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3、触れられる距離だから〈累目線〉

 そして夏休みが終わり、今日から街は新学期を迎える。累がこれから通う高校は、空と同じ地元の県立高校である。  今朝はさっそく、張り切って空の家まで迎えにきた。遠回りにはなるけれど、小学校に上がる頃から日本を発つまで、毎日のように空を迎えに向かった道のりだ。懐かしさに歩調は逸り、あっという間に到着してしまった。  夏休みが終わったけれど、まだまだセミの声は賑やかで、抜けるように眩しい青空が広がっている。ギラギラと照りつける太陽の熱が降り注ぎ、淡い瞳にはあまりにも眩しい朝だ。サングラスが欲しいな……などと考えていると、空が早瀬家の玄関からひょいと顔を出した。 「あ、空! おはよう!」 「おはよ〜。もう、俺が迎えに行こうと思ってたのに! 高校までの道、累は分かんないだろー?」 「いいんだよ、早く空に会いたくてさ。ほら、ここから一緒に行けばいいし」 「ま……まぁ、それもそーだね。じゃ、行こっか!」  ――うわ、空の制服姿……かわいいな、最高だ。  高校の制服は紺色のブレザーにチェック柄のスラックスらしいが、今は夏服の白いカッターシャツである。色白の空は何を着ていてもよく似合う。こざっぱりと短く切られた茶色い髪の毛とも相まって、暑さを吹き飛ばすくらい爽やかだ。  くるんとした大きな目は今も明るい胡桃色。上を向いたまつげに縁取られたアーモンド型の双眸は、表情豊かで魅力的だ。ほっそりとした体つきにしなやかな手足は瑞々しく、少年らしい頼りなげな首筋には、そこはかとなく色香が漂っているように見えてそわそわしてしまう。  出会った頃からかわいかった空だが、十五歳になり再会した今も、身悶えするほどに愛らしいので困ってしまう。  ――これからは、毎日空と一緒にいられるのか……はぁどうしよう、幸せだ……。  と、うきうきしながら空の隣を歩いていると、ふと空が累のほうを見た。……身長が伸びてよかった。上目遣いがかわいすぎる。 「累、制服似合うじゃん」 「そう? ありがとう」 「さすがだなぁ。俺と同じ制服とは思えないよ」 「そんなことないって。空だって、何を着ててもかわいいよ」 「えっ……? あ、ありがとー。けど、この歳でかわいいってのもなー」  一瞬きょとんとした顔をした空だが、やや頬を赤らめつつ素っ気ない口調でそう言った。  空は小学校二年生の頃、スポーツ少年団のバスケットボールチームに入った。学校で練習を行えるという気軽さから、スポーツを始めたというわけである。『習い事と遊び感覚の半々かなー』と言っていたものだが、空は中学、高校とバスケを続けてきたようだ。 「夏休みはほぼ部活だったんだ。疲れたけど、体力ついたし、なんか筋肉もついてきた気がするし、この夏で、俺もちょっとは男らしくなれた気がしててさー」 「男らしく……?」  十五歳の空には、『男らしさ』よりも『色気』ばかりを感じ取ってしまうため、累は反応に迷ってしまった。すると空はむうっと不服げに片頬を膨らませて、ジトっとした目で累を見上げる。 「なに口ごもってんだよ。いーよ別に無理しなくても。どーせ俺のこと、相変わらずチビだって思ってんだろー累はさぁ」 「そ、そんなことないって! ただ僕は……」 「累はいいよねぇ、すくすく背ぇ伸びちゃって」 「空だってもっと伸びるよ、彩人さん、背高いしさ」 「だどいーんだけど」  累は幼い頃から発育が良かったこともあり、十五歳ながらも身長は177センチ。さらりとした金色の髪と淡いスカイブルーの瞳は日本人離れしていて、どこにいても素晴らしく目立ってしまう。  彫りは深く、怜悧な目元はいかにも理知的で、実際成績の方も優秀だ。(だが、小四〜中三までの漢字教育が抜け落ちているため、国語の授業などは不安である)  家庭の事情で孤独がちだった累を見つけ出し、優しい言葉で救い上げてくれたのが、空だった。  