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第5話
そんなことを考えて、浮き足立ちながらリビングへ下りた。寸前まで台所に立っていたんだろう。エプロン姿の美女木が公平の顔を見るなりぱっと目を瞠った。
「ああ、ちょうどよかった。さっき大事なこと教えるの忘れたから、部屋行こうと思ってたんだ。ちょっと来てもらっていいかな」
「大事なこと? なんでしょう」
公平も土産物の袋を一旦ローテーブルへ置き、彼の後に続いてリビングを出る。
「ここんちのアメニティっつーかなんつーかその……ベッド周りの必需品についてなんだけどね」
「ベッド周り……あー、はいはい。了解です。大事です!」
歯切れの悪い言葉ではあったものの察しはついて。公平は深く頷きながら応えた。
「それぞれ自分がいつも使ってるのが部屋にあるだろうけど、一応ここと二階のシャワー室にひと通りのストックがあるから。もし足りなくなったら持ってって」
と言いながら、美女木は洗面台下の引き出しを開けて見せる。
「分かりまし──すごい量!」
中には夥しい数のコンドームがメーカー別サイズ別に整然と並んでいた。潤滑剤もチューブタイプにクリームにと、種類豊富に揃っている。なかなかに壮観である。
「こっちのラップみたいなのはなんですか? 初めて見た」
輸入品らしい透明フィルムロールのパッケージには英語で「ヘルスケアフィルム」と商品名が書いてあるだけで、写真やイラストなどのプリントがない。
「あれ。知らない? オメガが首筋の保護するフィルム。肌に同化して、専用の剥離剤使わないと取れないようになってるんだって」
「あー……なるほど。今ってこういうのもあるんですね」
公平は手を打って頷き、ラップによく似たそのフィルムロールを手に取った。裏返してみると、なるほど底面には使い方が書いてある。
バースファクターの発生は一般的に「進化の一過程」と理解されているが、その働きの大部分は未だ謎に包まれている。その最たるものの一つが《ペアリング》という現象だ。
人によって程度の差はあるものの、ラットに陥っているアルファには「性交相手の首筋に噛みつく」という習性がある。そして噛まれたのがオメガであった場合、フェロモンが自分に噛みついた相手以外との性交を阻害する成分に変化するのだ。
これによりオメガは生殖におけるパートナーを限定されることから、この現象は医学的には《ペアリング》と呼ばれている。日本では昔から「番を結ぶ」とか「対になる」という言葉が使われているようで、会話の中でもこちらの言葉の出番が多い。
ペアリングしたオメガのフェロモンは相手のアルファ以外には感受できなくなり、発情期の諸症状もかなり軽くなるようだ。しかしアルファ側は番の相手を乗り換えることができる上に、ペアリングを解消されたオメガはフェロモンが元の状態に戻る過程において高確率で免疫不全を起こし、最悪の場合死に至るという。
現代医療をもってしても、不測の事態に対応した安全なペアリング解消技術は確立されていない。そのため、多くのオメガは護身のため日常的に首筋を保護しているのだ。
「えーと──必要な分だけ切り取って頸部を覆い、定着剤を吹きつけて十秒でプロテクト完了……早い! 塗るタイプのやつって確か、乾燥に五分近くかかりますよね」
公平にオメガのガールフレンドがいたのはもう二年以上前のことになるが、彼女が使っていたのは瞬間接着剤のようなゲル状の物だった。チョコレート色の綺麗な首筋にそのゲルを塗ってあげて、乾くまでの五分がひどくもどかしかったのをよく覚えている。
「確かに十秒は早いけど、ゲルタイプでも最近のは五分もかかんないだろ。……もしかして結構ご無沙汰? ほかにも、なんか分かんないことある?」
どうやら口を滑らせたようだ。美女木は気遣い半分からかい半分といった風情で先輩風を吹かせてくる。恥ずかしいやら悔しいやらで、ついつい眉間に力が入る。
「……研究と博論で忙しかったんですよ。第一、こういうところにでも居なきゃ身内以外のオメガやアルファになんかそうそう会わないでしょ」
