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後編
気が付けば、いつもの土手道に立って川を見下ろしていた。
今は何時だろうか。だいぶ陽が長くなってきた。風に様々な料理の匂いが混じっている。夕食時だろうか。
わからない。少年はもう土手に来ない。「兄ちゃん」とは、誰だったのだろう。少年の話した事故は、本当に起きた事だったのだろうか。いつ、起きたのだろうか。確かめる術は何もなかった。
あの少年は、誰だったのだろう。
弟の話を頭の中で繰り返す。三十年前の事故。高校生。兄弟のように育った二人。記憶をなくしたらしい、誰か。
私は、何故、その事故を知らないのだろう。
「こんばんは。夕涼みですか?」
声を掛けられ振り向くと、詰襟の学生が佇んでいた。すらりとした立ち姿で、明るい髪が風にふわふわと靡いている。微笑む顔は、何故か懐かしい感じがした。
「まぁ……そんなところかな……君は? そんな格好を見ると、涼みに来たわけではなさそうだね」
真っ黒の学生服は随分暑そうだが、汗ひとつかかず涼し気に微笑んでいる。
私が返事をすると、驚いて目をぱちぱちさせた。
「……そう、涼みに来てるわけじゃないです。人を待ってたんです」
「待ち人は来たのかい?」
「随分待ちぼうけ食らわされましたけど、やっと会えました」
「そうか、それは良かった」
「あの……初対面の人にこんな事頼むのは失礼だとは思うんですけど」
彼は、私の顔を覗き込むようにして頭を傾げ、にこにこと切り出す。初対面ではあるが、町の子どもなら知り合いの子供だろう。面倒は起こるまい。
「ここに毎日来ていた少年に、伝言をお願いしたいんです」
「あの子の友達かい? だったら、直接言えるんじゃないかい?」
「ちょっと、会えないから」
喧嘩でもしているのだろうか。まぁ、伝言くらいはお安い御用だ。最も、少年がまたここへ来るならば、だが。
「来ますよ、必ず。それと、ちょっと面倒臭いんですけどもう一つあって。探しものを手伝って欲しいんです」
なんだ、頼み事は一つじゃないのか。探し物とはちょっと面倒そうだが、一度引き受けてしまったので断るのもかわいそうだ。
「検討はついてるんです。ここから少し下流に行ったところに、小さな中州がありますよね。そこの上流側先端の川底を調べて欲しいんです」
「場所がわかってるんだったら、自分で探しに行きなさいよ」
「恥ずかしながら、水が怖くて」
「あ……そうか、すまない」
子どもでも大人でも、人には様々な事情があるものだ。詮索はすまい。
まだ辺りも明るいし、最近は日照り続きで川も穏やかだ。探しものはすぐ見つかるだろう。
「ありがとうございます。ああそうだ、伝言の内容を言ってませんでしたね」
「あまり長いと覚えられないよ」
書くものを持っていない。携帯も忘れてきている。見たところ、彼もそういったものを持っているようには見えない。
「大丈夫、短いんで。お前のせいじゃない、幸せになって欲しい……そう伝えて下さい」
「……君は、まさか」
「それじゃあお願いしますね!」
私が言い終わるのも待たず、彼は笑顔で手を振って走り去った。私はその後ろ姿を見えなくなるまで見つめていた。
その背景で、陽が傾きだしていることに気付き、急いで下流に向かった。暗くなる前に探さなくては。
そう言えば、見つかったものはどうすればいいだろう。聞き損なってしまった。まぁ、土手の少年と違い特徴は覚えたから誰かが知っているだろう。
遠くに見えていた中州へは、十分程歩いただけで着いた。中州は古くからあるようで、小さいながらも木々が生い茂って島のようだ。上流側の先端、一際大きな木が生えているところか。
