなってくると、少年の事を考える暇が減っていく。やがては時折思い出す程度になっていた。  そんなある日、いつもの散歩中に店の用事から戻る弟と一緒になり、帰る道すがらあの土手に差し掛かった。私はふいに少年の事を思い出し弟に尋ねた。 「そう言えば、最近ここで子どもが流されたんだって?」  弟はきょとんとして答えない。 「最近って言っても、数年単位の話だけど」 「いや、もう三十年近く川の事故は起きてなかよ」 「え……」  そんなはずはない。私が帰郷する前、それが何ヶ月前か、何年前かは分からないが、少年の「兄ちゃん」が流されたのだ。知らないはずはない。 「多分、高校生くらいの男の子だ。流されたって聞いたけど」 「高校生……? ああ、それは最後の事故で……」  言いかけて、弟は青ざめた顔で振り向いた。 「……それ誰から聞いたと?」 「誰って……いや、誰かは知らない。いつもここで話してた少年から聞いたんだ。少年のお兄さん代わりだった子が流されたって。酷くショックを受けてるみたいだった……そう言えば元気にしてるかな」  弟は青い顔を今度は白くさせて、頭を抱えて唸りだした。 「どうした、大丈夫か?」 「大丈夫……早く帰ろうか……」  頭を振って弟は歩き出したが、足許が怪しい。一体どうしたんだと繰り返し聞くが「帰ったら話す」とだけ。とりあえず弟を気遣いながら家に急いだ。  着くなり弟は母の部屋へ直行し、暫く出てこない。仕方がないので私はシャワーで汗を流し、よく冷えた缶ビールを飲み干す。ツマミはないかと冷蔵庫を開けたところでやっとお呼びがかかった。 「一体何だって言うんだ?」  部屋では、介護ベッドを起こした母と、ほとんど使わないバタフライテーブルを広げた弟が深刻な顔をして待っていた。  とりあえず弟の正面に座り、二人の様子を伺う。弟は息を飲み、母と視線を交わすと乾いた声で話し始めた。 「さっき、兄貴が話した事故は確かにあったよ。卒業を目前にした高校生の男の子があそこで流されたことがあった。町の皆の記憶にも鮮明に残っとる」  なんだ、事故はあったんじゃないか。  二人と自分の温度差になんだかおかしくなり、私はふっと鼻で息をついた。 「その事故が起きたのはもう三十年くらい前になる。それ以来、川の事故は起きとらん。皆でお金ば出し合って、ずらっと柵ば張ったけん」  そんなものあっただろうか。そもそもあの土手で少年と会っていたのは暗くなってからだったし、道からは見えないのかも知れない。  それより、また三十年。 「当事者の男の子から聞いたんだ、三十年も経つわけないだろう。それに三十年だったらまだ私も高校生だ、そんな大きな事故があったらなら覚えてるよ」  弟と母は、また目を合わせて表情を曇らせる。その目は覚えがある。憐れみだ。二人して、私を憐れんでいる。  私の疑問には答えず、弟は当時の事故について話しだした。 「……あれは悲しい事故やった。当時隣近所で兄弟みたいに仲が良い男の子がおって、流されたのはその片割れやった。些細な事で喧嘩して、うっかり足滑らして、あっという間に流された。一人息子を亡くした両親は、引っ越して行方知れずになっとったけど、とうとう骨だけで帰ってきた」  少年の話と概ね同じだ。その事故の事で間違いないだろう。なんだって三十年も前の事になっているのだろう。  聞いた話をあたかも自分の体験のように記憶を書き換えてしまうような、そんな人間も世の中にはいるらしいが、少年がそうだとは思えない。 「誰も、残された方を責めたりはせんかったけど、自分のせいだって、随分思い詰めとった。自分で自分を責めて、責めて、(しまい)には、兄貴って慕っとった子の事ごと、事故の記憶を失くしてしまった。それ以来、町では事故の話しはタブーになった。特に本人の前じゃ気をつけようって。兄貴が帰ってくる事が決まった時、集会開いて再確認して、柵の点検もしたとよ……」 「……馬鹿な」  私はふらふらと母の部屋を出た。リビングに降りてきていた甥が何やら話してきたが、何も耳に入らなかった。店から母屋に向かう弟嫁が何か言っていた。向かいの主人も何か言っていた。工務店の前でテツさんが手を振っていた。  皆笑顔だった。

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