「ははは! ごめんごめん、そうだよな。っていうか、俺なんか身内にもいねーわ」
美女木が笑いながら言った声に混じり、玄関から「ただいまー」と別の男性の声が聞こえてきた。と同時に駅で嗅ぎ取ったのと同じ甘い香りが鼻先を掠め、思わず息を飲む。
「おかえりー。おっ、髪染めてきたんだ。いいじゃん春っぽくて」
公平が動揺のまま硬直している横で、美女木はドアから顔を出して声を弾ませた。長く同居しているとフェロモンにも慣れるんだろう。彼は涼しい顔をしている。
しかし公平にはやはり刺激が強く、飲み込んだ息を止めたままジーンズのポケットを弄った。抵抗薬の錠剤の残りをそこへ突っ込んだような気がしたのだ。
「そう? じゃあよかった。ちょっと派手かなーと思ったんだけど」
「いやいや、今さらでしょ。年明けのオーロラみたいな頭に比べたら全然だわ」
そうしている間にも、彼はどんどん自分たちのいる脱衣洗面所へ近づいてくるのが廊下に反響する声とフェロモンの強さで分かる。
公平は「オーロラみたいな頭も気になるし、今の『春っぽくて』『ちょっと派手』らしい髪色もめちゃくちゃ見たい!!」と思いながら、ポケットの底から引きずり出したシートから錠剤を掌に出し、蛇口を捻る。
「びっくりした! 何やってんの!?」
「すみません。ちょっと、喉が渇いて……」
吹き出した水を掌で掬って口へ運んだので、美女木には変な目で見られたし服をしたたか濡らしてしまった。が、そんなのは些細なことだ。錠剤は即効性のあるものではないけれど、心積もりがあるのとないのとでは心理的な負担が違う。
「お、なに? そこにいんの? 新しいアルファの人」
背後で明るい声がして、思わず顔を上げた。鏡越しに目が合って、公平はくらくらするような甘い香りに包まれながらもう一度息を飲む。
第一印象は「綺麗な人だな」だった。グレージュの髪に走るライムグリーンのメッシュはなるほど春らしく、彼の華奢な輪郭や華と色気のある顔立ちをよく引き立てている。
第二印象は「ピアス多いな!」だった。左耳に四つと右耳に三つ、大小様々のピアスが光っている。着ている服こそおとなしめのフレンチカジュアルではあるけれど、髪色といいピアスといい本体はなかなかロックだ。
「初めまして。安斎公平です。よろしくお願いします」
あんまり見惚れてばかりいるのも──しかも、鏡越しに──失礼な気がして、公平は慌てて振り返った。
「初めまして。善行(ぜんぎょう)学(まなぶ)です。こっちこそ何かと面倒かけるだろうけど、よろしくね」
善行はそんな公平の顔を見上げてにこりと微笑み、公平の脇へ体を捻じ込んで手を洗い始めた。ぼーっと突っ立っていて邪魔をしていたのは悪かったけれど、言ってくれればすぐ退いたのに。という思いもなくはない。
「……ちょっとマイペースなとこあるけど、悪い人ではないんだ。善くんはここで一番の古株だから、分かんないことがあったらなんでも聞くといいよ」
そんな公平の思いを察してか、美女木は苦笑を浮かべながら言った。もしかすると善行学という人は、人のことを振り回しがちなタイプなのかもしれない。公平の体感でしかないものの、そういう小悪魔的な人がオメガには多い気がする。
「古株って、善行さんはここに住んでどのくらいになるんですか?」
公平のそんな質問に、善行はハンドソープを泡立てながら「そうだなー」としばし宙に視線を放ってから応えた。
「十七の時からいるから……あ。今年でもう十年めか」
「十七歳から十年!?」
思わず大きな声を出した公平に対して彼は、今度は訝しげに眉を寄せてみせる。
「え? うん。おかしい?」
彼はいかにも「文句あるか」といったような風情でいるが、文句はないにしてもカルチャーショックは隠せない。
「いや、だって、ここにいて……その、パートナーの方とかって──」
「ああ。いないいない。ずーっといない。ここ何年も付き合いたいと思うような相手がいたこともないし、俺はもうそういうのはいいかなって」
「そっ……そうですか……それはそれは……」
足元がふらついたのは、決してフェロモンのせいばかりではない。