弟の言った通り、川岸には柵が張り巡らされていた。大人の腰程度の高さで簡単に乗り越えてしまえるが、子どもの転落防止という役目は果たしているらしい。私は裾をまくり柵を越えて川へ入る。
汗ばむ季節に、川の冷たい流れが気持ちいい。幼い頃はよく川で遊んだものだ。釣りをしたり、どこまで泳げるか競争したり、砂利ばかりの中州へ渡って花火をしたり。ああ、誰とだったっけ……
目的の中州に上がったところで、生い茂っているススキの葉で足を切ってしまい、思い出の中から戻ってきた。
私は一体、何をしているのだろう。
ふらふらと家を出てきて、初対面でどこの誰かも分からない子どもの頼みを聞いて川なんかに入って。弟の話を聞いてから、思考がまとまらず、頭もぼんやりとして心をどこかへ置いてきてしまったような感覚がする。
いや、もしかすると、ずっと前から私は心をどこかへ置き忘れているのかも知れない。
そう、ずっと昔、三十年前、高校生の頃、この川に。
川底をさらうと、澄んでいた水はすぐに茶色く濁った。半径一、二メートルの範囲をくまなく歩き回り、川底を探る。それらしいものはすぐには見つからず、砂利と砂ばかりの川底を掘っていく。
考えが甘かった。探しものがどんなものか聞き損なってしまった。大きさも形状も分からない。濁って手元も見えない川の中では容易には見つからないだろう。
安請け合いしてしまった事を後悔しながらも、とりあえず陽が沈むまではと、川底を掘り続けた。
もう少し捜索範囲を広げてみようか、思いながら腰を伸ばした時だった。私はバランスを崩し転倒してしまった。すっかり濡れてしまった事に苛々しながら起き上がろうと手をついたところに、砂利とは違う手応えを感じた。
随分埋まっていたそれを掘り出すのは苦労した。やっと川から引き上げた岩のようなそれは、人間の頭蓋骨だった。
私は頭蓋骨を持って中州へ上がった。持つ手が震える。膝はがくがく笑っていて、すぐに立っていられなくなった。雷に打たれたかのように、全身の毛が逆立つ。そして涙が、とめどなく溢れた。私は頭蓋骨を抱き締めた。
「兄ちゃん……! ああ……ごめん、ごめんよ……!」
長年川底に埋まっていた頭蓋骨は泥やごみにまみれて滑っていた。とても冷たく、ゴツゴツとしていた。眼窩からは小石が転げ落ちた。下顎が外れて落ちた。それでも私は、それを抱き締め泣いた。無残に崩れた頭蓋骨に、未だ魂が残されている気がした。
どれくらいそうしていたのだろうか。やがて私の泣き声を聞き付けて集まった人達に中州から川岸に引き摺り戻され、その後どうしたのかよく覚えていない。
大の大人が頭蓋骨を抱いてむせび泣く光景は異様なものだったろう。やがて呆然と立ち尽くしていた人々は現実に立ち戻り、子どものように泣き喚く私から頭蓋骨を取り上げようとしたが、酷い錯乱状態で苦労したそうだ。そして意識を失ったらしい。
私は診療所で目を覚ました。医師が意識確認と、簡単な状況説明をした後、診察室に母と弟を呼んだ。二人とも赤く腫れぼったい目をしている。
「ごめん、心配かけた」
「よかよ、あんたが無事なら、よかよ」
母はしきりに私の頭を撫でる。不思議なもので、この歳になっても母の声と掌は安心する。しかし流石に恥ずかしいので、やんわりやめてくれるよう頼む。すぐにやめてくれたが、今度は手を握って放さない。
私の側を離れようとしない母に代わって、弟が医師から説明を受けている。意識レベルも問題なく、外傷もなく内臓にも異常は見られないそうだ。しかし今後、急変する可能性もあるから注意しておくように、だそうだ。
「歩けるね? 車椅子借りようか」
「大丈夫。ちょっと力が抜けてるだけだから」
