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6、辛口ジンジャエール

「あのなぁ、累くんさぁ。帰国するなりうちの空に何してくれちゃってんの?」 「……ごめんなさい」  ダイニングに座って腕組みをする彩人の前で、累が深々と頭を下げている。空もまた累の隣で、気まずさ満点の強張った表情で、ちらりと兄の顔を見上げた。  ――……うーん、怒ってる……? 呆れてる……?  普段はだいたいにこやかな彩人が、眉間に深いしわを寄せている。こんな時だが、兄はこんな顔もできるのかと、空は思った。まるで頑固オヤジさながらである。 「……兄ちゃん、ジムのあと店出るんじゃなかったの……?」 「スマホ忘れたんだよ。んで、取りに帰って来てみたら……」  そう言って、彩人はじろりと空を見る。 「空も空だ、何がどうしてこうなってんだ? 兄ちゃん、こういうことには気を付けろって昔から……」 「あ、あの。空くんを責めないでください。僕が悪いんです」  すかさず彩人の間に割って入る累のこめかみには、小さな汗が伝っている。改めて累へ視線を戻した彩人に向かって、累はひたむきな視線を向けた。 「あの、帰国後のご挨拶が遅れて申し訳ありません。空くんに迎えにきてもらえて、僕、とても嬉しくて」 「……ああ、うん。そうだな、まずはおかえり。でっかくなったじゃん、累くん」 「ありがとうございます。……それで僕、空くんに会えて嬉しすぎて、その場で告白しました」 「えっ」 「はっ!? それ別に言わなくてもよくない!?」  累が粛々とそんなことを語り出すものだから、空は仰天してしまう。だが累はちらりと空を見てゆっくりと首を振り、彩人に向き直ってこう続けた。 「その時は、空くんを驚かせてしまいましたが……今日、改めてきちんと告白をして、空くんからOKをもらったんです。それが嬉しくて、嬉しくて……つい、あんなことを。時と場所を選ばず、すみませんでした」 「……うーん」  拳を膝に置き、累はもう一度彩人に頭を下げた。そこまでされてしまうと、彩人もそれ以上文句を言えなくなってしまったのだろう。腕組みをしたまま天を仰いで、「うーん」ともう一度唸った。そして空を見て、こう尋ねる。 「空、ちゃんと考えてOKしたんだな」 「う、うん」 「そっか………………。んー、まぁなんとなく、いつかはこうなるかもって思ってたけどさ〜」  そう言って彩人は立ち上がると、冷蔵庫を開けて辛口ジンジャエールを取り出し、三つのグラスにそれぞれ注いだ。甘みがほぼないので空は苦手な飲み物だが、彩人と壱成はこれを好んで飲んでいる。大人の飲み物というイメージが強い辛口ジンジャエールを、こうして累と空の前に並べてくれるということは……。  ――あれ、兄ちゃん、怒ってない……? 「空もさ、累くんがドイツ行っちゃった後も『るい、どうしてるかなー』とかってずっと気にしてるし、中学に入っても女子に告られても全然なびかないっつーし、こりゃひょっとしてそうなんのかな〜って思ってたんだ」 「ふうん。…………えっ、何で女子に告られたってこと知ってんの!? 壱成にしか言ってないのに!」 「いやいや、壱成、赤飯炊きそうな勢いで喜んでたけど」 「も〜〜〜……」 「それはともかく、まぁ、お互いオッケーなら兄ちゃんはいいと思うよ。うん、おめでとう」  彩人はそう言って、累と空、それぞれのグラスにグラスを軽くぶつけた。そしてぐびぐびと喉を鳴らして、ジンジャエールを飲み干している。つられて空と累もそれぞれのグラスに口をつけるが、ぴりりとした辛さと刺激に、空は渋い顔をした。 「……ありがとうございます。もっと反対されるかと思ってました」  ケロっとした彩人に、累はずいぶん拍子抜けしているようだ。同じく空も拍子抜けだ。ついさっきまでの厳(いかめ)しい頑固オヤジ顔はどこへ行ったのだろう。  だが彩人は、そんな空と累を見てちょっと笑った。 「累くんが空のこと好きなのは、保育園の頃からずーーーーっと知ってたしなぁ」 「はぁ……」 「えっ、そーなの!?」 「いや、バレバレだろ。ていうかお前、ガチ告白されるまで気づかなかったってのが逆にすげーわ。お前、ニブいんだな」 「ぐっ……だ、だって、友情だと思ってたから!」 「ま、そりゃそっか。お前、全然マセたとこなかったもんなぁ」 「何だよそれぇ、俺がお子様だって言ってんのぉ!?」  いきりたつ空を、彩人は笑って「まあまあ」となだめた。