保育園の頃、累は自分の容姿が好きではなかった。日本人離れした髪の色や瞳の色は、周りの子供たちとはあまりに違いすぎたからだ。  だが、空はそんな累の瞳の色を『おそらのいろ』と言ってくれた。『きれいだね』『おれのなまえといっしょだね』と言って、笑顔をくれた。  そして、累のことを『かっこいい』と、褒めてくれた。  いつまでも、空に『かっこいい』と思ってもらえる男になりたい、優しくて可愛い空に見合う男になりたい――累はそれを人生の目標に据え、並々ならぬ努力を重ねてきたのである。  その一番の成果が、ヴァイオリンだ。  世界的なヴァイオリニストである母親の指導のもと、五歳からヴァイオリンを始めた累は、美貌だけでなく才能の方も母親譲りであったらしい。出場したコンクールでは、数々の賞を総舐めにしてきた。  母性のかけらも感じられない母親だが、彼女の奏でるヴァイオリンの音色は、累の心を揺さぶった。才能を受け継いだ者の宿命とでもいうのだろうか、同じ楽器を弾いているとは思えないほどに、母親の音色の雄弁さに圧倒された。それは今も同じだ。  早々に母親の偉大さに気づいてしまった累は、親に甘えるということがなくなった。母は、目指すべき目標として存在する『師』のようなもの。母親が仕事で不在の時は別の講師がレッスンを受け持つので、累がドイツでヴァイオリンに触れなかった日は一日もなかった。 ヴァイオリンを弾くには相当な体力がいる。音楽的な感性が備わっていたとしても、それを理想通りに表現するためには、技術はもちろん、莫大な集中力が必要なのだ。  そのための体づくりにと、小学生に上がった頃からスイミングクラブへ通い、学校の陸上クラブに所属していた。レッスンは厳しいし、身体は疲れるし、毎日忙しくて空とも遊べず……ベッドでひとり泣いてしまう日も、数え切れないほどだった。  だが、不思議とヴァイオリンを辞めたいとは思わなかった。  純粋に音楽は好きだし、思う通りに綺麗な音色を奏でることができた時は嬉しかった。  加えて『るいのばいおりん、すごくきれいなおとだね!』とか『こんくーるってなに? えー、いちばんだったの? すごいねぇ!』と、空が褒めちぎってくれるものだから、俄然やる気が出るというものである。空の言葉は、ドイツにいる間も累の心を励まし続けたのだ。  そしてとうとう、若手音楽家の登竜門・ハノーファー国際ヴァイオリンコンクールで最年少優勝を果たし、華々しい経歴を土産に帰国することができた。  クリスマスには、オーケストラを背負っての凱旋公演も控えている。空に直接晴れ舞台を見てもらえるのかと思うと、らしくもなく緊張してしまいそうだ。 「ところで累、俺と同じ高校でよかったの? 音楽高校とか、もっと良い学校だって行けたはずじゃん?」 「高校で教わることなんて大体一緒さ。僕にとって大切なのは、空と一緒にいられるかってことだけだよ」 「……そ、そーなんだ」 「うん。好きだよ、空」 「う、うん、知ってる、けど……」  空はそっけなくそう返事をして、白い頬をほんのりとピンク色に染めつつ、小さくうつむいた。  小さい頃から『好き好き』と言いすぎて、空にも相当な慣れが生じているのは分かっている。だが今でも、こうして照れてくれる空が可愛くて、嬉しくて、今日こそいい返事をもらえるのではないかと期待してしまう。  累の『好き』は、子どもの頃から当然のごとく性愛を伴う愛の告白だった。だが、薄々感じてはいたけれど、空は『友愛』からくるものだと捉えていたらしい。だって、返事はいつも『ありがとー』とか『おれたちなかよしだもんねぇ!』という爽やかなものばかりだった――……  十五になって思うことは、こういう大切な言葉は、ここぞという時までとっておくべきだったということである。累は常々後悔していた。    