公平にしてみれば十年も恋をしていないというのも、簡単に「もうそういうのはいいかなって」と言える感覚も、人様の家庭方針に物言いをつけるのもどうかと思うが──未成年のうちからこんな環境に身を置くというのも、全くもって理解できなかったからだ。
公平だってここ二年ほどは研究に没頭していて恋愛とは無縁だし、だからこそ「誰のものでもないうちは自分の性を役立ててもらえれば」と思ってこの〝メゾンAtoZ〟に入居を申し込みはした。
けれどもし恋人ができたらセックスはその人とだけしたいことだし、恋人が欲しくない瞬間など公平には一瞬たりともないのである。
それにもし公平があと一歳でも年齢が低かったら、家族は誰もここへ入居することに賛成しなかっただろう。ギリギリではあったけれど「公平ももう二十歳になるんだし」ということで賛成を得られた側面は大きい。
「ひどいなあ。そこまで引くことなくない? そりゃ、ハタから見たら寂しいヤツかもしんないけどさあ」
善行は口を尖らせて不服を漏らし、手を拭きながら再び公平を見上げた。どことなく甘えられているような、何かを「おねだり」されているようなその口元がやけに色っぽい。
「別に……そんなつもりじゃ」
性格には少しクセがありそうだけれど、彼のそんな顔については素直に「可愛いなあ」と思った。思ってからすぐ「いやいや、年上の男の人に『可愛い』は失礼だろ!」と反省したものの、反省虚しく胸の内はすぐ「可愛い」でいっぱいになり、思考回路はそのまま一気に「可愛い」から「抱きたい」まで急浮上する。
げに恐ろしきかなオメガ性フェロモン! と公平は慄きながら、極力嗅覚を使わないように口で大きく息を吸った。まともに匂いを嗅いでしまったら正気を保っていられる自信がない。というか、既に相当彼に参ってしまっている気がする。
しかし恋人がいないということは、ある意味チャンスだ。これから自分がその椅子に座らせてもらえばいい。
番を結べば彼だって楽になるんだし、きっと自分を必要としてくれるはずだ。「もうそういうのはいいかな」なんて、強がりに決まっている。
ここで会ったが百年目……ではないけれど、もしかしなくても彼とはきっとここで出会う運命で──。
「オメガにも、恋愛や結婚より仕事や趣味に生きたい奴だっているんだよ。覚えときな」
公平は、彼のそんな言葉で我に返った。
「いやあの、ほんとにそんなつもりじゃ!」
と脱衣洗面所を後にする彼を追おうとしてから、はっと自問自答した。
そんなつもりじゃなくて、それじゃあ一体どんなつもりでいた?
どんなつもりも何も、また自分に都合のいいことしか考えていなかった。禍々しいほどの自己正当化。認知の歪み。本当に恐ろしいのは彼のオメガ性フェロモンではなく、こんなふうに事実を歪めて認識させてしまう自分のフェロモン受容体の方だ。
「……ま、そのうち慣れるよ」
美女木は同情を滲ませてそう発し、茫然自失でいる公平の肩を叩いた。
「善くんのフェロモンは並みじゃないからね」
「やっぱり俺……今、おかしかったですか?」
「うん。かなり。ちなみにあれで、発情期とかじゃないからね」
頭を抱えた公平の耳を、善行の「うわーっ! 何これすげえ!!」というはしゃいだ声が劈いた。それからすぐに、彼はまたどたどたと脱衣洗面所に戻ってくる。
「ケンさん! これもらっていいやつ!?」
公平がリビングのローテーブルへ置いたのを見つけたのだろう。善行は宇宙食のホワイトチョコを握った手を美女木の顔の前へ突き出す。湯本が言っていた「星とか宇宙とか好き」な人というのは彼のことだったのだ。
やっぱり運命を感じる。けれど公平がそう感じてしまうのも、彼の強すぎるフェロモンの成せる業なのかもしれない。
「落ち着け二十七歳児! なんだこれ。宇宙食?」
「……種子島のお土産です。お二人とも、よかったらどうぞ」
公平がそう答えると、善行は世界中の花という花がつられて満開になりそうなほどの笑みで「ありがとう!」と発した。
その笑顔があんまり眩しかったせいなんだろう。「抱きたい!」とはるか上空へ舞い上がっていた公平の思考回路は、激しい動悸とともに「好きだ」に不時着した。
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