そしてまた一口ジンジャエールを口にする。 「一時は警戒してたけど、累くん、あれ以降落ち着いてたし、ドイツでも立派に頑張って帰ってきたわけだしな。向こうでも色々あったと思うけど、いまだに空のこと好きなんて、よっぽどじゃん?」 「……はい、もちろんです!」 「そこまで一途に空のこと好きで、空もそれでOKなら、もう俺は何も言えねーよ」  彩人は何やら少し肩の荷が降りたような顔をして、目を伏せてため息をついた。かと思うと、ずずいとダイニングテーブルの上に身を乗り出して累に顔を近づけ、とんとん、と累の胸を人差し指でつついている。 「ただ、無茶な付き合い方すんじゃねーぞ、いいな? この意味、分かるな?」 「えっ……あ、はい!!」 「あと、空は俺に似てあんま成績良くねーから、こいつの集中力を欠くようなことは控えるよーに」 「分かりました!」 「もう、兄ちゃんそれわざわざ言わなくていーから」 「大事なことだろーが」  身を乗り出したついでのように、彩人は空の頭をぐりぐりと撫で回した。空が「もー、やめてよ」と文句を言うと、彩人は眉を下げて気の抜けた笑みを浮かべた。 「あ、そーだ。壱成に電話で報告しないとだな」 「後でいいって……」 「何言ってんだよ。壱成、累くんが帰国する前から『あの二人どうなると思う?』とかってすっげー気にしてたんだからな。すぐ教えてやんねーと」 「もう……」  派手に反応する壱成の顔が目に浮かぶようだ。空はだんだん恥ずかしくなってきて、ちら、と隣の累を見上げてみる。  すると、累はすでに空を見つめて幸せそうな微笑みだ。背後にキラキラと光り輝く大輪のバラが見え、まぶしさのあまり「ぐぬぅ」と変な声が出てしまう。 「あ……俺、そろそろ仕事行かねーと。そいやお前ら、昼飯まだなんだろ? これでなんか好きなもんでも食ってこいな」  彩人は立ち上がりつつ、ジーパンのポケットから長財布を出し、一万円札をテーブルに置いた。そして、うーんと伸びをしながら間延びした声で、独り言のようにこんなことを言う。 「累くんおかえりパーティ、ちょっと趣旨が変わってくんなぁ……。交際おめでとうパーティ、とか?」 「もういいってば! さっさとお店行きなよ!」 「はは、照れんな照れんな」  彩人はひらっと手を振って、着替えのために部屋に入っていった。  空は累を促して立ち上がると、ありがたく一万円を頂戴し、累とともに外へ出た。    + 「彩人さんのお許しがもらえて、ホッとしたよ」 「あー……うん。そうだね」  二人は近所にあるファミレスに入り、それぞれランチメニューを注文した。累にとっては初のファミレスであるらしく、きょろきょろと興味深そうに周りを見回している。さすが、セレブ一家は違うなぁと空は思った。  ちょうど昼時であるため、ファミレスの中は程々に混み合っている。空にとっては通い慣れた店で、わいわいと賑やな店内はいつも通りの風景だが、今日はそこに累がいる。庶民的な店に累がいるという違和感はさておき、空の日常に累が戻ってきたのかと思うと、なんだか妙に感慨深い。  しかも、今や累は、空の恋人ということになるわけで……。  ――けど、付き合うって……何だろ。これまでと何か違うのかな……まだあんまり実感ないんだけど、こんなもんでいいんだろうか……。 「お待たせいたしましたぁ、ハンバーグランチでございます」 「わぁ、ありがとうございます」  少し疲れた様子でランチプレートを運んできた中年女性のホールスタッフ・中道さんに、累は輝くような笑顔で礼を言った。すると彼女は「あらきれいな子ね〜〜!」と目を輝かせている。ちなみに、中道さんは空の家の近所に住んでいて、このファミレスでパートに勤しんでいる主婦である。空にとっては、顔馴染みのご近所さんだ。 「空くん、お友達? ふたりそろってイケメンねぇ〜〜」 「あ、あー……うん。そう。ずっと海外で暮らしてて、こないだこっちに戻ってきたんだ」 「あらそうなの! へぇ〜お名前は?」  盆を抱え丸い頬をピカピカさせながら、中道さんは好奇心旺盛な眼差しで累を見ている。累はにっこりと愛想のいい王子様スマイルを浮かべて、「高比良累といいます。どうぞよろしく」と言った。 「イケメン一家はお友達までイケメン揃いなのね〜〜! はぁ、眼福眼福♡」 「もういいってば……ほら、お客さん呼んでるよ?」 「あらやだ。じゃあ、またね。