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5、ずっと特別

 新学期初日ということもあって、始業式とホームルームが終わると、今日は午前中で解散だ。  予想していたことではあるが、累の転入先は空のクラスだった。見知った顔があったほうがいいだろうという、学校側の配慮だそうだ。  そしてこれも予想通りだったのだが、転校生として累が教室に現れた瞬間、女子生徒たちから黄色い悲鳴が上がっていた。それは王子様めいた累のルックスのたまもの、ところもあるだろうが、累は海斗に絡んでいた時とは打って変わって、とても愛想よく皆に挨拶をしていたという理由もあるだろう。  よそ行きの累の声は教室の中に心地よく響いていたし、累が少しばかり微笑むだけで、クラス中の女子生徒の目がハートになった。普段は口煩くて厳しい女性担任教師でさえ、累に指示を与える時の声はひどくやさしいもので……。それを見ていた海斗が、『くっそ累のやつ、いいこぶりっ子しやがって』とプリプリしていたものである。 「累ってさ、愛想良くなったね」 「…………そうかなぁ……」 「ん?」  帰り道で再び二人きりになり、空は隣を歩く累を見上げた。……が、どうも累の様子がおかしい。校内にいたときは王子様スマイルを口元に湛えていたはずが、今はえらく虚ろな表情だ。心なしか、頬さえ痩けてしまっているように見え……空は累を二度見した。 「ど……どうしたの!? 疲れた? なんかすごいやつれてない!?」 「まあ……疲れたよね。朝、廊下で三隅の胸ぐら掴んじゃったし、せめて教室では愛想よくしとかなきゃと……」 「ああ、あれかぁ」 「くれぐれも問題を起こすなと、父さんにも母さんにも、言われてるから」 「そ、そうなんだね」  転校早々荒っぽいイメージがつかないように、バランスを取ろうとしていたらしい。問題は起こさないに越したことはないが、ヴァイオリニストとしてのイメージに関わるからだろうか? 相変わらず厳しいご両親なのかなと思うと不憫な気がして、空は累の背中を軽く叩いて励ました。 「大丈夫だって。完璧な王子様スマイルだったよ」 「……王子様スマイル?」 「そーだよぉ。累ってさ、全体的に王子様っぽいよね。金髪で青い目で、顔もきれいで……」 「ねぇ、空」  累がするりと空の手を掴んできた。通学路の川辺の道に出ると、急にひと気が少なくなるのだ。突然のことに驚きつつ顔を上げると、累は例えようがないほどに物悲しげな顔で空を見つめているではないか。空はぎょっとしてしまった。 「ど、どうしたの!?」 「……空に、どうしても確認しておきたいことがあるんだ。二人きりで話したいんだけど……」 「えっ!? あ、あー……うん、じゃあ、うちくる?」 「……え、いいの?」 「い、いいよ?」  ――どうしたんだろう。なんか様子がおかしいな……。  放っておける雰囲気ではなかったため、空は累とともに自宅まで帰ってきた。平日のこの時間、普段は兄がいるはずだが、今日はジムへ行ったあとそのまま店へ出ると言っていたはず……。  鍵でドアを開けて中を窺うと、やはり家の中はしんとしていた。別に、同性の同級生を家に上げるくらい普通のことだ。だが空が低学年の頃、彩人がことあるごとに『なぁ空、累くんに何もされてねーよな?』と尋ねてくるものだから、若干気をつけるようになっている。  何でも保育園時代、累は空を相手にセクハラをした過去があるらしい。だが空は、当時のことをあまり覚えていないし、小さい子ども同士で『ちんちんさわってやるー!』的なふざけあいは普通にあることなのではないか……などと呑気に考えている。そのため、彩人のことをつい『説教くさい』と思ってしまうこともしばしばだ。 「お邪魔します」    礼儀正しく口にしながら家に上がり込んだ累は、懐かしげに早瀬家の中を見回している。