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20、累とのケンカと大人の恋

 その週末、空はひとりで、忍の経営するバル『hideout』にやって来ていた。昨晩、彩人がここに忘れていった仕事用のスマートフォンを引き取るためだ。彩人自身が取りに寄れば良いようなものなのだが、彩人は壱成とともに友人の結婚式へ出席しているため、空が代理で受け取りにきたというわけである。  昼過ぎの明るい時間帯に、しかも一人でこの店に来るのは初めてのことだ。開店前の店内は薄暗く、しんと静まりかえっていて、夜の営業時とはまるで雰囲気が違う。受け取る物を受け取ったらすぐに退散しようかと思っていたが、忍が「ジュースくらい出すよ」と言ってくれたため、空はそのままカウンター席に着く。何だかちょっぴり大人っぽいことをしているような気がして、ドキドキした。 「はい、これ。彩人のスマホ」 「ありがとうございます。兄ちゃん、俺には忘れ物すんなよとか言うくせに、自分はこうやってちょこちょこ忘れ物するんだからなぁ」 「ははっ、確かにね。いつだったか、彩人、アフターで入ったバーに六百万の時計忘れたことあってさ。マッサにめちゃくちゃ叱られてたな」 「ろっぴゃく……!? はぁ……もう、信じらんない」 「まぁ、店で一番酒に強かったのが彩人だから、僕みたいに飲めないホストの代わりにいっぱい飲んで、盛り上げてくれたりしてくれてたんだよ。そのせいで必要以上に酔っ払わせちゃうこともあったし、半分は僕らのせいだな。ごめんね」 「そうなの?」 「そうさ。うちの店は無理に飲ませない方針だけど、イベントの時とかは、多少はね。君の育児で疲れてるとこで、そういう役回りもこなしたりしてたわけだからさ、そう怒ってやんないで」  カウンターの向こうで、忍が優しい苦笑を浮かべている。空は「そっか……」と呟いてストローを咥え、味の濃いグレープジュースを吸い込んだ。 「で、空くんは何でそんな浮かない顔してるの?」 「えっ? 俺?」 「勘違いかな? 今日はちょっと神妙な顔に見えて」 「はぁ……うん」  図星だ。空は今、胸にもやもやとしたわだかまりを抱えている。  昨日の帰り道、案の定累からちくちくと小言を言われたのである。ここ最近の小山先輩の距離感が若干気持ち悪かったのは事実なので、累が間に入ってくれたことは素直にありがたかったのだが……。  やれ『部室ではどんな風に着替えてるの?』だの『練習中にセクハラされてない?』『他にも空のこと狙ってる男がいるに決まってる』だの『心配すぎて練習に集中できない』……等々、度が過ぎる過保護発言にとうとう空は我慢の限界を迎え、累に『いい加減にしてよ!!』と喚き散らしてしまったのである。  すると累はびくっと肩を上下させて打ちひしがれたような表情になり、しゅんとなって空を見下ろすのだ。 「そっ……そんなに怒らなくても。ただ僕は空が心配で……」 「小山先輩のことは助かったけど! けど、俺は普通に部活してるだけだし、累が心配するようなことなんて全然ないんだってば!」 「けど……」 「俺の部活仲間も、クラスメイトも、そんな(よこしま)こと考える奴ばっかじゃないし!」 「? よこしま?」 「あー……ええと、それは……。お、俺のことをえっちな目で見る人なんて累以外いないっていってんの!」  ちょいちょい日本語の理解が追いつかない累にどう説明したらいいものか分からず、街灯の灯った住宅地の真ん中で、空は大声でそんなことを言い放ってしまった。すると累は目を瞬き、「そうなのかな……空はこんなに可愛いのに」と顎に指をかけて考え込んでしまった。……照れるべきか呆れるべきか、空にはよく分からなかった……。 「だいたい、そっちはどーなんだよっ! 音楽祭の時だってさぁ、上品な美人系ヴァイオリニストの人と同じ更衣室だったって言ってたじゃん! 累こそあっちこっちでモテまくって変なことになってたりしないのかよっ!」 「美人系……? ああ、石ケ森さん?」 「ぬっ……」 『美人系』という単語ですぐにあの青年を想起するのか――と、空は若干複雑な気持ちである。だがそれは置いておくとして……。 「累だって脱いだらすっごいえっちな身体してんじゃん!! 十五歳のくせに男らしい身体しちゃっててさ!! どーせ自分だって、何の恥じらいもなく石ケ森さんの前で脱ぎ散らかしてたんだろ!?」 「僕、えっちな身体なの?」 