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16、やきもちとは

 音楽祭のステージの後も、累は大学広報の取材を受けたり、そのまま凱旋公演の練習に出ねばらななかったりと忙しく、空はそのまま壱成とともに帰宅したのだった。  壱成は『このあと、累くんと学祭回ったりしないの?』と尋ねてきたりしたけれど、どことなく元気がない空の表情に気を使ったのだろう、それ以上は何も言わなかった。  ステージの上で累が輝けば輝くほど、『累にはもっとふさわしい人がいるのでは』と感じてしまうのは何故だろう。空がそう感じるたびに、累は空のそういう想いを上塗りするほどの愛の言葉をくれてきたけれど、すぐ間近で、あんなにも素晴らしい音楽を聴き、圧倒された。仲間たちを満ち足りた笑みを交わし合う累を見て苦しくなった。……卑屈だな、と自分でも呆れてしまう。  帰宅し、壱成と庭でテイクアウトランチを食べている時、空はもそもそとそんなことを語っていた。これまでの特に心乱されることもなく、ほほんと穏やかに生きてきた空には、到底一人で抱えられるような感情ではなかったからだ。  すると壱成は頬杖をついて優しく微笑み、こう言った。 「なるほどね、空くんはやきもち妬いてんのかな」 「へっ……!? やきもち?」 「まぁ俺の目から見ても、累くんとあのもう一人のヴァイオリンの子、すごく親しげに見えたし。信頼関係ができてるんだろうなっていうか……」 「う……心臓が痛い……」 「ああっ! ごめんごめん!」  思わず胸を掴んで項垂れてしまった空の背中を、壱成が慌ててさすってくれる。そう、空が一番気にしているのはそこなのだ。累が『嫌味な関西人』などと言うので、空の中でのイメージはあまり良くなかったけれど、実際の『嫌味な関西人』はどこからどう見ても気品漂う美形だったし、年齢も上で、精神的にもおっとりとした余裕があるように見えた。累の隣でヴァイオリンを弾く姿は優雅で美しく、あの顔でどんな嫌味を言うのかと逆に興味さえ湧いてしまうほどだ。  思い出すだけで、しくしくと胸が痛い。 「ほらほら、思うことは全部言っちゃいなよ」 「うう……だって、だってさぁ。累のやつ、あんなこと言ってたのに、すっごく仲良さそうにしちゃってさぁ……」 「うんうん」 「あんな幸せそうな顔で、一緒に音楽もやれててさぁ……ハァ……もう、ってこんなこと思いたくないけどさぁ……」 「うん……分かるよ」  壱成は空を抱き寄せて、力強く肩を握る。空がゆるゆると顔を上げると、壱成はちょっと微笑んだ。 「それでも累くんは、空くんのことが何より特別で、大好きだと思うけど……どう?」 「う、うん……まぁ、そうだとは思うけど……」 「だろ? 俺はさ、累くんにとっても、ああいう歳の近い音楽仲間がいてくれるのは、安心できることだと思うんだよね」 「安心?」 「うん。累くんてオーラあるだろ? 実際うまいし、神童とか言われちゃてきてるから、どこ行っても浮いちゃうんじゃないかって心配してたんだ。けど音大生の人たちと仲良くやれてる感じだったから、俺はほっとしたよ」 「ほっと……かぁ」  確かに、保育園、小学校と目立ちまくって浮きまくっていた累である。そこに空がくっついていることで、累は『ぼくにもともだちができた』と言っていたものだった。成長するごとに輝きを増す累は、ドイツでも『仲良かったのはひとりか、ふたりか……』なんて寂しいことを言うものだから、日本の高校ではちゃんと青春して欲しい!! と空が張り切ってしまうくらいである。  そんな累が、音楽を通して、ああして信頼できる仲間を得たのだ。そう思うと、壱成の言うことも頷ける。 「……なるほど」 「まぁ、生でステージを見るのは初めてだったしねー。俺も鳥肌たちまくりだったし、今後普通に喋っていいのかななんて思っちゃったし」 「うん……すごかったね。キラキラして、別世界の人みたいで」 「でも累くんは、空くんにそんなふうに思われても嬉しくないかもね。