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15、信頼の微笑み
まさか自分が、音楽大学なんて場所に足を踏み入れることになろうとは。
空は目の前に広がる広々としたキャンパスを見渡して、「うわぁ……」と感嘆のため息をついた。
「すっごいねぇ、きれいな学校だぁ」
「本当だなぁ。俺も音大なんて初めてだよ」
と、弾んだ声を出しているのは、『累くんのステージすげぇ見たい』と言ってついてきた壱成だ。彩人も聴きたがっていたのだが、あいにくの仕事である。
Tシャツの上にジャケットを羽織り、ジーパンとスニーカーといういでたちの壱成は、まるで大学生のように若々しい。
空の目には、壱成の容姿は物心ついた頃からさほど変化がないように見えるのだが、壱成自身は時々『なんか老けてきたな……疲れもとれねーし』とぼやいている。だが、こうして音大のキャンパスを楽しげに見回す姿は、新鮮な刺激にはしゃぐ若者そのものだ。
「あ、壱成。看板出てるよ。あっちの中ホールだって」
「うん、了解。それにしても、どの建物もお洒落すぎ。音大ってほんと金かかってんなぁ」
「学費も高いんだよねぇ?」
「そうそう。庶民には敷居が高いところだけど、まぁ累くんちなら余裕だろーね」
「累、この大学に進むのかなぁ」
「まぁ、国内ではここがトップクラスだしね。けどひょっとしたら、海外の大学っていうことも……」
と、言いかけて、壱成ははたと言葉を切り「まぁ、せっかく帰国したんだし、また海外に戻るってことはないか」と言い直した。
「海外、かぁ……」
「そうなったら寂しいよね、空くんも」
「……うーん……そうだなぁ」
累が世界へ羽ばたいてゆくべきヴァイオリニストだということは分かっている。高城音大 よりももっと、もっとハイレベルな音楽大学へと進む可能性はゼロではないだろう。
累が音楽に対してストイックなことも理解している。さらに上を目指すのならば、国内の舞台だけでは満足できないかもしれない。
だがそうなると、空と累はまた離れ離れだ。せっかくこうして再会し、気持ちを通わせるようになったというのに、それはちょっと……いや、かなり寂しいな……と空は思った。
ちょっとへこみかけて、ふと壱成の視線を強く感じて顔を上げる。
「な、なに?」
「ううん。空くんもさ、なんだかんだ言って累くんのこと大好きなんだな〜と思って」
「えっ。……そ、それは」
「照れなくて良いじゃん。ちっちゃい頃から、あれだけ毎日のように愛情を注がれてたんだもんね。空くんの中でも、累くんが特別な存在になるのは分かるなぁ」
「……」
幼い頃からのあれこれをよく知る壱成にしみじみとそう言われてしまうと、空も素直に照れてしまう。熱くなる頬や耳を持て余しながら中ホールへと歩いていると、広々とした中庭の中央に、突然マーチングバンドが出現して驚いた。
軽やかなテンポでリズムを刻む小太鼓の音と、高らかに響く金管楽器の音が秋空に広がって、一瞬で空気が華やぐ。皆が揃いの衣装に身を包み、一糸乱れぬステップで歩道の上を行進するさまは、日常を忘れるほどの迫力があった。
「わぁ、すごいなぁ〜! 彩人も来ればよかったのにな」
と、壱成は楽しげに拍手を送りながら、にっこり笑って空を見た。空も笑顔を返して、「そうだねぇ」と言う。ここにいない彩人のことを自然と口にする壱成の横顔を見つめていると、空は何故だか安心する。
壱成は、同性でありながら彩人を愛してくれた。そして、血の繋がりもない空を大切に育ててくれた。
累とこうして恋人関係になった今、壱成と彩人がどんな気持ちで一緒になったのかということが、とても気になる今日この頃である。が、何となく照れ臭さが先に立ち、ちゃんと聞くことはできていない。なのでつい、こういう聞き方になってしまう。
「壱成とにいちゃん、本当に仲良いよね。ずっと一緒にいて飽きないの?」
「ははっ、飽きる? そんなこと考えたこともなかったなぁ」
「そうなの?」