空調をつけ、飲み物を適当に用意したあと、空はリビングのソファに累を座らせる。そして、「聞きたいことって、何?」と累に尋ねた。 「空……彼女が欲しいっていうのは、本当?」 「えっ?」 「朝、三隅との会話でそう言ってたろ。……どうなの?」 「え? あー……いやあれは、会話の流れで」 「本当に? じゃあ、はっきり教えて。僕のことはどう思ってる? ただの友達? それとも」  ずい、とソファに座った累が上半身で迫ってくる。隣に座っていた空は避ける間もなく、そのまま軽くのけぞった。    累の目つきは、これまでに見たことがないくらい真剣だ。言い逃れする隙など与えはしないといわんばかりに、まっすぐ空の瞳を射抜いてくる。 「累……?」 「僕はこれから先、空の恋人にしてもらえることって、ありうるのかな」 「えっ……!? あ、あの、空港で言ってたことって、本気だったの!?」 「……本気、本気だよ。空は昔からそう思ってなかったみたいだけど、僕はずっと本気だ。四歳の頃からずっと、空が好きで、空の特別になりたくて」 「四歳」  そこまで言って、累は「くっ」と呻きつつ目を固く閉じた。顔色は蒼白だし、真一文字に結ばれた唇は震えていて、見ている空のほうが「あわわわ、どうしたの!?」と泡を食ってしまう。 「でももし……っ、空に好きな女の子がいるとか、彼女が欲しいっていうなら……僕は……いや、いや……っ、諦められるわけないけど、けどっ……」 「ちょ、ちょっと待って! 俺、別に、本気で彼女が欲しいとか思ってないよ!」 「……えっ?」 「朝のあれは……海斗がああ言うし、周りの友達はみんな揃ってそう言うから、そんなもんなのかなと思ってはいるけど……。実際、よく分かんないんだ。俺、これまで好きな子いたことないし」 「……そうなの?」 「それに累は俺の特別になりたいって言うけど、……累はずっと、俺にとっても特別だよ。どういう意味かって聞かれると、説明するのは難しいけど……」  物心つく頃からずっと一緒にいて、理解していた意味は違えど、ずっと好意を告げられ続けてきているのだ。恋愛的な感情のあるなしにかかわらず、意識しないでいられるわけがない。  尊敬できるところのたくさんある累に、いつも特別に優しくしてもらってきた。それが嬉しくて、誇らしかったのは確かだった。  『累がいる』という感覚に、自分は満足してしまっていたのかもしれない――不意に空はそう思った。空に愛の告白をしてくる女の子も数人はいたけれど、空は彼女たちとの付き合いを受け入れなかった。満たされていて、それ以上を欲しいと思わなかったからなのかもしれない。  だが、いざこうして累の望みを知ってしまうと、再び湧き上がるのは疑問である。 「累はどうして、そんなに俺にこだわるの? 小さい頃から思ってたんだ。で……五年ぶりに再会して、今も俺のこと好きって言ってくれるけど……正直、どうして俺なのって思うわけ。累はこんなにかっこよくて、ヴァイオリニストとして認められて、すごいやつに成長したのに」 「……空」 「俺みたいな小市民、釣り合わないじゃんって。累は、音楽の世界でたくさんの才能ある人たちと出会ったでしょ? なのに、何で俺なのかなぁ……ってさ」 「……『るいくんのおめめ、おそらのいろみたいですごくきれいだね』」  突然幼い口調になった累を見上げて、空は目を瞬く。  そんな空を見つめたまま、累は甘やかな微笑みを浮かべた。 「それ……俺が言ったこと?」 「そう。その瞬間、僕は空を好きになった。空にとっては何気ない一言だったかもしれないけど、僕はすごく嬉しかったし、救われたんだ」 「そ、そうなの……?」 「ドイツでの生活も、ヴァイオリンも、全部、空にかっこいいっていってもらいたくて頑張った。