いつも通り、『上手だった』『すごかったね』って褒めてあげたらいいんじゃないかなぁ」 「……うん」  空に『かっこいい』と褒められることが、累のモチベーションに繋がるのだということは、空もしっかり理解している。そう思うと、『嫌味な関西人』に感じていた卑屈な感情がようやく鳴りを潜めていく。 「……俺、だめだなぁ。ジタバタしちゃって」 「だめじゃないよ。それくらい、累くんのことが好きで、大事ってことじゃん?」 「う……うん、そうなのかなー」 「そういう風に見えるけどね、俺には」  壱成はテイクアウトランチのボックスに残っていたブロッコリーをつまみ、ぱくりと食べた。そして空に爽やかな笑顔を見せる。     +  そうして壱成との会話で感情を整理できたのは、空にとっても救いだった。  だからこそ、隣で現代国語の教科書を睨んでいる累の横顔をのんびり見つめられると言うものだ。  累の帰国後、こうして自室に入れてもらうのは初めてのことだ。  壁面にはウォークインクローゼットがあり、床には黒いラグマットに丸いローテーブル、そしてベッドとパイプ棚があるくらいである。  棚の中段にはオーディオとヘッドホンが置かれていて、下段には無造作に楽譜が積み重なっていた。部屋の隅には電子ピアノがうっすら埃をかぶっていて、その上にもまた楽譜。ヴァイオリンはどこにあるのかと見回してみると、ピアノ椅子の上に無造作に置かれていた。雑然としているように見えるが、そこがまた音楽家の部屋という感じがする。 「……ねぇ空、これなんて読むの?」 「えっ!? あ、あぁ……ええとね、うずく、だよ」 「疼く……ありがとう、どういう意味?」 「えっ? ……えーと、なんかこう、じんじんして痛む感じっていうか……」 「ふうん……疼く」  授業は午前で終了し、海斗も交えて三人でファーストフードを食べた後、空は累の家にお邪魔している。そう、紛れもなく試験勉強のためだ。ちなみに海斗は勉強する気などさらさらないので、「へ、まじで勉強すんの? ま、がんばれよ!」と言ってさっさと帰っていってしまった。  そして累の部屋で二人きりになったものの、累はこの間の個別で受けた国語のテストが散々だったこともあり、山のように課題を出されてしまったのだ。累が二年生への進級で理系に進むことは確実だが、そこにも国語はくっついてくる。そのため、やや気が重いようだ。 「ああ……頭痛い。日本語って本当に難しいな……」 「まぁ、覚えるものが多いよねぇ。ドイツでは平気だった?」 「いや……慣れるまで時間がかかったけど、英語コースのある学校に通ってたから、英語でOKだったしね」 「ってことは累、三国語話せるってこと……うわぁ」 「母国語に一番苦しんでるけどね」  そう言って累は苦笑し、包帯が巻かれたままの空の手に視線を落とす。シャープペンシルくらいは握れるようになったものの、まだフラフラな文字しか書けないので不便である。幸い、試験は別室で受けることができるらしく、口頭で解答することを許可されているので助かった。  高城音楽祭が終わって二日が経っているが、空はまだ累にあのステージの感想を伝えていない。どれだけ素晴らしい演奏だったかということを語りたい気持ちもあるのだが、そうなるとどうしても、あの『嫌味な関西人』の端正な姿が目の前をちらついて、複雑な気持ちになるのだ。  ――壱成に話を聞いてもらって、すっきりした気がしてたけど……でも、でも……。  当の本人から色々と話を聞かねば、消化できない部分もあるというものだ。空はシャープペンシルをことんと机に置き、頑張ってさりげない風を装いながらこう言った。 「嫌味な関西人さん、イケメンだったね」 「……え? ああ、石ケ森さん?」 「石ケ森さんっていうんだ。……ふうん」 「ごめんね、ステージの後もバタバタして。一緒に回ったりできたらいいなって思ってたんだけど」 「ううん……いーよ。それに、累には累の付き合いがあるじゃん? その……石ケ森って人とか、音大生の人たちとか……」  空がやたら石ケ森の名前を出すものだから、累も少し怪訝な表情になってきた。こういう時、思っていることをはっきり口にできたらいいのにともどかしくなるけれど、色恋沙汰が初心者すぎてどう言えばいいのか分からず、もどかしかった。 