「そーだよ。だって俺は彩人といて毎日楽しいし、幸せだし……空くんが大きくなって、最近もっと楽しいし」
「わっ」
ひょいと持ち上がった壱成の手で、わしわしと頭を撫で回される。空が「もー、みんなして俺の頭をなでくりまわして!」と文句を言うと、壱成は明るい笑顔を浮かべた。
「飽きるわけないだろ? こんなに幸せなんだから」
「そ、そっか。……へへ」
「んで、空くんたちはどーなの? 順調? ど……どのへんまで進んでんの?」
中ホールのある丸みを帯びた建物が視界に入っているというのに、壱成は声を潜めて空にそんなことを尋ねてきた。こんなところでそんなこと聞かないでよ、と言いかけた空だが……思い直して、壱成に質問を返してみる。
「壱成もさぁ、にいちゃんと……するんだよね、その……いろいろ……そういうこと」
「え? あ、あー……うん、まぁ……」
「普段さぁ、壱成とにいちゃんて友達みたいな感じじゃん。どうやってそういう空気になるの?」
「えぇ? んーーーー……まぁその、彩人はそういうの上手いから」
「うまい?」
「何て言うかな、俺を甘やかすのがうまいっていうか」
「甘やかす……へぇ〜」
「あのさ、あんま想像しないでくれる? というか……なるほど、空くんたちもそういうことになってるわけだ」
多少照れてはいるようだが、壱成はさもありなんという表情でこくこくと頷いている。壱成こそいろいろと想像してそうな顔をしているため、空は慌てて「いやいやいや!! そこまでじゃないし!」と言った。
「本当に? けど、累くんはいろいろ我慢できないじゃないの?」
「ん、んー……まぁ、累はもっといろいろしたいみたいなんだけど、俺……そんな空気になると本当恥ずかしくなっちゃって、いまだに慣れなくて……」
「へぇ〜〜〜〜そうなんだ。かわいいなぁ空くんは」
「……うう」
半球体を思わせる洒落た建物の入り口で受付を済ませると、壱成と並んでホール内に入ってゆく。空と壱成は演者の身内ということで、招待状を持っているのだ。ステージから程近い場所に特別席を設けてあるという好待遇だ。
開始時間まではまだだいぶ時間があるはずだが、ここにはすでにたくさんの人で溢れていた。若い女性の姿が多く、累目当ての女性客だろうか……と空はあたりを見回した。
「なんか立見まで出てるね。これ、累を見にきてる人たちかなぁ」
「そうだろろうね。音楽界では有名人だっていうじゃん?」
「すごいなぁ……」
改めて、自分とはかけ離れた世界で活躍する累の姿を客観的に見せつけられたような気持ちになる。座り心地の良いクッションに身を委ねながら、空は譜面台だけが置かれたステージの方へ視線をやった。
婉曲した白い壁の真上には窓があるらしく、自然の陽光がステージの床板をほんのりと白く照らしている。ぴかぴかに磨かれた木製の床、そこに四つ並んだ飴色の椅子――そこに演者がいなくとも、まるで絵画のように美しい眺めだった。
累がこの二月あまりを共に過ごした音大生たちとの共演が、もう直ぐ始まろうとしている。なぜだか空は緊張してきてしまって、そわそわと手を握りしめた。
「空くん、どうしたの」
「い、いや、なんかドキドキしてきて」
「大丈夫だよ、累くんミスったりしなさそうだし」
「そーなんだけどさぁ」
軽く汗を含み始めた自分の手をぎゅっと握っていると、『まもなく開演致します、御着席ください』というアナウンスが流れた。フッ、フッ……と客席の照明が一段階暗くなり、ざわついていた聴衆の声が一気に鎮まる。
――わ、いよいよ……。
おそらく累以上に緊張しているであろう空の心臓が早鐘を打つ中、いよいよ客席の照明が全て消えた。演者を待つステージだけが、陽の光を受けて明るく浮かび上がるようだ。
コツ……と微かな靴音がホールに響き、チェロを手にした黒いワンピース姿の女性が、ステージ上に姿を現す。続いて、ヴァイオリンより一回り大きな楽器・ヴィオラを持ったスレンダーな女性が現れ、黒髪を綺麗に撫でつけた、品のいい顔立ちの青年がその後に続く。