「えっ……って、今はそこじゃなーーい!! そういうことじゃないの!!」  空は怒っているのだが累は若干嬉しそうである。空はむうっと頬を膨らませて累を見上げた。 「……ええと……まぁ、特に何も気にせず脱いだ、かな。けど別に、向こうは何も思ってないと思うけど……」 「ほら見ろー!! 裸見られてんじゃん!!」 「見られ……てはいた、けど。だからといって何も……」 「向こうは累のこと意識してるかもしんないじゃん!」 「えぇ? してない、よ……」  と言いかけ、累はふと何かを思い出すように遠くを見た。そして、ちょっと首を傾げつつ、こんなことを言うのである。 「そういえば、『君は本当にかわいいんだな』みたいなことを言われたっけ」 「………………はい?」 「あと、『ズボンくらい履けよ』とか、『いい身体してるね』とか……」 「ほっ……ほ、ほら見ろーーー!!! 累だってセクハラされてんじゃん!!」 「いやいや、だってそういう感じじゃなかったもん。セクハラってあれでしょ? いやらしい感じで相手を嫌がらせるっていう」 「ほーーーー、じゃあ累は嫌じゃなかったってことですかぁ!? 年上の美人にそんなこと言われて、喜んじゃってたんですかぁ!? あとは他に何されたんだよっ!?」 「別に喜んでないし、何もされてないけど……」 「けど……? けど何!?」 「何もないってば。ああ……髪をセットしてくれた、くらいかな」 「髪……?」  空の記憶が確かならば、ほんの三十分ほど前に、累は『他の男に髪を触らせるな』と言っていた……。  今まで感じたことのないような感情――苛立ちと嫉妬と悲しみが少しずつ混ぜ合わさったような感情に、空はカーッとなってしまった。 「累だって髪触らせてんじゃん!! 俺の心配ばっかする前に、もっと自分の行動を反省しろよっ!!!」 「あっ……あ、ごめん。けど、あの時は、仕方なくて……」 「なーにが『仕方ない』だよ! 仕方ない状況なら何されても許すっての!?」 「だって、空の前で初めて舞台に立つ日だったし。ちゃんとしてもらえた方がいいかなと思って……」 「くっ……」  そんなことを言われては言い返せない。しかも、空が烈火の如く怒っているので、累はしゅーんと物悲しげな顔になってしまった。ついさっきまで小山先輩に見せていた攻め顔はどこへやらだ。 「た、確かに、かっこよかったけど……」 「……ほんと?」 「そっ……それはそれ、これはこれ!! 俺は今……っ、ええと、何に怒ってたんだっけ……あっ、そうだ! 俺の心配はもういいから、累こそあんまりよそでモテまくってくるなって言ってんの!!」 「別にモテまくってなんかないけど」 「どの口が言う……」 「? この口だけど……」 「だからそう言うことじゃなくて!! ……はぁ、もういいや」  カッカカッカと自分ばかりが怒っていることに、空はとうとう疲れ始めてしまった。これまでのほほんと平和に生きてきた空は、嫉妬することにも、怒ることにも慣れていない。それに、累は心底申し訳なさそうな顔で空を見つめているのだ。……いつまでもプリプリ怒っていることに罪悪感を感じてしまう。  空がやや大人しくなると、累はそっと空の肩に手を回し、ぎゅっと強い力で抱き寄せる。もうすぐ空の家の前なのだが……これくらいならいいか、と空は肩を抱かれながらゆっくりと歩いた。 「空、ごめんね。僕も気をつけるから、怒らないで」 「……もう怒ってないし」 「僕が好きなのは空だけだし、えっちなことをしたいと思う相手も、誓って空だけだから」 「わ……わ、わかってるけど……」  そうして家の前に到着し、名残惜しげに累はそのまま帰っていった。喧嘩は終わったはずなのに、何だかずっと胸の奥が落ち着かないのだ。  ……という話を忍に語り、空は一つため息をついた。  だが、目の前の忍は、どうもにやつきそうになるのを必死で抑えているような顔である。 「……忍さん?」 「そ、そっか……喧嘩しちゃったんだ……。ふふっ……ていうかそれ、喧嘩なの? 僕、今君に派手にノロけられただけのような気がしてるんだけど……」 「の、のろけてないよ!?」 「ふふっ……いや、かわいいなぁほんと……。あの美少年、そういうキャラなのかい? クールそうに見えて、君には頭が上がらないんだね」 「……」 「あっ、ごめんごめん。で、どうしてまだモヤってるの?」  空のジト目を見てか、忍が慌てて笑みを引っ込めた。空はずずーとジュースを啜る。 「……石ケ森さんて人、累のことが好きなのかなぁ……と思うと、何となく」 「へぇ、気になるんだ。