いつでも遊びにきてね」  そう言って、中道さんは心なしから軽い足取りで空たちの前から去っていった。空がため息をついていると、向かいで累がくすくすと笑っている。 「なに?」 「なんだか、空のいろんな顔が見られて嬉しいな、と思って」 「えぇ? 嬉しいかなぁ」 「嬉しいよ。ドイツにいる間いつも、『今、空が一緒にいたらどんな顔するかな』って思いながら過ごしてた。だから、今は何をしてても楽しいんだ」 「そ、そうなんだ……」  累と話していると、照れくさい。当たり前だとは思うが、こんなふうに想いの逐一をストレートに伝えてくる相手は、これまで空のまわりにはいなかった。    学校生活を共有してきた友達との付き合いは当たり前のように楽しいし、それが空にとっての日常だった。だが、累が戻ってきた途端、空の心臓はこれまでにない音を立てて騒ぐようになっている。  ――それが、付き合うってことなのかなぁ。……まだいまいち分かんないけど……。  お気に入りのドリアをもぐもぐしながら考え事をしている空の向かいで、累は「美味しい。日本の料理、美味しいね!」と嬉しそうにハンバーグ定食を食べている。空にとっては食べ慣れた味だし、ごく普通のファミレスご飯だが、累はとても楽しそうだ。 「美味しい? ドイツも料理美味しそうだけどなぁ」 「うん、まぁ美味しいっちゃ美味しいんだけど。冗談抜きで、僕は向こうでサンドイッチばっかり食べてたんだよね。ドイツは朝晩は軽食で、昼はそこそこボリュームのあるものを食べる文化なんだけど、学校じゃ弁当だからサンドイッチで」 「そうなの? それでよくそんなでっかくなれたね。もっとハムとかソーセージとかもりもり食べてるイメージだった」 「大人はそうかもね。まぁ、うちは母親も家庭的な人じゃないし、食事はもう適当だったな。……『ほしぞら』の食事が懐かしくなったっけ。美味しかったよね」 「ほしぞらかぁ、懐かしいね。確かにご飯、美味しかったなぁ」  そうだ、幼い頃は、毎晩のように二十四時間保育園『ほしぞら』で晩ご飯を食べていたものだった。晩ご飯だけ、なんてものではない。泊まりの日があれば、三食を保育園で食べることだってあったくらいだ。あまり鮮明に覚えてはいないけれど、保育園での日々は楽しかった。先生は優しかったし、夜を過ごす仲間たちがたくさんいたから。 「……なつかしいなぁ。保育園のことなんて、久しぶりに思い出すよ」 「僕はしょっちゅう思い出すよ。贅沢な日々だったなぁ、毎晩空と一緒に寝られてたわけだし」 「寝……まぁ、そうだね」 「また、そんなふうに一緒に過ごせる時間が、欲しいな」 「へっ……」  少し声を低くして、累はそう言った。その台詞に、どんな意味が込められているのか……ついつい、必要以上に勘ぐってしまう自分に気づき、空は思わず返答に詰まってしまった。  ――だって、俺たち付き合ってるってことは……そういう流れになることだって、あるってことじゃん……?  ついさっき、ソファで迫られかけたときのことを思い出すや、かぁぁぁと顔が熱くなる。空は無言のまま、ぱくぱくと無心でドリアを口に運んだ。そんな空を見つめて、累が小さく笑う声が聞こえる。 「あ……もうこんな時間か。レッスンにいかなきゃ」  微妙な空気を察してか、累がふと話題を変えた。空は少しほっとして、「レッスン、始まってるんだね」と言葉を返す。 「うん、帰国前はバタバタしてて、あんまり練習できなかったからね」 「今もお母さんが師匠なの?」 「いや、昔世話になってた先生に、改めて練習見てもらうことになったんだ。母さん、忙しいしね」 「そっかぁ」 「その先生、今は高城(たかしろ)音楽大学の講師をやってるんだ。そのつながりで、帰国後初の舞台は高城大の学園祭ってことになってて」 「へぇ〜、そうなんだ」 「クリスマスの凱旋公演で共演するプロオケの人たちは、高城音大のOBがメインなんだよ。だからしばらく、レッスンはそこに通うことになってるんだよね」 「なんか……すごいね。こっちでもさっそく活動してるなんて」 「まぁ、僕にはこれしかないからね」  音楽関係の話になると、累は口調も表情も大人びる。ひとりのヴァイオリニストとしてプライドを持って、音楽に向き合っている証拠だろう。  さっきまで、ハンバーグを食べて『おいしい』と笑っていた累とは別人のように見え、少しだけ、距離を感じた。

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