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12、怪我の理由?

   指は折れてはいなかったけれど、そこそこにひどく突き指をしてしまっていたようで、全治するには三〜四週間かかるかもしれないと医師に言われてしまった。  一人で帰宅した空は、ガチガチに包帯で固定された右手を持ち上げて、「はぁ〜〜」とため息をつく。利き手は右なので、食事をとるのも一苦労だ。入浴や洗髪などにも普段よりかなり時間を食いそうで、今から憂鬱である。 「……壱成、びっくりするかな。兄ちゃんには呆れられそうだし……」  家族にどう説明すればいいのかと考えるだけで、また自分が情けなくなってしまう。ふと、空は自分が部活動中の格好のままだったことに気づき、汗を吸ったシャツを着替えるべく立ち上がった。  その時、ピンポーンとインターホンが鳴り、同時にドンドンドン!! とドアが叩かれる音が玄関に響いている。 「空! 空っ! 僕だよ、開けて!」 「る、累……」  切羽詰まったような声でドアを叩いているのは累である。一応、病院の待合室でメールを打っておいたのだ。それを見て、すっとんで来てくれたのかもしれない。 「空! ……怪我したって、大丈夫!?」 「だ、大丈夫だよ。ていうか、ご近所さんがびっくりするから……」 「あ……! ご、ごめん」  累を家の中に招き入れると、累はリビングやキッチンを見回して「壱成さんは?」と尋ねた。 「壱成、今日は接待で遅くなるってさ」 「そうなんだ……あっ、空、その手」  リビングの灯りの下で、累は空の右手を見て愕然としている。怪我の理由が理由なだけに気まずさを禁じ得ない空は、ぽりぽりと左手で頬を掻いた。 「部活中にちょっと……ね。あ、でも折れてないから」 「そうなの!? 学校で三隅とばったり会って、『空の指、二、三本折れてるかもしんねーぞ!!』って言うから、大慌てで来たんだ」 「えぇ!? もう、海斗のやつ大袈裟なこと言って……」 「座って、空。僕にできることがあったら何でも言ってよ」 「だ、大丈夫なんだけど……」  と言うものの、累は空をすとんとダイニングに座らせ、自分もキッチンに立って手を洗う。そして、コンロに並んでいるフライパンや鍋の蓋を開けて、「空の晩ご飯だね、僕が準備するよ」と言うのだ。 「なんか悪いなぁ……。あ、累も食べて行かない? にいちゃん、いつも多めに作るから」 「あ……うん。じゃあ、そうさせてもらおうかな」 「累んちのご飯は大丈夫?」 「うん、全然」  累は制服のジャケットを脱いで腕まくりをすると、キッチンのカウンター越しににっこりと優しい笑顔を見せた。累が早瀬家のキッチンにいるという図に違和感を感じずにはいられないが、美形は何をしていても様になるものだなぁと、空は妙に感心してしまった。  コンロに火がつく音や電子レンジが稼働する音、そして少しずつ部屋を満たす夕飯の香りに、空の腹の虫が素直に反応している。 「麻婆豆腐だね。美味しそうだなぁ、彩人さんが作るの?」 「うん。結構美味いんだよ」 「へぇ、すごいなぁ」 「何か、結構好きみたいなんだよね、料理作るの」 「そうなんだ。うちの母親にも見習ってほしいもんだな」  そう言って苦笑しながらも、累は手際良く夕飯の支度を進め、空の前に並べてくれた。瞬く間に完成した夕飯をおっかなびっくり左手で食べていると、累は向かいの席から隣へと移ってきた。 「右手が使えないと不便だろ? はい、あーん」 「あ、あーんて……」 「ほら、口開けて」  甲斐甲斐しく世話をされることに照れを感じてしまうわけなのだが、累はどこか楽しげに空に食事を取らせつつ、自分も器用に食べ進めてゆく。