しかも、空港では再会した感激の勢いのまま求婚してしまった。あれから三日ほど経っているが、空は驚くほどにいつも通りだ。お預けを食らいっぱなしで、レッスンにも身が入らない。  ――時差ぼけで頭おかしくなっただけと思われてんのかな……僕は本気なんだけどな。っていうか、いつだって本気なんだけど。  日本行きの飛行機に乗る三日前から、目はギンギンに冴え渡り、まるで眠ることができなかった。五年ぶりに空に会えることが嬉しくて嬉しくて、指輪をいつどのようにして渡すかということを考えると緊張して、相当おかしなテンションになっていた自覚はある。  もっと時間を置いて、ロマンティックなシチュエーションを準備しようと思っていたはずなのに、『大人びた空→かわいい好き大好き!!!→結婚したい!!』という分かりやすすぎる思考になり、気づけばプロポーズをしていたという有様である。  ――はぁ、僕としたことが。もっとカッコよくキメたかったのに。欲望が理性に勝ってしまうと、つい身体が動いてしまうのが僕の悪い癖だ……。  累ももう十五歳で、心も身体も思春期真っ只中の高校生だ。ここのところ、突然むらむらっと湧き上がってくる性欲を持て余すことも増えてきてしまい、そんなときは自分で発散するしかない。となると、モワモワと脳内に浮かぶみだらな妄想のモデルは、当然のごとく空である。  同い年でありながら、まだどこか清らかさを感じさせられる空。しかも十歳の頃から五年間離れていたということもあり、空のイメージは上書きされずまま清らかなままなのだ。  汚れのない空を相手に、あんなことやこんなことをしでかすという妄想に身を任せてしまうという有様で、賢者モードに移行するやいなや、深い罪悪感にへこんでしまうこともしばしばだ。  こうして再会し、触れられる距離に空がいる。  妄想だけでは満足できなくなってしまいそうな自分が怖い。だが、累には前科がある。  保育園のころ、ぷっくりとしたマシュマロのような空の肌に、何度も頬擦りしてみたいと思っていた。ぷりんとしたかわいいお尻も、つるつるの手足も、水に濡れるとくりくりになる髪の毛も、なにもかもがかわいくてたまらなかった。自分のものよりも小さな空の性器にも、妙に好奇心をくすぐられてしまい――つい手が伸びてしまったことについては、今更ながら自分に引く。ドン引きだ。  空に嫌われたくない。嫌がることはしたくない……だが、募りに募った空への想いを抑え切れる自信がない。  ――そもそも、僕に望みはあるんだろうか。僕は空と結婚……の前に恋人になりたいし、これまでできなかったこと……いやらしいことだってしてみたい。けど空は、僕をそういう相手として認識してくれるの……?  そこまで考えてみて、ふと気づく。  妄想ばかりが先走って、リアルな空が何を考えているのか――実は、知らない。  そもそも、空のセクシュアリティがどっちを向いているのかも、累は知らない。実際のところはどうなのだろう。好きな異性がいたことがあるのか、はたまた累以外の同性に憧れることがあるのか……累はこれまで、空のもっと深くを知ろうとしてこなかった。  その理由はただひとつ。  怖かったからだ。  自分に望みがなかった場合、その絶望は計り知れない。その現実を知ること、受け止めることが怖くて、今までふわふわとした付き合いを続けてきた。まるで保育園児の頃と変わらない。うわべの仲良しごっこを楽しんでいただけなのだ。  これまでは距離に隔てられていたから、それを逃げの理由にすることができた。だが、リアルな空が目の前にいる以上、今まで通りなあなあで流してゆくことは、もうできない。  ――ちゃんと知りたい。空の気持ちを……。  これから累が通う高校の話を軽やかに語る空の声を聞きながら、累は心の奥底で硬く誓った。

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