「空? どうしたの?」 「うっ……ううん。す、すごくよかったんだ。累たちの、弦楽四重奏」 「あ……。ありがとう、嬉しいよ。でも間近で空に見てもらうのは初めてだったから、結構緊張してたんだよね」 「えぇ? ほんとに? 全くそんなふうには見えなかったけどなぁ」 「僕は顔に出にくいタイプみたいだからね。……でも、そう言ってもらえると嬉しいな」 「うっ」  安堵したように眉を下げて笑う累がことのほか可愛くて、くらくらしてしまう。だが今は、累の美貌にうっとりしている場合ではないのだ。 「い……石ケ森さんて人のこと、累はすごく、信頼してるって感じがした……」 「ああ……あの人ね。うん、最初はすごく小言を言われたりして大変だったけど、話してみると、尊敬できるところもたくさんある人でさ」 「へぇ……」 「ああして思ったことズバズバ言ってくれる人って、僕の周りにはあんまりいなかったから……なんか、いい先輩ができたなって感じがして、楽しかったんだ」  累の微笑みを見て、空は壱成の言葉を思い出していた。歳の近い音楽仲間がいることで、『安心』するというあの台詞だ。  抜きんでた才能を持つ者は、孤独になりやすいと聞いたことがある。でも累は、ああしてちゃんと仲間を得て、『楽しい』という言葉を口にしている。これまでも累はたくさんのコンクールやステージをこなしてきたが、こんなにも自然な口調で『楽しい』と口にするのは初めてのことだ。  ――……俺、ほんっと子どもだなぁ……。 「……よかったね、累。なんか俺もホッとしたなぁ」 「そう?」 「累ってさぁ、昔から友達できにくいじゃん。でも音大生の友達がいっぱいできたんなら、これから先も楽しくやれそうだなって」 「友達かぁ。確かに、空がいないと僕は全然ダメだから……」 「でも良かった。いろんな意味でほっとした」 「いろんな意味?」  累の顔を見て話をして、ようやくすとんと腑に落ちた。空が屈託のない笑顔を見せると、累もまた、白い歯を見せて笑ってくれる。 「ひょっとしてなんだけど……。空、石ケ森さんにやきもちやいてたの?」 「えっ……? え。な、なんで」 「何となくそんな感じがして。だって空、全然僕の目を見てくれないんだもん。原因があるとすれば、あのステージくらいしか思い当たらないし。今日やたら石ケ森さんのこと気にしてるし……」 「う、うーん」  子どもじみた嫉妬で悶々していた自分が恥ずかしいし、それをあっさり見抜かれていたこともバツが悪い。空が眉間を抑えて唸っていると、累の手が空の右手に重なった。包帯から出ている指先をそっと撫でられ、くすぐったさに「ひぇ」と声が漏れてしまう。 「もしそうなら、嬉しいなって」 「えっ!? な、なんで?! うっとおしくないの?」 「何で?」 「やきもちってさ、累の気持ち、信じてないみたいじゃん。でも俺、そんなつもり全然ないんだよ? ただ……石ケ森さんて人、想像してたよりずっとかっこいいし、演奏中も微笑みあってすっごくいい雰囲気だし、なんかこう……なんかこう……」 「もう……空」  握り込まれた右手の指先に、ちゅ、と累の唇が触れる。頬を染め、うっとりするほど甘い微笑みを浮かべながら、累は空を見つめていた。 「ほんっとに、かわいいね」 「えっ……」 「やきもち妬いちゃうくらい、空は僕のことが好きってことでしょ? はぁ……幸せすぎてどうにかなりそう」 「あっ……あの、累」 「こっちきて、空」 「わっ! ちょっ……」  ぐいと上腕を引かれ、そのままベッドに引きずり込まれてしまった。  ふかふかのベッドにからは累の匂いがふわりと香り、ドキドキと緊張感が高まってゆく。いや、緊張感だけではない。これからここで何をされてしまうのか……その予感に、期待している自分にも気づいてしまう。 「る、るい……! 試験勉強は……」 「ちょっと休憩。……ちょっとだけ」  そう言っていたずらっぽく笑う累の妖艶さに、今度こそ空はめまいを起こした。

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