そしてふと、累は気遣わしげに空の瞳を覗き込んできた。 「この怪我って……ひょっとして、僕のせいかな」 「えっ!? な、なんで。そんなわけないじゃん!」 「最近空、ぼうっとしてることが多い気がして」 「あ、あー……」  どうやら累にも、ここのところの上の空はバレていたらしい。高城音大の学園祭ももうすぐだし、凱旋公演の練習でも忙しい累を心配させたくはないのだが……。  しかし、澄み渡る青い瞳が不安げに揺れているのを見つけてしまうと……それ以上ははぐらかせなかった。 「ちょっと……色々、累とのことが……刺激的すぎて」 「刺激的?」 「う、うん……あの。いつかヴァイオリン聴かせてもらったときのこと、とか」 「ああ……」  空がためらいがちにそう言うと、累は少し申し訳なさそうに眉を下げた。そして小さく俯いて、こう言うのだ。 「ごめん。これでも必死でセーブしてるんだけど……どうしても、二人きりになると手が出ちゃって」 「あ! いや、別にそれはいいんだよ! ただ俺がちょっと……慣れてないだけで」  むしろ何もしてもらえないのはちょっと寂しい、とまでは恥ずかしすぎて言えなかったが、累はさっきよりも少し表情を緩めて頬んでくれた。空も少しほっとする。 「累はすごいね、学校でもいつもキラキラ王子様スマイルで、余裕でさ」 「キラキラ……そうかな」 「そうだよ。俺なんて、あれ以来ずーっとなんか、悶々しちゃって」 「いや……そんなことないよ。僕だってずっと、空を見るとドキドキして……いや、違うな。どっちかっていうと、ムラムラしちゃって」 「む……」  ひとつも恥じらうことなく俗っぽいことをさらりと言ってのけてしまう累である。逆に空が照れてしまって、かぁぁぁと顔が熱くなってしまった。 「キスしてる時とか……空、すごくかわいくて。もうこのままセックスしたいって、毎回思っちゃうくらいなんだ」 「セッ…………」 「このあいだフェラさせてもらったときも、必死で声を殺して僕のシャツを掴んでる空が、かわいくてかわいくて……。でも、ごめん。そのせいで空をぼんやりさせた上に怪我までさせて……。彩人さんに怒られるな……」 「……」 『セックス』だの『フェラ』だの、どうして累はこんなに恥ずかしい単語を流れるように口にできるのだろうかと、空の混乱は止まらない。だが、累はしゅんとしてしまっているし、彩人の名前も出て来たので、空も若干冷静になるというものである。 「兄ちゃんは関係ないって。……ほんと、気にしないでよ。累は練習にだけ集中してて」 「いや、そういうわけにはいかないよ」 「だって、高城音大の学祭、来週末でしょ? 俺も楽しみにしてるんだからさ」 「……うん」  そう言って空が笑って見せると、累もようやく白い歯を見せて笑ってくれた。包帯の巻かれた右手に、そっと累の手が重ねられる。 「……ありがとう」 「ううん。あれからどう、嫌味な関西人」 「まぁ、何かしらちょこちょこは言われるけどね。けど、空のために弾くんだってことをちゃんと思い出せたから、もう動揺することはないよ。弾き慣れた曲でもあるし」 「そっか、さすが累だね」 「へへ……」  ただ思ったことを口にしているだけなのに、累は空のその言葉を聞き、嬉しそうに頬を赤らめた。そうして笑う顔はうっとりするほどにきれいで、かわいくて、空もついついぽーっとなってしまう。相変わらず、累の顔の良さにはまだ耐性がついていないのかもしれない。 「……空」 「ん?」 「キスしてもいい?」 「えっ!? な、何でいきなり……」 「もうちょっとしたら帰らなきゃいけないし。少しだけでも、空に触れたくて」 「……あ、うん……そうだね」  そっと持ち上がった累の左手が、空の頬にそっと触れた。