君たちの間には、付け入る隙なんて全くなさそうなのに」 「累の音楽仲間で、いい先輩なんだろうなってことは分かるんだ。……今その人、累が一緒に演奏するオケのメンバーにも急に入ってきたみたいでさ、なんかこう……このままずっと、何もないままでいられるのかなぁ、って」 「つまり……その先輩が累くんに惚れてて、いつか手を出してきそうだってことが心配なんだね?」 「ま、まぁ……うん。そんなことないと思うけどね」 「ふうん……」  忍はちょっと身を乗り出してカウンターの上に肘をついた。見慣れているとはいえ、すぐ間近にある忍の顔立ちはやはり美しくも端正で、空はちょっとだけ緊張してしまう。忍はじっと空の目を見つめて、静かな口調でこう言った。 「まぁ、気になっちゃう気持ちはよく分かるけどね。そこは累くんがきちんと対処すべきところだ」 「累が……?」 「そう。今回の喧嘩で、累くんは空くんの気持ちをより理解したと思うよ。今後はきっと気をつけるだろうし、相手に何かされたとしても、累くんならちゃんと突っぱねるさ」 「……うん、そうだね」  もういっぱい呑む? と笑顔でジュースを勧められ、空は苦笑しつつ首を振った。  自分は諭されてばかりだなと、空は思う。累と付き合うようになって、さまざまなことを感じるようになったけれど、その都度抱えるマイナスの感情を、全く自分で抱えておくことができない……。  そう空がぼやくと、忍はおっとりと微笑み、「それでいいのさ、抱え込む必要なんてないよ」と言った。忍は訳知り顔で、空の鼻先をつんつんとつついた。 「それに、君の周りには恋愛経験豊富かつ、恋心を扱い慣れたホストがたくさんいるわけだし……」 「へえー、恋愛経験豊富なんや」  ふと聞こえてきたマッサの声に、空は後ろを振り返った。黒っぽいダウンジャケットとジーパンというラフな格好をしたマッサが、店の中へと入ってくるところである。マッサとは久しぶりに顔を合わせるため、空の表情も明るくなる。 「わぁ、マッサだ、久しぶり!」 「おう、またちょい背ぇ伸びたんちゃう?」  ちなみに、子どもの頃から彼のことはマッサ呼びである。マッサも慣れたもので、わしわしと空の頭を撫で回しながら、隣のスツールに腰かけた。 「恋愛相談かぁ? ちゅーか忍さんて、言うほど経験豊富やった?」 「お前に言われたくないんだよ。ジム行ってたの? 何か飲む?」 「うん、ありがとう」  ちなみに、空はこの二人が長年付き合っていることも知っている。何やら憎まれ口を叩き合っているようだが、マッサが来た途端、忍はにこにことこれまで以上に機嫌が良さそうで、微笑ましい。 「忍さんにアドバイスしてもらえたし、すっきりしたよ」 「ほーん、そっか。こーんなにちっこかったお前も、いちょまえに恋の悩みか……へぇ〜」 「……そんな物珍しそうに見ないでよ」 「相手は噂のイケメン王子様やろ? クリスマスのあれ、俺らまで招待してくれはるっていうやん。リアル王子様、楽しみやなぁ」 「ああ……うん。二人は俺の親戚扱いだからね」 「親戚か。ははっ」  マッサは嬉しそうに笑って、またわしわしと空の頭を撫でくりまわす。  忍が『sanctuary』のオーナーに収まった後に店舗が増え、新宿の一号店はマッサが、そして新たにオープンした六本木の二号店は彩人が、それぞれ店長を務めているのだ。仕事でもプライベートでも共に過ごしているこの二人はどんな喧嘩をするんだろうと思いながら、空はマッサにくしゃくしゃにされた頭を整え直す。 「ねぇ、忍さんはマッサに腹立ったりしないの?」 「おい、何で俺に腹立つ前提で話ししてんねん」 「んー……別に腹は立たないよ? 歳も離れてるし、何しててもかわいいもんさ」 「か、かわいいの!? ……へぇ」 「『どこが?』みたいな目ぇで俺のこと見んといてくれへん? てか、空の前で可愛いとかやめてや」 「ふふっ、まぁいいじゃないか。減るもんじゃなし」  生ぬるい顔で頬杖をつくマッサをからかっている忍は楽しそうだし、幸せそうだ。そんな二人を見ていると、昨日累に向かってやたらめったら怒ってしまったことが申し訳なくなってきた。  自分の周りには、こうしてうまく言っている大人がたくさんいるのに、自分は小さなことを気にしてばかりしているような気がする。もっと大人にならなくては……と、空は思った。

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