帰宅の許可がおりたので、ベッドから降りてふらつく私に弟が不安気に駆け寄ってきた。肩を貸すと言う弟の提案を断り、母の車椅子を杖代わりに押して歩いた。
診察室から出ると、受付以外は電気が落とされていた。壁の時計に目をやると、日付けが変わるところだった。そんなに長い時間意識不明だったのか。
支払いは後日でいいと言われ、うっかり手ぶらで駆けつけた二人も胸を撫で下ろして診療所を後にした。
家に着くと、玄関を開けるなり弟嫁が転がるようにリビングから出てきた。もう遅いというのに、甥も顔面蒼白な顔で出迎えてくれた。
「二人にも、心配かけた。すまなかった」
「いいんですよ、無事なら、それで」
「お、おれは怒っとるよ! 伯父さんが倒れたら誰がおれの勉強見ると!」
そう言って弟嫁は目頭を押さえ、甥は涙目で殴ってきた。
なんだ、私はちゃんと、この家の家族だったのだ。勝手に距離を感じていたのは、私の方だったのか。
騒ぎが一段落すると、弟が嫁と息子を寝かせ、残った三人は再び母の部屋に集まった。
「まったく、いきなりふらっと家を出るもんやけん探しに出たら町じゅう大騒ぎやもん。びっくりしたよ」
「重ね重ね、ごめんよ」
「いいよ、本当、無事やったけん……辛かったやろ……」
弟は、夕方の憐憫とは違う、悲しみのような、後悔のような、しかし安堵しているような表情をしている。
「本人」に話してしまった事の後悔か、三十年背負ってきた荷を降ろした解放感か。
私は、町の皆にその荷を三十年も背負わせてしまっていた。私一人が悲劇の主人公ような顔をして、自分一人でそれを背負ったつもりになって、そのくせ逃げ出して、とうとう背負い切れず全て手放し、ただ生きていた。そんな私を皆は守ってくれていた。
「本当は、いつかは思い出して欲しいってずっと思っとった。でも、無理矢理思い出させる事は誰もしたくなかっただけよ」
「……ありがとう」
兄ちゃん──カツ兄の遺体、と言うより遺骨は、明日、明るくなってから掘り出して、後日両親の墓に入れられるそうだ。正確には、警察から帰ってきてからだろうが。遺骨の損傷が激しいので身元確認に時間がかかるだろうとの事だが、あれはカツ兄に間違いない。なにせ、本人がそう言ったのだから。
落ち着いたら、墓参りに行こう。
長年封印していた記憶が戻った事で、その奔流により時折頭痛におそわれたり、ぼんやりすることがあったが、医師が懸念していたような不調はあらわれなかった。母があんまり心配するものだから、大事をとってしばらく通院したが、一月を待たず飽きてしまった。それで病院から戻ったら一番にしようと思っていたことを弟に相談したところ、当時の事情を知る皆を集めて公民館で集会を開いてくれた。自分の足で一軒一軒回るつもりだったが、それでは効率が悪すぎるし、忙しくて捕まらない者もいる、ちょっと大袈裟かもしれないが、皆の予定を合わせて集めた方が良い、とのことだった。
会議室に行儀よく並んだパイプ椅子に座る人々から一斉に注目されながら頭を下げた姿は、テレビでよく見る謝罪会見のようだったと弟が笑っていた。
それでも、誰も私を責めなかった。むしろ、思い出せてよかったと、温かい言葉と優しい視線をくれた。集まった人の中には勿論カツ兄の親戚も居たが、彼らは一番後ろで何も言わずただ微笑んでいた。
なにかがゆっくりと、ほどけていくのを感じた。
その後カツ兄の墓参りを済ませると、やっと三十年前の事故に終止符が打てたような気がした。
カツ兄の親戚に場所を聞いて、一人で行った。
カツ兄、忘れていてごめんよ。助けられなくてごめんよ。俺、すっかりおっさんになっちまったよ。この三十年間、幸せじゃなくて、ごめんよ。