楽器を支え、常に弦を押さえているせいだろう、累の左手の指先には硬さがあり、触れられたときに独特の感触があるのだ。それが妙にくすぐったくもあり、累に教えられ始めた性感を刺激するようでもあり……空はふるりと身体を小さく震わせた。 「ん……」  少し遠慮がちに重なった累の唇が、心地良い。こうしてキスをするようになったけれど、回数はまだ数えるほどだ。いつぞや突然のディープキスに驚いて累に歯を立ててしまったけれど、ただ唇を食まれるだけでは、何だか物足りない気持ちになっている自分に気づく。  だが、累はあくまでも紳士的な態度を貫こうとしているらしい。角度を変え、軽くリップ音をさせながら、空の唇を柔らかく啄んでいる。そして時折、うっとりするほどに、しっとりと淫らなため息を漏らすのだ。その吐息に、空の理性がぐらりと揺れた。 「るい……」  先をねだるように空が薄く唇を開くと、累は少し顔を離して、濡れた瞳で空を見つめた。そしてふっと淡く微笑むと、今度はさっきよりも深く、唇を奪われる。 「ん、は……」  するりと挿入される累の舌にも、もう驚くことはない。熱く濡れたそれで口内をゆったりと撫でられることが、痺れるほどに気持ちが良かった。傷ついていない左手で思わず累のシャツを握り締めると、累は「ハァ……」と色っぽい嘆息を漏らし、さらに深く空の舌を求めてきた。 「そら……」 「ぁ……はぁっ……」  耳やうなじを撫でられながらのキス。ただそれだけのことなのに、空の全身はこれまでにないほど熱を燻らせていた。間近で空を見つめる累の青い瞳が、いつもよりもずっと深い色に見える。欲してもらえているということが、肌から直に伝わってくるようだった。  だが累は、欲望を振り切るようにギュッと目を閉じ、俯いた。そして、空の肩に額を乗せて、「はぁ……」と長いため息をつく。 「……累?」 「空とキスするの、すごく気持ちが良くて……けっこう、限界」 「あ……う、うん……」 「あぁ〜早く終わらないかなぁ、学祭も、公演も」 「もう……何言ってんだよ」  累がどちらのイベントにも熱を入れていることを知っているのだが、それを凌駕するほどに、早く空とイチャイチャしたいのだろうか。素直にそんなことを言う累が可愛くて、空はふふっと小さく笑い、肩に乗ったままの累の頭を撫でた。 「学祭終わったら中間試験だよ。累、文系がんばんないと」 「ああ……そうだった」 「し……試験勉強、一緒にする? 俺、文系は得意だし……」 「試験勉強……どこで?」 「お、俺んちか、累んちか……ふたりで」 と、言ったはいいが、一気に顔が熱くなる。  ――う、うわ……俺何言ってんだよぉ……!! こんなん露骨すぎじゃん、『試験勉強にかこつけてエッチなことしよう』って誘ってるってモロバレじゃん……!!  だが、すっと顔を上げた累の表情は、キラキラと明るいものだ。嬉しそうに顔を綻ばせ、「うん、いいね。試験勉強、一緒にしよう」と弾んだ口調である。 「で、でも、ちゃんと勉強もするんだからね? 勉強メインだからね!?」 「分かってるよ、もちろん」 「ならいいんだけど」 「でも……楽しみだね」 「うっ……」  勉強する気などさらさらありませんとばかりに清々しい笑顔を見せる累のまばゆさに、空の目も細くなってしまう。  ちょうどその時、机の上に置いてあった空のスマホがガタガタと震え出した。見れば、壱成からのメッセージを着信している。 『今やっとメール見た!! 怪我したってどういうこ!?』『何かいるもんある!?』『秒員いったの!?』と、接待で酔っているのか慌てているのか、誤字だらけの壱成のメールに、空は思わず笑ってしまった。

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