青年の手にあるのは、累と同じくヴァイオリンだ。あの人が例の『嫌味な関西人』か……と思いつつ、空も拍手で演者たちを迎える。
そして最後に、黒いスーツに身を包んだ累が颯爽と現れた。拍手が一層高くなり、「ルイくーん!」という悲鳴に近い女性の声まで響いている。
音大生らよりも上背のある累は、ステージの上でもひときわ華やかで目を惹いた。こうしてきちんとステージ用の衣装に身を包んだ累を生で見るのは初めてのことだ。
普段はさらりと無造作に放ってある金髪をオールバックにしているため、累は十五歳とは思えないほどに大人びて見えた。演奏を控え引き締まった表情があまりにも凛々しくて格好が良く、空は開いた口が塞がらない。
割れんばかりの拍手に応えるように、累は唇に控えめな微笑みを浮かべた。そして四人揃って聴衆に向かい一礼する中でも、累の堂々とした立ち姿には抜きん出た存在感がある。大勢の聴衆を前にしても全く動じる気配もない。
天井窓から注ぐ陽の光にきらめく金色の髪は美しく、透き通る青を湛えた瞳は自然体だ。空に気付いて微笑みを浮かべた累は、まさしく音楽に愛された王子様に見える。
――ひ、ひぇ……すっごいな、累……オーラが半端ない……。
他の三人にならって着席し、累はヴァイオリンを構えた。
累の放った一音に音を合わせた三人が、それぞれに視線を交わして頷き合う。いよいよ、四重奏の始まりだ。
聴衆も水を打ったようにしんと静まり、全員の注意がステージの上に集中しているのが、空にも分かった。
重厚で伸びのある低音が、静寂を裂く。ふっくらとした女性演者が抱くチェロの音色だ。
ゆったりとした低音が作り出す音色に層に重ねるように、累のヴァイオリンから、あの耳に馴染んだ主旋律が紡ぎ出された。
――わぁ……。
以前防音室で聴かせてもらった、『カノン』のメロディ。あの時もその音色の美しさに涙してしまったが、複数の楽器と音が重なり、絡み合うたび、音の奥行きがさらに広がるようだった。
美しい旋律がホール中の空間を音楽が満たしてゆくと、観客たちがうっとりとしたため息をひそやかに漏らす。
――すごい……すごく、きれい……。
累もまたとても優しい表情で、音楽を奏でることを心から楽しんでいるように見えた。唇には薄く笑みさえ浮かび、音色に身を委ねることに幸せを感じているようすが伝わってくる。
カノンのリズムに合わせてゆったりとしなる累の腕、弦の上を滑る指先、音の中に揺蕩うように揺れる身体――高らかに、しなやかな音色を生み出す累の姿は、神々しいまでに美しく尊いものに見えた。
隣にいる壱成も、息を飲んで累の姿を見つめている。ついさっきまで普通におしゃべりをしていた壱成だが、今は空の存在など忘れて、空間を支配する音楽の虜になっているようだった。
中盤に差し掛かり、重なり合う音がさらなる盛り上がりを見せ始める頃、累は伏せ目がちだった視線を上げ、隣に座るセカンドヴァイオリンの方を見た。例の嫌味な関西人だ。
すると同時にセカンドヴァイオリンも目線を上げ、呼吸を重ねるように視線を交じらせたかと思うと、同じタイミングで微笑みを浮かべ合った。
それを見た瞬間、空はハッとした。何故だが急に疎外感を感じて……胸が、苦しくなった。
同じ楽器を演奏し、ひとつの音楽を共有する――それは、空には到底できないことだ。
累はセカンドヴァイオリンの男のことをああ言っていたけれど、こうして見事な楽曲を演じる仲間として、心から彼を信頼しているように見える。
累の瞳を見ていれば、彼が何を感じているか空には何となく分かるのだ。セカンドヴァイオリンと時折交わし合う視線、あの微笑み……累の大切な『音楽 』を共に作り上げる音楽家たちとの強い絆を目の当たりにして、気づけば空は、膝の上で拳を強く握りしめていた。
耳の奥にこだまするのは、あまりにも美しく完璧なカノン。
だが空の胸中には、苦い感情がぐるぐると揺らめいていた。
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