「あの日、言えなかったこと、言ってもいいかい。俺、カツ兄の事が好きやった。勿論、恋愛対象って意味で。都会の大学になんか、行って欲しくなかった。本当は気付いとったやろ、俺の気持ちに……なんであの時、喧嘩なんかしたんやろうね」
あの時、もっと早く走り出していれば。夜に会ったりしなければ。喧嘩なんかしていなければ。この気持ちを打ち明けようと思わなければ。
そんな多くの「もしも」は、考えないようにした。後悔に囚われて前に進む事をやめてしまうのは、誰も、カツ兄も望んでいない。それでなくともこの三十年間、私は一歩も進んじゃいないのだ。幸せになれと言ってくれたカツ兄のためにも、これから幸せになろう。精一杯生きよう。カツ兄の分まで。もっとも、あまり長くはないだろうが。
地元で愛されているなだらかな山脈は、あちこち白く化粧をして、淡墨をこぼしたような空との境が曖昧になっている。青々と牧草が茂っていた土手も今は凍った枯草に覆われている。
吐く息も白く、吸えば臓腑を凍えさせるようだ。
私は今でも土手道を走っている。最早追うものもなく、待つものも居ないのだが、暇を見つけては日が沈むまで走った。
一見何の変哲もない土手道。しかし私にとって、この道は三十年前の私と、今の私とを繋いでいた特別な道なのだ。
カツ兄──待ち人にやっと会えたと微笑んだカツ兄。あれは何だったのだろうか。カツ兄は私と知って声を掛けたのだろう。オカルトには興味がないし、信じてもいない。けれど、あれが何だったにせよ、会えて良かった。
しかし、とうとう伝言はできなかった。
最後に喧嘩別れして以来、少年に会う事はなかった。もう、会う必要もないし、伝言も必要ない。
私はいつも少年と話した土手へ降りた。
ここからは都会への憧れが見える。この田舎町と都会を繋ぐ、いつも車が混んでいる橋。その向こうに霞んで見えるビル。デパートやパチンコ店のアドバルーンが見える事もあった。カツ兄はここでいつも、都会に暮らす人々に思いを馳せていた。
都会に憧れていたのは、カツ兄だった。
私はその背中側、生まれ育った土地の方が好きだった。死んだカツ兄を想うあまり、いつの間にか混同し、カツ兄が死んだショックで、いつの間にかこの地を嫌悪していると思い込んだ。
それももう終わりだ。
私は川に石を投げ、同じように石を投げていた少年の背中を思い浮かべた。
高校生の私は、カツ兄に会えただろうか。
日が沈みはじめたので土地道へ上がると、逆光でシルエットだけになった弟が手を振っている姿が遠くに見えた。
「よかった、まだ帰っとらんやったね」
余程急いで来たのか、肩で息をしている。
「何ね、用なら帰って話せるやろ」
言いながら近付くと、弟はくっくと笑う。
「何がおかしいと」
「いや、すっかり方言が戻ってきたね」
「良いことやろうが」
違いない。言って弟は満足気に笑って、それが本題だろう一枚のメモ用紙を差し出した。住所と電話番号、それと日付けが書かれている。
「これは?」
「婚活パーティーみたいなもんかな」
「今更結婚なんか……」
「こんな田舎じゃ出会いもないやろって、テツさんが伝で探して来たとよ。兄貴は隠しとるつもりやったろうけど、皆知っとるよ。勿論母さんも。だけんオレが店継いだとよ」
弟はニヤッと笑って、婚活パーティの主宰のSNSを見せた。
「……これからどんな顔して生活しろってんだ」
「いつも通りでいいんじゃない?」
私はケラケラ笑う弟に、海外で同性婚をした主宰がパートナーと笑顔で写る写真が表示された携帯を突き返した。
いつか、都会暮らしをやり直したい。カツ兄が憧れた暮らしを、終わりを共にできる人と一緒に。
終
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