……馬鹿みたいって思うかもしれないけど、僕にとって空の言葉は、それくらい重く響くんだよ」 「へっ……」 「好きだよ、空。……好きなんだ」  ゆっくりと噛み締めるようにそう語る累の言葉は、純粋に空の胸を打った。幼い頃から、こんなにも空の存在を大切に想っていてくれたのかと。ほんの数センチ先にある累の物憂げな瞳の揺らめきに、どうしようもなく心が騒ぎ始めている。  また同時に、こうも想いの詰まった累の『すき』を、よくサラッと流せていたものだ――と、自分のニブさにも衝撃である。 「僕はね、空とずっと一緒にいたい。抱きしめたり、キスもしたい。もっと、それ以上のことも……したいよ」 「……へっ」 「でも、空が嫌がることはしない。子どもの頃、心に誓ったから。……でも、空がこの気持ちを受け入れてくれるなら、僕は一生、空のことを大切にする」 「い、一生……」  膝の上で強張っていた空の手を、累がそっと握り込む。繋ぎ慣れた手だと思っていたのに、いつの間にこんなに大きく、頼もしい手になったのだろう。  累に触れられた肌が、じわじわと熱を湛え始めている。  こうしてひたむきに見つめらるだけで、心臓が暴れ出すのが分かる。これまでに感じたことのない、激しい胸の高鳴りだった。  ――累の目、すごく必死だ。……本気で俺のこと、好きなんだ……。  切なげに眉を寄せ、緊張のあまり頬を紅潮させ、空を求める累の表情に、いいようのない感情が湧き上がる。  しばしの沈黙のあと、空はこくりと頷いた。 「……わ、わかった」 「え……?」 「累の気持ち……すごくよく分かった。うん……」 「……その返事は、どっちの意味なの?」  確信を求めるように、累はやや早口でそう尋ねてきた。なぜだか急に累と顔を突き合わせていることに照れを感じ始めた空は、ゆるゆると目をそらしながら、こう言った。 「……いいよ、って意味」 「それは……僕と付き合ってくれる、ってこと?」 「うん……そういう、こと」 「え!!?? ほ……ほんと!? ほんとに!? ねぇ、無理してない?」 「してないよ。累の気持ち……嬉しかったし」 「うわ……空。ほんとに? ああ良かった……良かった……!」 「うわ!」  ぎゅう、と抱きしめられた拍子に、そのままソファに倒れ込む。空の髪に頬擦りをしながら、累は何度も「ありがとう、嬉しい」と囁いた。 「空……好きだよ、大好きだ」 「うっ……うん、ありがと」  真上から愛おしげに見つめられ、指の背で頬を撫でられる。今にも泣き出しそうに潤んだ累の瞳は、キラキラと輝く高貴な宝石のようだった。あまりにも美しいその瞳と視線を絡ませていると、まるで魔法にかけられてしまったかのように、頭の芯がぼうっとしてくる。……が、この体勢はやばい。  ――な、なんか……この雰囲気って……。  『空の嫌がることはしない』と言ったけれど、累は今にも空を抱いてしまいそうな雰囲気を醸し出している。どう考えてもこの体勢はまずい。  ――ちょ、ちょっとまって、これ、この雰囲気やばいよな……俺、ま、まだ心の準備が……。  ふと、累の唇に視線が吸い寄せられる。  淡い微笑みをたたえた形のいい唇が、今はいつもよりも赤く艶めいて見えた。累もまた高揚しているのだろう。  ――累、すごく嬉しそうな顔してて、かわいい……。キスくらいなら、されちゃってもいいかもしれない……。 と、ぽや〜んとした頭で空がそんなことを思い始めた瞬間、不意にリビングのドアが開く音がして……。 「あれ、空。もう帰って…………って、おい!! 何やってんの!?」 「え……え!? うわぁぁぁあ!!」  仰天するあまり、上にいる累を思い切り突き飛ばし、かばりと上体を起こした空の視線の先には――  愕然とした表情を浮かべた兄・彩人の姿があった。

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